内地へ-5
浜松町の駅で降り北口から徒歩5分程度で店の前に着いた。
ランチタイムは終わっているが連絡を入れておいたので居るはずだ。
先輩の店は雑居ビルの2階にあった。
「五月先輩、お久しぶりです」
「如月か、よく来たな。いつこっちに戻ってきたんだ?」
「えっと、2日前です」
「そうか。こちらの綺麗なお嬢さんは?」
海の事をどう紹介していいのか戸惑ってしまう。
「えっと、自分のアパートの管理人さんです」
「管・理・人の、水無月 海です。はじめまして」
口先だけで先輩を誤魔化そうとすると海の機嫌が急降下した。
「相変わらずお前は歯切れが悪いしニブチンだな。管理人さんね、なんで管理人さんと一緒なんだ? 細かい事はいいから、とりあえず、明日からでも来いや」
相変わらず大雑把な性格の先輩に胸をなでおろした。
コーヒーをご馳走になりながら少しだけ話をし出勤時間だけを確認して店を後にした。
ちょっと通うのには遠いけれど乗り換え一回だけだし何とかなるだろう。
時給いくらなのだろう、そんな事を考えながらアパートへ帰った。
海と別れ部屋に入ると見事なまでに家電たちは全て綺麗にセッティングされていて。
しばらくすると黒服の人が態々呼びに来た。
応接間に通されると潮さんが微笑みかけている。
「デートはどうでしたか。手をつないで2人とも真っ赤になって初々しいわね」
「デートって見ていたんですか?」
「そんな野暮な事はしないわよ。遠くから少しだけね」
この人達には一般の常識なんて通用しないのだろう。
それでも俺は自分が知る常識でしか物事を計れない。
「潮さん、仕事を決めてきたのですけれど家賃はどうすればいいですか?」
「家賃なんて別にいいんだけれど」
「そんな訳にはいきませんから」
己の事は己の力で何とかする如月家の家訓だった。
「ター君のそういう真面目な所。大好きよ。光熱費その他込みで払えるだけ支払いなさい。支払いは給金を貰ってからでかまわないから」
「食事はまだでしょ。今日はこっちで食べていきなさい。海も喜ぶから」
「あと、これは命令よ。数日中に必ず実家に顔を出す事。分かった」
「わかりました。ありがとうございます」
海の機嫌は相変わらずで食事中もこっちを見ようともしなかった。
アパートへ戻るとドアの前でキルシュが待ち構えていた。
「ついて来い」
あくまで命令口調だった。
近くの公園に連れて行かれ誰も居ないことを確認してから切り出した。
大きな猫と喋っている人間なんて怪しさ満載で俺でも遠慮したい。
「俺に何の用だ」
「貴様からキラの匂いがする。何故だ?」
「キラ? 誰だそれ」
「退魔師だ」
退魔師のキラ?
少しだけ考える思い当たる事があった。
俺は婆ちゃんの事を『キラキラ婆ちゃん』と呼んでいた覚えがある。
俺が退魔師の末裔なら答えは一つだろう。
「婆ちゃんの事か?」
「やはり、貴様も奴らの仲間か!」
俺が答えるとキルシュが叫びながら襲い掛かってきたので必死に逃げ回る。
「逃げ回るな。退魔師なら戦え!」
冗談じゃない俺には退魔師の力なんてあるはずもなくネコ科の動物から逃げ回れるわけも無い。
ボロ雑巾の様にされ息が上がっていた。
「隆羅いるの? あの馬鹿、何処に」
通りの方から不意に海の声がする、どうやら俺の事を探しに来たらしい。
見つかると思った瞬間に頭で考えるより早く体が動いていた。
キルシュに向かって走りだし左手を付きだし左腕を噛ませ。
瞬時に右腕でキルシュの首根っこを押さえ込んでありったけの力で近くの茂みに飛び込んだ。
左腕に激痛が走り奥歯を噛み締め必死に声を押し殺す。
海はしばらく探していたが公園から出て行った。
キルシュを押さえ込んでいた右腕を離し激痛の走る傷口を押さえる。
骨には異常なさそうだが少し傷が深かった。
「貴様、何故わざと」
「お前は海の泣き顔が見たいのか?」
睨み付けているキルシュに強い口調で言うと返事はなかった。
公園の水飲み場で傷口を洗い破れたシャツを使って止血して、ついでに汚れた顔を洗うため頭から水をかぶる。
アパートに帰る訳には行かない海がまだ探しているはずだ。
