内地へ-1
しばらくして困った事がいくつか起こるようになった。
今朝も良い匂いが鼻をくすぐりとても柔らかく温かい……
心臓の鼓動が跳ね上がり横を見ると何故か海が俺の横で体を丸めて寝息を立てている。
あれから少しずつ誤解が解け。
ほんのちょっとだけど海を近くに感じるって近すぎるだろう。
困った事のひとつがこれだ。
俺は朝と夜のバイトを掛け持ちでしている。
プライベートな時間など殆どないけれど睡眠時間を削って時間をひねり出している。
そのひねり出した時間に何をするかと言えばプチ秋葉系の俺はネットをする為で。
そんな時に海はと言うと俺の後ろのベッドで気持ちよさそうに寝息を立てている。
健全な男女がこんなに近くにいてと思うかもしれないがドキドキしない訳では決してない。
しかし見た目はアイドルも顔負けの凛としたとても可愛い女の子だが『水の精』で『門の番』だぞ。
今までの経験上、何かしようものならフルボコの目に逢うのは確実だろう。
それ故に俺はソファーで寝ているけれど目を覚ますと目の前に海が居て。
海がソファーで寝ていれば俺はベッドで。
そして朝になると何故か海もベッドの中に潜り込んでいる。
ほかの部屋で寝ればいいだろうと思うかもしれないが、それはまた違う意味で困った事が起きている。
仕方なく他の部屋で寝た事があるのだが聞き覚えのない声で起こされた。
「おい、へタレ朝飯はまだか」
「キサラギ、喉が渇いた」
体の上に何かが乗り声がしてもうひとつの声は耳元から聞こえる。
目を開けると黒猫のロンが俺の胸の上で、そして耳元では雉虎の猫チィーが……
「喉渇いたってば」
訳が分からずぼーとしているとチィーに耳をかじられた。
昔から猫が2匹住んでいて食事を与えている。
住んでいると言うのは俺が飼い始めたわけでなくいつの間にか居座るようになってしまったと言うのが本当のところだ。
パソコンとベッドのある俺の部屋にはこいつ等が入らないようにしていて他の部屋は自由に使わせている。
その猫たちがしゃべりだした。
しゃべりだした訳ではなく俺が動物の鳴き声を理解出来る様になってしまったというが正しいのかもしれない。
あの光と海のせいなのだろうか、今の俺には分かるはずもなく。
そして俺の知らない所で静かに確実にとんでもない計画が進められていたのだった。
それは突然やってきた。梅雨も終わり。
そろそろ石垣島もトップシーズンになろうかと言う6月の終わりの土曜日の朝だった。
『今日も、暑い一日なのかな』
などと考えながら、いつもの様に事務所でタイムカードを押し職場に向かう。
朝のバイトは例の大型店舗サンイーの中のベーカリーの仕事だった。
店長が仕込みをしたものを俺がオーブンで焼き上げる。
そして焼き上げながらサーターアンダギーなんかも揚げていた。
自慢じゃないけれどサーターアンダギーは俺のオリジナルも含めて60種類くらいある。
「お早うございます、店長」
「相変わらず、朝から良い匂いさせているな。このヘタレエロ魔人が」
「いやいや好きで良い匂いさせている訳じゃないですし」
「まぁ、お前とも、これで最後だからな」
店長が朝から冗談を言っているのかと思った。
「えっ、店長。転勤でもするんですか?」
「お前の後釜が決まったんだよ」
「へっ? 俺の後釜って……」
「クビって訳じゃないのだが、上からな」
歯切れの悪い言葉で店長が視線を外した。
「上からって、クビと一緒じゃないですか?」
「まぁ、元気にやれよ、海さんに宜しくな」
俺の肩をたたいて微妙な笑顔を繕っている店長の言葉にまったく納得できないしクビになる理由も見当たらない。
多少問題はあるが今まで良くしてくれた店長があんな顔をするくらいなのだから余程の理由があるのだろう。
そして1ヶ月分の給料は払うからと肩を叩かれた。
ここも今日までなのか。まぁナンクルナイサーだ。
「お世話になりました。今まで有難う御座います」
仕事を終え頭を下げて店を後にする。
礼だけはきちんとしろと家では小さい頃からとても厳しく叩き込まれてきた。
考えても答えが出るわけもなく夜のバイトに向かった。
夜のバイトは居酒屋の調理をしていた。
睦月美夢がホールでオーナーはホール兼調理をしている。
それでもオーナーは他にも店舗を持っているからいつも居る訳じゃなく俺と未夢の2人で回すことが多かった。
朝も夜も調理系の仕事の理由は簡単で。
昔から料理やお菓子作りが大好きで大抵のものはレシピさえ判れば作る自信がある。
それに美味しい物を食べている幸せそうな顔を見るのがこの上もなく大好きだったりするのが最大の理由かもしれない。
夕方、そろそろ美夢が出勤の時間かなと思い時計を見ると五時を指そうとしていた。
「おはようございます」
「おはよう」
いやに沈んだ暗い声を不思議に思い調理場から顔を出すと、今にも泣きそうな顔で美夢が抱きついて来てとんでもない事を言い出した。
「先輩、辞めちゃうって本当ですか?」
「美夢は何を言っているんだ?」
「だって、オーナーから連絡があって先輩が内地に帰るって」
話がまったく見えないけれどオープン時間は待ってくれない。
とりあえず、オーナーに連絡を入れてみると今は手が離せない状態なので居酒屋のクローズ時に話に来るとの事だった。
いったい何が起きているんだ?
