汚れた英雄
「おい」
もう、授業が始まるチャイムが鳴ろうとしているのに、彼女に声をかける人間がいた。
それどころではないが、聞き覚えのある声に振り返ると――京がいるではないか。
数人の男子生徒と一緒だった。
どうやら、移動教室の途中のようだ。
「あ…京さん……」
お金持ち学校で、血相を変えて急ぐ絹は、さぞや目立っただろう。
「どうした?」
怪訝に聞かれるが、悠長に相手ができる心境ではない。
「あ、あの…形見の万年筆がなくなって」
とりあえず、非常事態だと伝わればいい。
ただの万年筆では、リアリティに欠けると思ったのだ。
こんな時まで絹の脳は、律儀に演技を計算してくれる。
だが、心は相当焦っていた。
だから、早く私を焼却炉に行かせて、と。
「先いってろ…」
「おい、京」
京は。
持っている荷物をクラスメートに押し付ける。
それから、絹の腕を取るように、彼女が行こうとしていた方へ、歩き出したのだ。
「心当たりは?」
どうやら、探すのに付き合ってくれるようである。
「あ、あの…授業」
まさか、こういう展開になるとは思わず、絹は慌てた。
「いい…それより、心当たりはないのかって聞いてんだ」
いまの光景を、ボスに見せたかった。
まだ、そんなことを往生際悪く思いながら、絹は小さく答える。
「焼却炉に来てなければ…どこかで見つかるんじゃないかと思って」
彼女の言葉に、京は片方の眉を上げた。
「生徒は、勝手に焼却炉は使えない…清掃の管理人がいるはずだ。聞けば分かる」
絹の手首を握って、京は定めた目標に向かって歩き出す。
そんな二人を追い立てるように――始業のチャイムが鳴った。
※
「万年筆…いえ、ありませんね。それに、まだ今日のゴミは届けられていませんよ」
管理人の言葉に、絹は心からほっとした。
少なくとも、焼かれておしまい――にはなっていないのだ。
となると。
絹は、苦い表情を浮かべた。
京に、それを言わなければならないのか、と。
「京さんは…授業に戻ってください。あとは何とか……」
彼女が抵抗しようとすると、その額をピンと指で弾かれた。
「形見なんだろ? とっとと探すぞ」
グダグダうるせぇ。
京は、ざくざくと歩き出す。
あーあ。
覚悟を決めなければならないようだ。
「じゃあ…ゴミ箱を」
言ったら、彼は少し不機嫌な顔で振り返る。
「お前…いじめられてんの?」
そう思われても、おかしくないだろう。
「分かりません…でも、心当たりがないから…」
曖昧に濁すしかなかった。
「また、高尾の野郎じゃねぇのか?」
人前で、殴られたり叩かれたりした男の名前が出てくる。
だが、今回に限って言えば、濡れ衣だろう。
「女子更衣室で、なので…」
そんなところに高尾が入って、万が一見つかりでもしたら、汚名どころの話ではない。
「しょうがねぇ…更衣室の外のゴミ箱からだな」
ゴミは、放課後に清掃員が回収するという。
掃除そのものも、生徒はしないのだ。
だから、ゴミ箱の中にあるというのなら、この時間――きっと安全だと思われる。
それを祈って、絹はゴミ箱に手を突っ込んだ。
授業中であったのが幸いだ。
少なくとも、こんな姿を他の生徒に、目撃されることはない。
面倒な教師に見つかる前に、万年筆を探し当てたかった。
あはは。
いくつものゴミ箱をひっくり返しながら、彼女は自虐的に笑っていた。
手分けしているので、京はすぐそばにはいないのだ。
お金持ち学校で、こんな綺麗な顔をしておきながら、ゴミ箱を漁るなんて、と。
野良猫のような、みじめな気分だった。
※
「こら、君…授業中に、何をしている」
しま、った。
絹は、ゴミ箱から手を離し、ぱっと立ち上がる。
まだ、全部終わっていないというのに、教師に見つかってしまったのだ。
「す、すみません、大事なものをなくして」
汚れてしまった手を、絹は後ろへ隠した。
「いくら大事なものでも、ゴミ箱に手を突っ込むなど…しかも、授業をさぼって!」
ああ、だめだ。
聞く耳を持たない教師の前で、絹は絶望感を味わった。
「とにかく、職員室へ…」
そう、促されそうになった時。
「おい…これか?」
角を曲がった京が、現われるではないか。
手には――万年筆。
「あ…」
あ、あ、あ!
