悪魔との契約
「いま帰りましたー」
肩をコキコキ鳴らしながら、絹は自宅へと戻った。
帰りのお迎えは、助手君だ。
送り迎えが行われるのは、今日だけ、ということになっている。
歩いて通えない距離ではないし、金持ち学校だからこそ、歩いて通う意味もあるのだ――それはまた、別の話。
「やぁ、お帰り」
眼鏡の奥の瞳を、キラキラさせながら、ボスが出迎えてくれる。
「広井将と接触しました」
カバンをそこらに放り投げながら、絹はボスに報告を入れる。
「あぁ、分かってるよ…一部始終見ていたからね、よくやった」
言われて、ああ、と思い出す。
制服の胸ポケットに、ペン型の超小型カメラが設置されていたのだ。
落ちないように、ポケットにひっかけるフック部に、マイクと共に仕込んである。
学校にいる間の絹には、プライバシーなどないのだ。
一応、自分の意思で切ることは可能である。
女子トイレの中まで、見せるわけにはいかないのだから。
「でもボス…あの男、えらく食いつきがよかったですが…何か仕込みました?」
制服のジャケットを脱ぎ、居間のソファに投げかける。
「さ、さぁ…知らないなぁ」
問いかけに、眼鏡の中年男はあらぬ方を見た。
年は40前。
自宅でも常にネクタイを締め、上に白衣を羽織っている。
理系が服を着て歩くと、きっとこんな感じだろう。
「隠し事もいいですけど…仕事に障るようなことは、早めに教えといてくださいよ」
面倒くさいから。
目の端で、助手も白衣に着替え始めていた。
この家に住むのは、三人。
ボスである眼鏡が――高坂 巧。
事実上の、絹の保護者になる。
そこの二十代後半の、やや根暗そうな黒い服ばかりを着る助手が――島村。
名前は知らない。
どんなに黒いカラスな服装をしたとしても、最後にはいつも白衣を着るのが台無しな感じだ。
そして、高坂 絹。
ぶっちゃけて言えば、ボスの指示で動く――下っ端だった。
※
「いやー将くんは、一番いいね…同じクラスに投入して大正解」
巧は、自分の体を抱きしめながら、身をくねらせていた。
40前の男の所業とは思えない。
「先生、回りくどいことをせず、てっとり早く、拉致ったらどうですか?」
島村は、時々ぼそっと怖いことを言う。
いや、怖いと言えば助手君よりも、やはりボスが一番か。
「何を言い出す! 君は、人の愛で方を知らんのか!」
そう。
この気色悪さが、怖さの源だ。
「で、初日の接触は最高でしたけど、こっからどうします?」
絹は、ソファにひっくりかえって、今度は靴下を脱ぎ始める。
どうにも、あの学校は窮屈だった。
男さえいなければ、今頃ここで下着一つになっていただろう。
いや。
本当は、いまも別に脱ぎ散らかしたところで、この二人が動じることはないだろう。
「そうだなあ、怒らせたり困らせたり泣かせたり…あぁ、想像するだけで、胸が締め付けられるよ!」
そう。
ボスは――ゲイだ。
しかし、別に隣席の将自身に、狙いを定めているのではない。
ボスが愛しているのは。
「ああ、やっぱりチョウの血は争えないな」
そう。
ボスの恋焦がれる相手は、広井 朝。
彼の、父親だ。
あの高校で二人は出会い、恋に落ち――るハズがなかった。
広井朝は、完全なノンケだったのだ。
そこから、ボスの歪んだ野望が始まるのである。
「さて、絹君…今後のことを話し合おうか…その前に」
巧は、指を鳴らした。
助手が、リモコンのスイッチをぴっと押す。
瞬間。
居間は、フロアごと下降し始めた。
「大事な話を盗聴されるといけない…研究室に行こう」
歪んだ野望とやらのせいで、ボスはバカらしい肩書きを手に入れていた。
『マッド・サイエンティスト』
※
最初、ゲイでマッドサイエンティストだと聞かされた時は、頭のおかしいオヤジだと思った。
しかし、一般住宅の地下に、無許可で研究所をこしらえる本物のイカレだと知ったら――いっそ、覚悟が決まったのだ。
