魔のバレンタイン-1
2月が始まり。まだ、海は看板娘を続けていた。
年末までの予定だったが先輩のたっての願いで俺が潮さんに話しをして了承してもらった。
まあ、潮さんに話すまでもなく海は続ける気まんまんだったのだから。
その日は潮さんの仕事の手伝いがあると海は仕事を休んでいた。
久しぶりに1人で店に出勤する。
「おはようございます。あれ、先輩? 居ないんですか? 居るじゃないですか返事くらいしてくださいよ。先輩」
返事が無く先輩の顔を見ると正月に実家で見た事がある様な気がする。
海を紹介した時の親父と同じ顔をしていた。
「仕込みはじめますよ。先輩!」
「た、隆羅君」
少し語彙を強めて先輩に声を掛けると1オクターブくらい高い声が返ってきた。
「気持ち悪いから君付けで呼ばないで下さい」
「あれ、あれ」
壊れたように先輩がテレビを指していた。
見ると見慣れた顔がテレビに映っていてここまで来たら開き直るしかないだろう。
「潮さんと海が出ていますね。いや彼氏が言うのは変ですけど綺麗ですねメチャクチャ」
「知っていたの?」
「当たり前じゃないですか。海は俺の恋人ですよ」
「何で黙っていたのかな?」
「別に理由は無いですよ。先輩、もしかして凄く怒ってませんか?」
先輩の握り拳がプルプルと震えている。
「如月! お前! そこへなおれ」
「はい?」
「何故、黙っていたのかと聞いているんだ」
「大騒ぎになるからです。海の事を辞めさせたくなかったですし」
勢いに飲まれて床の上に正座してしまい。先輩が正気に戻った。
「どういう意味なんだ」
「だって先輩は大騒ぎするでしょ」
「そりゃそうだろ」
「それで周りに知れたら大変な事になるんですよ。天下の水神コンツェルンのご令嬢ですよ。何かあったら店が無くなちゃいますよ。マジで」
「そ、それは困るな」
「でしょ、黙っていればそんなご令嬢が先輩の店で働いているなんて誰も思わない訳ですよ。凄く可愛い子がこの店に居るって看板になってくれているんです。誰にも教えたら駄目ですよ、絶対に」
「ああ、判ったよ」
「先輩、仕事、仕事」
その日の午後。
店に先輩宛で一通の封書が速達で届いた。
差出人の欄には水神コンツェルン 総帥 水無月 潮とあり先輩がフリーズしている。
俺自身もある意味血の気が引いた。
封書の内容はバレンタインディーの日に用事が出来たので。そちらの都合に否応なく俺と海を休ませるという内容だった。
俺が言えば済む事の様な気がするのだが総帥は何を考えているのだろう。
そしてこの件も海の身分も他言無用と追記されていた。
スパイ衛星なのか。
はたまた隠しカメラなのか。
何処でどうやった情報を集めているのだろう。
午前中の事がもう既に知られているという事は俺のパンツが今日何色なのかも知っていたりするのか?
まぁ、用事の内容の方が俺としてはゾクゾクするくらい怖い。
バレンタインディーが音も無く忍び寄ってきた。用事の内容はよく分からないままだった。
何でも水神コンツェルンが主催のパーティーがあり。それに、水無月3姉妹が参加をする事。
俺には当日メモに書いてある物を持って会場に来る事と入り口で潮さんの名前を言えば分かるようにしておくからとの事だった。
このメモ書きがよく分からなかった。
黒の革靴、黒の靴下、整髪剤、櫛、メガネ。最初の三つはホテル時代のを使えば良いけどメガネって何に使うんだろう。
とりあえず靴を磨き紙袋に全部詰めて会場に向かう。
会場がまた凄まじい。巨大なホテルの絢爛豪華なバンケットホールでテラス付き。
潮さんがあまりベラベラしゃべるなと言うから黙っておくが。
言わない意味があるのだろうかお金持ちのする事は一般ピープルには理解できないものなのだろう。
会場に着くと見覚えのある黒服さんが居て軽く会釈をすると部屋まで案内してくれた。
ドアには水無月 潮 様 控え室と紙張られている。
ノックをすると聞きなれた声がした。
「失礼します」
「あら、ターちゃんやっと来たわね」
潮さんの格好は普段とはまったく違う感じだった。
綺麗な深紅で胸元が大きく開いたタイトなドレスを着ている。
「やっと、落ち着きましたよ。凄く綺麗ですね、潮さん」
「ありがとう」
「言っておく事を言わないと怒られますからね」
「もう、ターちゃんは一言多いのよ。でも相変わらず向かうところ敵なしね」
「でも、こんな格好でこんな所に来るのは2度とゴメンですよ」
俺の格好はスニーカーにジーンズ、ジャンパーにキャップの普段着で浮きまくっていた。
「でも、物怖じはしないのでしょう」
「ええ、まぁ。で、今日は何をさせられるんでしょう」
「今日は私付きと言う事で動いてもらうから判ったわね。それと海と凪に会っても許可を出すまで馴れ馴れしくしない事。そこの更衣室に着替えがあるから着替えてそのボサボサの頭も何とかしてちょうだい。急いでね、もうすぐ会場の準備が終わるから」
「了解しました」
潮さんの指示通り更衣室に入る。
更衣室と言っても俺が住まわせてもらっているアパートの部屋くらいあった。
白のTシャツを着て整髪剤で髪をセットする。
普段は潮さんが言うようにボサボサかキャップを被っている髪を櫛で撫でつけオールバックにしてアホ毛の様に前に少したらす。
昔、魚のアンコウみたいだと言われた経験があるがそんな事は気にしない。
用意されたスタンドカラーのシャツを着て黒いズボンをってベルトはサスペンダー?
