万年筆
土曜の朝。
あれ。
絹は、違和感と共に目を覚ました。
暖かい毛布の感触。
見知った匂い。
ハッ。
がばっと、絹は飛び起きた。
そこは――二階にある自分の部屋で、自分のベッドだ。
いつもどおりの朝のように思えた。
が。
違った。
絹は、制服のまま、眠ってしまっていたのだ。
慌てて、昨夜の記憶をたどろうとしたが、帰りの車の途中で、ブチッと切れていた。
ああ。
ぐっすり寝入ってしまったのだ。
ということは、車から降ろすのに、京か将の手を借り、このベッドまで運ぶのに、ボスか島村の手を煩わせたということになる。
あー。
絹は、起き出して着替えながら、自己嫌悪に足を突っ込まなければならなかった。
帰り着くまでのエネルギーを、計算して残せなかった自分に、だ。
ボスと島村に、顔を合わせづらい。
しかし、怒られるなら、さっさと怒られておいたほうがいい。
絹は、覚悟を決めて階下へ降りた。
「おはようございます」
居間に人影を感じて、挨拶を投げると――そこにはボスがいた。
「ああ、おはよう…昨日は…ふふ、ふふふふ……私も…チョウと観測会に……ふふ…ワゴン」
穏やかに朝の挨拶を返そうとしたようだが、ボスは昨日という単語を出した途端、いつも通りに壊れていった。
一瞬にして、会話の記憶が甦ったのだろう。
唇から怪しく漏れる単語が、それを物語っていた。
チョウが参加する時には、ひとつの国を滅亡させる予定があったとしても、キャンセルして参加する気だろう。
「重かったぞ」
ボスは問題ないようだが、島村はそうはいかない。
居間に入ってきて、絹を見るなり一言。
ああ、彼の手を煩わせたのか、と。
「それと…お前を受け取って抱えた時、長男と次男に派手に睨まれたから、せいぜいそれを利用するといい」
しかし、島村は――結局、ボスのよき子分なのだ。
思考の方向が、やはりボス寄りだった。
※
「おはよう…」
月曜の朝のお迎えに、絹はいつも通りの挨拶。
しかし、いつも通りでは済まない部分もあった。
「あの…金曜は、ご迷惑をかけたみたいで……ごめんなさい」
車が動き出して、絹は恥ずかしさで身体が縮んだように、そう言った。
実際は、島村の言うとおり、その事実とやらを有効に利用させてもらうだけなのだが。
「あ、ああ…気にしないで…全然平気だから」
将の言葉に、絹は困った笑顔で返した。
「え、金曜…何かあったの?」
絹よりも先に、意識がなくなった了は、知らないのだろう。
「私もね…寝ちゃったの、車で」
「えー、絹さんの寝顔…僕も見たかったなあ」
了の変化球の答えに、絹は苦笑してしまった。
「あ…そういえば」
将が。
何かを思い出したように――しかし、表情を少し曇らせて、絹を見る。
「そういえば…保護者の方以外に、若い男の人がいるみたいだったけど」
家の人?