ここなら、生きていけるかもしれない、と。
生きる。
それは、彼女にとっては大事なキーワードだった。
絹は、ボスに金で買われた手駒だったのだ。
しかも。
『広井家の息子たちと、お近づきになっちゃおう』計画、のためだけに、だ。
これが、笑わずにいられるか。
ゲイの一念で、ボスは岩をも砕こうとしているのだ。
高校時代、彼は広井朝の信頼を勝ち得、親友としていつも側にいる幸福を味わうことが出来た。
しかし、卒業間近。
ついに耐え切れなくなったボスは、彼に告白してしまったのである。
『すまん…親友のままじゃだめか?』
分かりきっていた玉砕。
それから、何かと朝が親友であろうと気遣う素振りを見せるのに耐え切れず、ボスは別の大学を選び、『この世界を滅ぼす力を手に入れてやる!』と、マッドサイエンティストなる怪しい職業についてしまったのだ。
その勢いを二十年も持続したまま、にっくき記憶の眠る母校を破壊してやろうと、下見に訪ねたところ――中等部3年だった将と鉢合わせ。
朝そっくりの彼に、ボスは母校破壊をやめ、別の計画を思い立ったのだ。
それが、『仲良くなっちゃおう』計画、なのである。
極端から極端に走る親父だ。
絹は、その計画のために買われた。
ごみためみたいに押し込められた、子供たちの中から、ボスに選ばれたのだ。
絹は、行き場のない子供たちが収容される違法施設の、下から二番目のエリアにいた。
人間として扱われないが、役に立つ駒にするために訓練される場所。
そして、商品として売りに出されるのだ。
絹は、その中でも学問はトップクラスだったし、運動神経もよかった。
ボスの選んだ理由は、年齢・体型・髪質・頭脳・健康状態。
それだけ条件が揃えばよかったらしい。
たとえ――醜い顔をしていたとしても。
そう。
絹は、美しさとは無縁の、どうしようもない顔だったのだ。
※
施設に詰め込まれる前。
絹だって普通の両親のもと、普通に生活をしていた。
小学校二年まで、だったが。
しかし、美醜というものの認識ができてはいた。
周囲の子供たちも。
そして彼女は、自分がブスであることを知り、ブスである不遇を知ったのだ。
その後、両親が死に――変な人たちに捕まって、絹は怪しい施設に押し込められたのである。
そんな醜い自分を、ボスが望んだ。
「大丈夫、顔なんてものは単なる飾りだ。私が、いくらでも飾ってやろう」
その後、まるでサイボーグでも作るかのように、彼女のパーツは入れ替えられ、この顔が出来上がったのである。
包帯が取れて、初めて鏡を見た時の絹の気持ちが分かるだろうか。
鏡を放り出し、それが割れるのも気にせず、大笑いをしたのだ。
本当に、ただの飾りだ、と。
こんなに簡単に、入れ替えてしまえる。
もう、過去の彼女を知る人間に会ったとしても、絶対に分からない。
それどころか。
この顔で、一つの財を築けそうなほどだ。
大声で、狂気的に絹は気が済むまで笑った。
そして、ボスのバカらしい計画に付き合うことに決めたのだ。
朝の息子たちが通う学校に入学する、美しい女生徒として。
入学が一ヶ月遅れたのは、このサイボーグ作業が、予定より遅れたためだった。
しかし、遅れて入学した方が、注目を集められる――と、ボスはしたり顔だ。
名前も変える。
この絹という名前は、自分がつけた名前ではない。
ボスがくれた名前だった。
戸籍も、学校への入学手続きも、全て彼がその裏側の力をちょちょいっとネ、と使って作り上げてくれる。
もはや、ここにいるのは――高坂 絹。
それ以外の何者でもない。
絹は、ボスを悪魔だと思った。
こんな力を持つ人間が、神なはずはない。
無償で、彼女に贈り物をするはずなどないのだ。
これは、契約。
そう。
悪魔と交わした、魂を売り渡す契約だったのである。