絹の、唇は大きく震えた。
それは間違いなく、絹の大事な万年筆だ。
「広井くん! 君もか!」
二人の間の空気を読まず、教師は名指しで京に近づく。
「ほい」
しかし、教師など眼中にも入れずに、絹に万年筆を渡そうとするのだ。
彼の手や、シャツの袖口は汚れたまま。
京も、本当にゴミ箱を漁ってくれたのだ。
人一倍、プライドが高そうなのに。
「あ、ありがとう…ありがとう京さん」
絹の手も汚れていたが、しっかりとそれを握り締める。
ああ、よかった、と。
「分かってますよ、先生。説教でしょ?」
頭から湯気を出しそうな教師に、京が首をすくめる。
「手を洗ったら行きますんで、先に行っててください」
彼が、両手を開いて汚れっぷりを見せると、教師はうっと顔をしかめる。
「洗ったら、すぐに来なさい!」
逃げるように、彼は職員室へ向かった。
「さて」
それを見送った京が、じっと絹に視線を送る。
「あ、あの…」
もっと彼に、お礼を言おうと思ったら。
「手ぇ洗って……とっとと逃げるぞ」
彼は、まったく教師に従順ではない男だった。
※
「で…いままでスイッチが入れられなかった、と」
帰ってきた時のボスは、不機嫌に感じた。
「はい、ずっと広井京が一緒でしたので、何らかの故障が外に出た場合、ごまかせないと思いました」
これが、スイッチを入れられなかった理由。
「オレは、体育後にスイッチを忘れている…と踏んだんだがな」
島村が敬語を使わない時は、絹に向けたものだ。
随分、マヌケに思われているようである。
「確認しよう」
手を差し出され、絹は万年筆をボスへと渡した。
「しかし…」
じっと見つめるボス。
まだ汚れているのだろうか。
水は使えないので、絹がティッシュで綺麗に何度も拭いたのだが。
「しかし…これを探す京くんを…見たかったぁ」
ヨヨヨヨ。
万年筆を握り締めながら、よろけるボス。
申し訳なく、絹は苦笑した。
「それに…一緒に授業をさぼったのだろう…うう、サボタージュな京くん」
ほんと、すみません。
見せてあげたかった絹も、心の中で合掌する。
「今後、同じことが起きた時の対処用に、何か仕込まないといけませんね」
島村が考え込み始めた。
「狭範囲発信機でもつけとけばいいだろう。絹に携帯を持たせて、そっちで受信させればすぐに見つけられるように…ああ、京くん~」
一瞬だけ、さっとボスは科学者の顔に戻ったが、最後にはまた長男の名前を呼び出す。
「携帯を受信機に…それならカモフラージュも完璧ですね」
感心したように、島村は復唱する。
「仕入れてきて、さっそく改造します」
彼は、白衣を脱いで出かけていった。
「ところで…」
ボスが、ゆっくりを顔を上げる。
どちらかというと、科学者寄りの顔で。
「犯人の女が、また同じことをして、それを見つけたら」
どうするかね?
言葉に、絹は目を伏せた。
「泥棒なんて汚名はいやでしょうから、それを盾に二度と同じ事をしないように言うだけですね」
ふむ、とボスが考え込む。
「いっそもう少し発展させて、下僕にするってのはどうだろう」
彼は――真顔だ。
一体、どんな高校生活を送ってきたら、そんなことが言えるのか。