それも少し幅が広いバーテンでもさせる気なのか。
時間がないと言う事なので気にせずにどんどん着替えをする。
カマーバンドを絞めて蝶帯をして靴下と靴を履き替え。
黒のコート(ジャケット)を着て出来上がり。
こんなカチッとした格好は久しぶりで。
それでも軽くって動きやすいくカンフーでも出来そうなくらいだ。
かなり高い物なのだろう。メガネを掛けて部屋を出る。
「潮さん着替えましたよ。潮さん?」
最近こんな顔ばかり見ている気がするのだが……
「潮さん、鳩が豆鉄砲食らったような顔は止めて下さい。恥ずかしいですから」
「本当にターちゃんなの?」
「凄く嫌な言い方ですね」
確かに身長が180センチあってこんなきっちりした格好をすると威圧感があるとホテルで言われたことがあるがそんなに酷い格好なのだろうか。
「何処かおかしな所でも」
「いや、そうじゃなくて。変な所なんて全然無いわよ」
「潮さんも変ですよ。顔も少し赤いですし。らしくないと言うか」
「いえ、別に、そんな事ないわよ」
いつもの潮さんらしくなくこっちの調子が狂ってしまう。
すると黒服さんが呼びに来たが潮さんはまだボーとしていた。
弄られる事を覚悟で手を取り手の甲に軽くキスをすると音がするくらい潮さんが真っ赤になった。
「参りましょうかお嬢様」
「大人をからかわないの」
海にした様に左腰に手を当てるといつもの潮さんに戻った。
心なし顔はまだ赤い気がしたけれど。
広い会場に入ると円卓がかなりの数があった。
潮さんの横を歩くと潮さんは俺の左腕に手を添えていた。
案内されたテラスの近くにバーカウンターが設営されている。
「ここで、カクテルや水割りを作って欲しいの、殆どのお酒は準備されているはずよ。臨機応変にね出来るわよね。レシピが判らなければカウンターの中に少しはあるはずだから」
「まぁ、大丈夫だと思います」
「何かあった時には私が責任を持ってフォローするから判ったわね」
「はい、了承しました」
周りを見渡すと同じような格好をしている人がいっぱい居るのだが服の感じがまったく違う。
総帥付きだからか。そりゃそうだろなと勝手に解釈をした。
カウンターの中を見ていると潮さんはTVで見たことのある偉そうな人達と挨拶をしている。
少しすると俺を手招きして呼んだ。
「何ですか?」
「少し時間があるから何か軽く食べに行きましょう」
「はい」
ホテルの最上階に連れて行かれてこれが軽いのかと言う食事をする。
「会場で隆羅と呼ぶのはまずいわね」
「何でですか?」
「海と凪が反応するでしょ。隆、タカ。そうだリュウと呼ぶから完璧に反応しなさい」
「えっ、いきなりですか」
「出来るわよね」
無茶苦茶なのだが潮さんは出来ない事は決して言わない。
そしてもう一つ無茶苦茶な事を指示された。
潮さんの挨拶の時にエスコートさせられる羽目になったのだ。
ひな壇中央のマイクの所まで連れて行き挨拶が終わったらまた連れて下がるだけよと言われたがそんな場所に出たら海や凪にばれそうな気がするが。
まぁ、やるしかないのだろう。俺は潮さん付きなのだから。