居酒屋も一息ついて賄いを食べて片付けを始める。
30分程で片付け終わらせてオーナーが来るのを待つ事にした。
「美夢は明日、朝から海たちと遊ぶ約束しているんだろ。先に帰れ」
「嫌だ。絶対に嫌」
Тシャツの裾を掴んで美夢が帰ろうとせずに哀しそうな目で俺を見た。
「しょうがねえな、まったく。そんな目で見るな分かったから話を聞いたら送っていくから」
「うん」
美夢が今にも泣きだしそうな顔で少し笑って頷いた。
しばらく居酒屋で待っていると重そうな空気をオーナが運んできた。
なんでもオーナーの携帯に昨日連絡があったらしい。
『如月様のご両親の代理の者ですがお会いして取り急ぎお話したい事があると』
会ってみるととても綺麗な女性で何処かの弁護士か秘書かみたいな感じで。そして委任状を見せられ俺を何があっても内地に連れて帰ると告げたらしい。
委任状を見せてもらうと確かに親父とお袋の字で『如月 仁』『如月沙羅』と署名捺印されていた。
オーナーも対応に困り俺に確認しようとしていたらしい。
そして代理人の名刺には『水無月 潮』とあり嫌な予感がする。
水無月って海の身内だろうか?
これ以上遅くなると美夢も居ることだしまずいと思い。
オーナーに両親に確認することを告げて保留にしてもらいかえることにした。
深夜に帰宅する為に実家に連絡も出来ず。
家に帰りパソコンに向かっていたが苛ついて落ち着かなかった。
いったい何が起こっているんだ訳が分からず後ろを振り向くと海は気持ちよさそうに寝ている。
こんな時は料理するに限る。
何故かは判らないけれど料理をしていると落ち着いてくるから不思議だ。
静かにキッチンで作業を開始していたのに眠そうな目をして海が起きてきてしまった。
「隆羅、何をしている」
「海、起こしちゃったか。ゴメンな。今ちょっとケーキを焼いているんだ」
「ケーキ?」
「そう、ガトーショコラだよ」
キッチンにはチョコレートの甘い香りが立ち込めている。
今にも寝そうな海が満面の笑顔を浮かべた。
可愛い過ぎて抱きしめたい衝動に駆られていると俺の背中にこつんとおでこをくっ付けて来た。
「おいおい、海。海さん? しょうがない奴だな」
固まっていると返事がなく可愛らしい寝息が聞こえてきた。
海を部屋に連れて行き寝かせ、焼き上がったガトーショコラを軽くラッピングしてメモを貼り付ける。
『海へ みんなで食べてくれ。 隆羅』
昨夜は遅かったし朝のバイトも無くなったそんな訳で遅い時間までゆっくり寝ていると視線を感じた。
海は朝から遊びに出ているし猫たちがこの部屋に入るはずもない。
目を開けるとあり得ない者が目に飛び込んできた。
メガネをかけて長い髪を後ろで一つに束ねていて海に良く似た綺麗な女性が顔を覗いていた。
「おはようございます、如月さん」
「うわぁっ」
飛び起きて壁際に後ずさりすると女の人が眉を顰めた。
「そんなに、驚かなくてもいいじゃありませんか?」
「普通は驚くでしょう。見知らぬ人が部屋に居れば」
「私、水無月 潮と申します」
その名前はどこかで聞き覚えのある名前だった。
「あっ、代理人の人」
「ハイ、海の姉です」
「海のお姉さんですか?」
海のお姉さんならどうやって何処から入ってきたなんて聞くだけ無駄だろう。
慣れって怖いもので着替えを済ませて話を聞いてみる事にした。
両親に聞くより海のお姉さんに聞いた方が手っ取り早いだろう。
「朝のバイトの件は少し圧力を掛けさせて頂きました」
「さらっと圧力って、あなた達はいったい何者ですか?」
「それは聞かない方が良いかと」
委任状の件は石垣島でお付き合いさせて頂いている妹の姉だと言ったら快く話を聞いてくれたとの事らしい。
「隆羅様をこちらに連れて帰って来たいと申し上げたらお母様はとても喜んでいらっしゃいました」
クソ親父はお袋が喜ぶ事なら絶対に反対しないから委任状の件は頷けた。
そして彼女は少し強い口調でこう言い放った。
「何があっても一緒に帰っていただきます」
「ふざけないで下さい。俺は何処にも行く来はありません」
俺の意思なんかまったく無視して無理やりにでも事を起こそうとしている事に腹が立った。
あのクソ親父と同じ事をしようとしているこの人に対して不快感を露わにする。
実家にいる時も特にやりたい事もないままフリーターをしていた。
そしてある日、今回の様にバイト先に手を回し俺をクビにして親父が勝手に就職先を決めてきた。
「自分だけの力で生きてやる」
「お前に何が出来る絶対無理だ。ガキがナマ言うな」
「やってやるよ」
親父のやり方にキレて俺はありったけの金を集めて家を飛び出し。
東京から2000キロ離れたこの島に辿り着いた。