きた。
気になることを黙っていられないのか、将が聞いてきた。
多分、京も耳をそば立てていることだろうが。
「島村さん…のことかな」
絹は、あえて名前をつかった。
違う名字で、他人行儀に呼ぶことで、家人ではないことを匂わすのだ。
「先生の助手で…えっと、住み込みのお弟子さんみたいなものです」
言葉の直後、将は固まり――京は、ゆっくりと身体をひねって、後ろを見た。
「島村さんが、なにか?」
とりあえず、わざわざ後ろを向いた京に向かって、首をかしげて聞く。
彼は、絹の顔から何かを読み取ろうとするかのように、じっと見た。
「お前……」
その唇が、低く開く。
「お前……そいつに、物みたいに運ばれてたぞ」
ぶふっ。
彼女は、本気で品なく吹き出しそうになった。
あわてて。手で口をふさぐ。
何て愉快なことをしてくれるのか、島村は。
お姫様だっこまでは言わないが、物と形容されるなんて。
これでは、大して利用もできないではないか。
「ふふ…島村さんらしい」
絹は、ようやく大きな波を飲み込んで、その余波だけでやわらかく笑ったのだった。
※
体育ともなれば、絹は将を見られなくなる。
彼女は、胸ポケットのペンカメラのスイッチを切って、更衣室へと入った。
男女別の体育になるので、隣のクラスと合同だ。
「今日は、50m走の記録をとるんですって」
誰かが聞きつけてきたのか、早い情報に、更衣室は騒然となった。
お嬢様方は、体育が苦手なのだ。
コウサカという名字なので、おそらく絹の走る順番は早めだろう。
どのくらいのスピードで走れば、おかしく思われないか――サンプルとしては、少ないかもしれない。
まあ、適当でいいか。
彼女は、バレッタで髪を上げた。
そのうなじに。
絹は、ゆっくりと振り返る。
いま。
何か視線を感じたのだ。
しかし、振り返っても着替え途中の女生徒たちがいるだけで、誰も自分の方を見ているようには思えない。
気のせいかな。
絹は、再び着替えに戻った。
だが、また感じた。
今度は振り返らなかった。
視線に、何度も反応して振り返るのも変だと思ったからだ。
まあ、女生徒の視線なら、大したこともないだろう。
そう絹は、タカをくくったのだ。
そして、事件は起きた。
50m走とやらを、そこそこで乗り切り、授業が終わって更衣室へと帰ってきた絹は。
そこで愕然としたのだ。
ペンが――ない。
確かに、制服の胸ポケットに収めていた、それがなくなっているのだ。
慌てて服にまぎれていないか、全て確認する。
足元も。
しかし、ない。
「どうかした?」
制服に着替えないまま立ち尽くす絹に、委員長が声をかけてきた。
一体何が。
いや、誰が――そして、何のために。
下手に電気関係に詳しい人間に見られると、バレてしまうかもしれない。
早く探さなければ。
だが、更衣室で感じたあの視線以外、何の手がかりもなかったのだ。
絹は、ペンと認識しているが、見た目はシックな様相の万年筆だ。
高そうに見える。
しかし、この学校の生徒が、そんな金銭感覚でペンを盗むとも思えない。
「万年筆が…なくなってるんです」
絹は大事にならないように、更衣室の隅で委員長に相談した。
「え…なくなってるって…ここ以外で落とした、とかは考えられない?」
委員長も、盗難とは信じられないのだろう。
もっともな意見を、言ってくれる。
しかし、絹は更衣室に入る直前に、スイッチを切ったのだ。
他で落とすなんて、ありえない。
「はい…最初の着替えの時まで、確かにありました」
慎重な口調で、絹は言った。
それを、信じてもらうしかない。
「既に着替えて出た人もいるから…まずは、拾得物として届けられていないか、事務に聞きましょう」
それでいい?
建設的な言葉だ。
着替えの際に床に落として、先に戻ってきた人が拾ったということも考えられる。
絹は、着替えを済ませて事務へと向かった。
委員長には、教室に戻って結果を報告することにして、一人で行くことにしたのだ。
後ろ暗いものだけに、何かトラブルが起きるかもしれない、と。
「万年筆…ですか…届けられていませんね」
やっぱり。
あの視線は、何だったのだろう。
絹は、事務室の廊下に立ったまま、ほんのちょっと前の出来事を、思い出そうとした。
女性から、特定の女性に送る視線。
好意、憧れ、好奇、嫌悪、憎悪、嫉妬。
良い感情にせよ、悪い感情にせよ、その相手の持ち物を取る――というのは、ありえないことではなかった。
良い感情なら、「あの人の持っているものが欲しい」。
悪い感情なら、「あいつの困る顔を見てせいせいしたい」。
まあ。
多分――後者だろうな。
絹は考えた。
前者なら、物は大事に持ち続けられるだろう。
しかし、後者なら。
「……!」
アシがつく前に、どこかに捨てるはずだ!
はっと、絹は顔をあげて歩き出した。
もう休み時間が終わる。
既に、焼却炉の藻屑となっていないことを祈りながら、絹はそこへと急いだのだった。




