原始の空
「見せて見せてー」
了が二人をかき分けるように、望遠鏡を覗き込んでくる。
ボス、がんばったんだなあ。
「すごー…うわぁ」
奇声をあげてはしゃぐ了を見下ろしながら、絹はそんなことを思っていた。
やってることは、時々すちゃらかだが、本当にすごい科学者だ。
それを、世界のために役立てようとは、まったく思っていないし、お金を稼ぐ道具にしようとも思っていない。
もし万が一、チョウがボスの愛にこたえていたら、いまここにいるのは、ただのゲイのおっさんだったかもしれない。
複雑だが、彼がノンケだったことに、感謝すべきだろう。
「これ…何で商品化しねぇの?」
ボスの方を見ていた絹に、京が不思議そうに言う。
売れると、思ったのだろうか。
「僕もこれ欲しいー」
了が、足をぱたぱたさせている。
「先生は、商売人じゃなくて科学者だから」
絹が苦笑すると。
「多分これ…新特許の塊だぞ」
一般以外に、研究用、軍用と引っ張りだこになるクラスの、な。
京の言葉には、危険な香りがした。
もともと、ボスはもっと危険な思想だ。
彼が将と出会わなければ、今頃地球はなかったかもしれないのだから。
人工衛星撃ち落とす技術とか、入ってるんだろうなぁ。
絹は、望遠鏡を見つめた。
そういえば。
絹は、ふと島村のことを思い出した。
出かける前に、彼が何か気になることを言ったのだ。
撃ち落としに断念した後に。
「あっ!」
声をあげたのは、了だった。
夜空に顔を向けたのは、将と京。
下界を見たのは――絹。
いま、一瞬にして、闇の濃度が変わったのだ。
暗いは暗かったのだが、ずっしりと重い、ただの闇になる。
下界を見た絹は、それに気付いた。
町の明かりが――全て消えていた。
大停電が起きたのだ。
※
大停電が起きた――じゃなくて、起こしたのね。
絹は、笑うしかなかった。
やることの発想が、やはり一般人離れしている。
ボスに綺麗な夜空を見せるため、多数の家庭を暗闇に陥れたのだ。
「絹さん、空みて空!」
了に、袖を引っ張られた。
「……!」
声にならないとは、まさにこのことだった。
星が、落ちてきそうだ。
これまでだって、ここから見る星空は綺麗だと思っていたが、そんな考えは吹っ飛んだ。
一面の星が、ギラギラと刃物のように輝く。
美しいというより、恐いほど。
きっと。
古代の夜空は、こうだったのだ。
空を見上げていた絹は、その圧迫感に耐えきれず、後ろによろけた。
ぱたり。
シートに、そのまま仰向けになる。
視界に入りきれない星。
「絹、チビすけに踏まれるぞ」
暗くても分かるらしい。
寝転がった絹を、京が目ざとく見つける。
「ふ、踏まないよ。それに、チビじゃないや!」
了の反論をBGMに、彼女は空に目を奪われたままだった。
「んー…星に踏まれた気分」
絹は、くすくすと笑う。
このまま、踏み潰されても本望かもしれない。
「…ありがとね」
絹は、小さな小さな声で、囁いた。
「ん? 絹さん、何が言った?」
了の耳に、音の破片が引っ掛かったようだ。
「ひとりごとー」
そう。
家にいる一人に聞こえればいい、独り言だった。
※
大停電が復旧したのは、それから30分後。
それまで、みなこの滅多にない星空を、存分に味わったのだ。
「僕もう、おなかいっぱい」
下界に戻ったあかりを見ながら、了がおなかをなでている。
「それを言うなら、胸がいっぱいだろ」
将のつっこみを聞きながら、絹は思い出したことがあった。
「あ、お夜食、作ってきたんです…そろそろいかがですか?」
しかし。
思い出したのは、宮野も同じだったようだ。
そうだよ、気配り姫がいたよ。
絹は、がっくりした。
「お前も、作ってきてんだろ?」
京に助け船を出されて、気力を少し取り戻す。
「そうね」
遠慮したってしょうがない。
絹は、宮野に使わなかったペンライトを返した後、立ち上がった。
「みんなで、車で食べましょうか」
どうにもここは暗くて、絹はうまく動けない。
夜目の効く、広井兄弟が羨ましいほどだ。
変な表情をすると、見咎められる可能性もあるので、逆に気をつけなければならないだろうが。
自分の脱いだ靴の傍で、絹はあわあわしてしまった。
暗がりで靴をはくのが、こんなに大変だとは思わなかったのだ。
座ってはけばよかったものの、つい目算で足を靴に入れようとして。
「あ…」
よろっ。
「絹さんっ!」
がっし。
近くにいた将が、彼女の身体をとっさに支えてくれたおかげで、ひっくり返るなんて醜態をさらさずにすんだ。
「あ、ありがと」
どうにもやっぱり、お嬢様稼業が付け焼刃で、ボロがちらほら出てしまう。
宮野なら、きっとこんなことは――
「きゃっ」
「あわわっ、危ない!」
暗がりで、宮野と了の声が交錯する。
ドッスン!