ベンチの横に腰をおろして左腕をベンチに置き心臓より高くして止血しながら休んでいるとキルシュが申し訳なさそうに近づいてきた。
「大丈夫なのか?」
「多分、少し休めば大丈夫のはずだ」
確信はないが多少の自信はあった。
それは島で影に襲われた時に受けた体の痛みは数分で治っていたからで。
今は俺の中にあると言う鍵の力を信じるしかなかった。
すると少しずつキルシュが話し出した。
無理矢理に使い魔にされ退魔師の綺羅婆ちゃんにボコボコにされ逃げ回り生死の境を彷徨っている時に幼い頃の海に助けられ。
キルシュと言う名を貰い報いる為に今は水無月家を守っている事を。
俺の顔を見た瞬間にキルシュが笑い出した。
「俺の顔がどうかしたか?」
「いや、顔じゃなくその額だ。そんな状態で馬鹿かお前」
猫が大笑いしている姿は見ていて気持ちの良いものじゃなかった。
「お前、暴走した事があるのか?」
「島での事か? あれが暴走ならそうなのだろう」
「言い方を変えよう。力が解放した事があるのか?」
美夢が影に襲われた時の事が直ぐに浮かんできた。
「その状態で力が開放してよく生きていたな。普通なら死ぬぞ」
「何なんだいったい。俺にも判るように説明しろ」
「お前、俺や動物の言葉が解るだろうそれは鬼の力だ。強い力を持った鬼だけが動物と会話して使い魔の契約をする。お前のポテンシャルは推測だが異常なのだ。お前の額に封印の文字がある水の梵字か何かだろう、強い力は簡単には制御できない。ちょっとした感情の高ぶりで暴走する事がある。だから封印されたのだろう、多分、綺羅だな」
キルシュの話を聞いた時に今まで点だった物が線になり繋がり始めた。
幼い頃に俺の額に指を当て何かを呟いている婆ちゃんの姿。
高校の校舎裏で不良に絡まれて力が暴走しガラスが割れ。
その後病院に担ぎ込まれた。
それ以上は思い出せず考え込んでいるとキルシュが話しかけてきた。
「今のお前には誰も守れない。俺には封印を解く事は出来ないが俺様が何とかしてやる。覚悟しておけよ」
「お手柔らかに」
上から目線のキルシュに言っておく事があった。
「今夜の事は絶対に海に隠し通せ。いいな、絶対だぞ」
「お前はそんなボロボロで隠しとおせるのか」
「大丈夫だ、慣れている。子どもの頃から怪我なんかしてお袋に心配を掛けると親父に殴られたからな大抵の事は隠し通した」
「そんな父親がいるのか本当に?」
怪訝そうな顔でキルシュが首を傾げている。
「居るさ。バイクで事故を起こした重傷の俺を殴り飛ばすくらいだからな。そう言えば、無理矢理に使い魔にと言っていたが望んで使い魔になる奴なんて居るのか?」
「人間を恨んでいる動物なんていくらでもいるからな」
「そうか」
それ以上は何も聞けなかった。
翌朝。左腕にはまったく力が入らなかったが傷はすっかり消えて証拠隠滅も完璧だった。
ほっと安心して気を抜いた瞬間に顔面にパンチが炸裂した。
「隆羅の、馬鹿!」
目に涙を浮かべて真っ赤な顔で海が部屋から飛び出て行った。
海を追いかける時間もなくバイトに行く準備をしているとドアをノックする音が聞こえ。
ドアを開けるとキルシュが申し訳なさそうに座っていた。
「すまない昨夜、血の匂いをさせているのを潮に感づかれ洗いざらい白状させられた。その話を少し海に聞かれたらしい」
「潮さんもお前と話せるのか? 秋葉原や動物園で俺らを監視していたのはお前か」
「ああ、俺様は水無月家に使える身。潮には絶対服従なのだ」
海があの状態になるともう手が付けられないらしい。
時間が無かったのでこの話は俺に預けさせてもらった。
初出勤に遅刻するわけに行かない。
「おはようございます。先輩」
「おはよう。お前の顔は喧嘩でもしたのか。ああ、彼女に殴られたとか? お前はヘタレな所あるからな」
本当にこの人は変な所だけ感がいい。
「先輩、あのでっかいビルは何ですか?」
誤魔化す為に話を変えた。
「あれは、水神コンツェルンのビルだよ。テレビで見たこと無いのか」
「自分はテレビ見ないですしパソコンと海さえあれば島では十分でしたから」