何か――誰か倒れたようだった。
前言撤回。
本家のお嬢様も、しっかり転ぶようだった。
※
「ごめんね、宮野さん…上手に支えられなくて」
車に戻った了は、とても不満そうな顔をしていた。
将のように、上手に彼女のよろけを、助けたかったのだろう。
「う、ううん…大丈夫、気にしないで」
持ってきた夜食を広げながら、宮野は恥ずかしそうに微笑んでいる。
自分も、ハタから見たらあんな風なのだろうか。
我ながら、よくやるなあ。
まとった猫の大きさに、絹はにっこり微笑んでみた。
猫の微笑みだ。
猫は、とても元気そうだった。
さて。
絹も、持ってきた夜食を取り出す。
まずは、と。
前部座席の、チョウとボスへの差し入れだ。
一緒にするより、二人分を別にしておけば、邪魔しないで済む気がしたのである。
「はい、どうぞ」
絹は、年長者二人に、夜食とお茶を振舞った。
「おぉ、おいしそうだ…私たちの分まで、ありがとう」
チョウがにこやかに、夜食を受け取る。
気を利かせて、大きな折り詰めひとつだ。
二人で箸でつつきあえ、というサインである。
だが。
「うん、うまい」
チョウは、絹の予想の上をいった。
箸には目もくれず、手づかみで巻き寿司をつかんでかぶりついたのだ。
「すまないな」
そんなチョウから、目を一瞬も離すことなく、ボスが声だけで彼女をねぎらった。
「いえ……では」
絹は、これ以上邪魔しないように、後方の席へと戻る。
若者たちには、既に宮野の夜食が振舞われていた。
出遅れたのはしょうがない。
ボスたちの給仕の方が、最優先だったのだから。
「絹さんのも、見せて見せて」
エビフライを片手に、了がせかす。
「はいはい」
絹は、持参した折り詰めを開けた。
「僕、絹さんのお寿司好きー」
こっちの末っ子も――手づかみだった。
ウェットティッシュ…ああもういいか。
絹は、苦笑しながらその光景を見守ったのだった。
※
「ただいまー」
いろいろあったが、楽しい観測会だった。
今日はボスも一緒だったので、寝こけることなく、絹は無事帰宅したのだ。
「おかえりなさい、先生」
島村が、玄関まで出迎える。
「……」
しかし、その先生は――ふわふわした足取りのまま、荷物を玄関に置いて自室へと去っていってしまった。
いま口を開くと、チョウの記憶がこぼれ落ちてしまうとでも、思っているに違いない。
しょうがなく、絹は望遠鏡の入っているバッグを持ち上げようとした。
「…」
こっちも無言の男が、そのバッグを絹から奪う。
「商品化なんて、とんでもないな」
島村は、ぼそりと言った。
ああ。
丘の上で、感心した京の言葉に、ひっかかっているのか。
「ボスをほめてるのよ」
彼の家は、電気屋だ。
民間の技術屋なのだから、「売れる・売れない」の判断は重要だろう。
「当たり前だ…この望遠鏡の存在が明らかになったら、NASAだろうが自衛隊だろうが、まとめて飛んでくる」
先生が発明した、特殊レンズ欲しさに、な。
島村も、科学者だ。
マッド・サイエンティストと、理解して助手をやっている男だ。
彼もまた、研究は商売とイコールではないのである。
「でも、ボス…1個、チョウさんにあげたわよ」
絹のマイクは拾っていないが、遠くの二人のやり取りを見る限り、チョウ用の望遠鏡は、そのまま彼が持って帰ったはずだ。
島村は、即座にバッグを開け、望遠鏡の数を確認した。
そして――敗北した顔で、再びそれを閉じたのだ。
「分解して、調べられないといいが」
ボスと違って、島村がチョウを信用していないのが、その言葉で分かった。
しかし、いくらすごい天体望遠鏡だからと言って、旧友にもらったそれを、チョウが分解して利益に役立てようとは思わないだろう。
「そんなに、心配しなくてもいいんじゃ?」
「先生が、うっかり変な組織に組み込まれるのが、いやなだけだ」
絹の言葉に、即座に返される、島村の気持ち。
そうね、うっかり連れ去られたら大変ね。
心配しすぎだとは思ったが、その一点についてだけは、彼と同じ気持ちだった。