話をすり替えることに成功して拳を握りガッツポーズをする。
「お前は昔から人が知らない事は詳しいくせに普通に知っているはずの事には疎いからな。如月、この間連れて来た女の子は水無月とか言ったな。水神の総帥も確か……」
「いらっしゃいませ」
お客が来店しランチタイムが始まりこの会話は途切れた。
初仕事も何とか終わり帰りの電車の中で海の事を考えていた。
明日の仕事は無理を言ってランチタイムは休ませてもらい夕方からの出勤にしてもらった。
買い物を済ませて帰るとアパートの前にキルシュが居た。
よほど海の事が気になるのだろう。
「明日、屋敷のキッチンを使いたいから潮さんに言っておいてくれ。それと迎え宜しくな、屋敷内の事はまったく分からないからな。海の事は俺が何とかしてみるから今日は疲れているからこれで勘弁してくれ」
そう告げてキルシュと別れた。
翌朝、キルシュの案内で屋敷内のキッチンに向う。
迎えの時間だけ確認して作業を開始した。
ココア生地を焼き上げチョコレート味のスポンジを作る。
生クリームにキルシュとゼラチンを溶かし込んだザーネクリームを作り、スポンジにクリームとサワーチェリーを挟み込み残りのクリームでナッペして仕上げ。
サワーチェリーとチョコレートフレークでデコレーションし冷蔵庫で落ち着かせる。
その間に片づけをはじめる。
そして、洗い物をしながらこちらを伺う視線に向けて声を掛けた。
「そこに居るんだろ」
「お前が、海お姉ちゃんを」
「本当に申し訳ない。すまなかった。全て俺の責任だ」
俺がキッチンに入ってからずっと隠れて事を睨んでいた海の妹の凪に誠心誠意謝ると俺の反応に驚いたのかキョトンとした顔をしている。
出来上がったケーキを切り分け。
皿に盛り付けて海に渡して欲しいと凪に頼んだ。
「お前の為じゃないからな。お姉ちゃんの為に持って行ってやる」
怒ってはいたが了承して貰えたみたいだ。
残ったケーキは適当に処分して構わない事を告げ迎えに来たキルシュとキッチンを後にし俺はバイトに向った。
バイトを終えアパートに帰るとキルシュが待っていた。
部屋の方をキルシュが見上げている。
「誰か居るのか、海か?」
「少しいいか」
そう言いキルシュは歩き出しこの間の公園へ向った。
「お前、海に何をした。あんなに嬉しそうな顔あまり見た事が無い。どんな魔法を使ったのだ? 海があの状態ですぐに機嫌が直るなんて考えられない」
「シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ」
「何かの呪文か?」
人間ではないキルシュには理解できないのだろう。
「俺が作ったケーキの名前だよ。そのケーキを凪に頼んで海に渡して貰ったんだ」
「そんなケーキで海の機嫌が直るのか?」
「多分な、お前の名前と同じ呼び名のケーキだからな。お前の名は海が付けたと言っていたよな。『キルシュ』は元々キルシュヴァッサーと言うブラックチェリーから作られた酒の名前だ。幼い海が酒の名前を知っているはずが無い。海は甘い物好きだからキルシュと言うケーキは食べた事があったのだろう。美味しいケーキだからな。ただ、それだけだよ」
それだけで機嫌が直るかは俺には分からない。
ただ、本当になんとなくそれでいい気がした。
「お前は何者なんだ?」
「俺はただのへタレだよ、カクテルバーでバイトした事があるから酒の名前には詳しいし。それにケーキ作りをする人間にとってキルシュヴァッサーなんて知らない奴は居ないからな」
アパートに帰ると海がニコニコして部屋の中に居た。
しかしこの部屋の鍵はどうなっているのだろう。
俺にはプライバシーは無いのか?
それでも海が笑顔ならそれでいい心からそう思った。
後日、キルシュの言っていた覚悟の意味を理解した。
不意打ちをしかけ襲い掛かってきた。
牙や爪は立てないがそれなりに衝撃はすごく生傷が絶えない。
傷が絶えないので心配する海には簡単に話をして了承をしてもらっていたが。
不意打ちは寝ているときでも関係なくやって来るものだから堪ったもんじゃなかった。