凪
夏休みも終わり。
夏の暑さも和らいで少しずつ都会でも秋の気配を感じていた。
俺は最近、少し早起きをしてランニングをしている。
いつものようにランニングをしてアパートへ戻るとキルシュが待っていた。
「潮の伝言で貴様の所へ行き『キッド』を呼んで来いと言われたが『キッド』て誰の事だ」
嫌な予感がした。
キルシュが来る一時間ほど前に屋敷の中では凪と海が言い争っていたらしい。
「凪、さっさと行きなさい」
「嫌だ、絶対に行かない」
「早く準備をしていきなさいってお姉ちゃんが言っているでしょ」
「もう、みんな行っちゃったもん。絶対に行かないんだから」
「凪が寝坊するからいけないんでしょ。まったく」
「違うもん。海お姉ちゃんがあのヘタレの所に行っていて起こしてくれなかったからだもん!」
そこに潮さんが現れてぶちギレた。
「2人とも朝から、いい加減にしなさい。キルシュ! 隆羅の所へ行き『キッド』を連れてきなさい。大至急よ」
と言われ俺の所へ渋々来たらしい。
知らないなぁと言いかけてキルシュを見ると頭の後ろに紙の様な物をつけていた。
「キルシュ頭に何を付けているんだ」
剥がすとあの生まれたままの写真だった。
写真を握りつぶし『五分だけ待っていてくれ』と言い部屋に上がる。
そんな訳で派手なオレンジ色のキャップをかぶりメガネを掛けパーカーを着て。
真っ黒なコンバースのブーツを履き水無月家の広いガレージに来る羽目になった。
「ターちゃんに、お願いがあるの。長野まで行って来てちょうだい」
「長野って今からですか? 俺仕事があるんですけれど」
「お店の方には遅れるって連絡しておくから。場所はここよ」
有無を言わせず地図を渡された。
いつも潮さんの頼み事はこんな感じで。
「なんで、コイツなんだ」
「だってしょうはがないじゃないお姉ちゃんは仕事で忙しくって行けないし。車の運転出来るの他にターちゃんしか居ないんだから」
「いつもの運転手に言えばいいじゃんか」
凪はどうにも納得が行かないらしい。
「他の人じゃ絶対に間に合わないものターちゃんじゃないと。ターちゃん、早く車を選びなさい」
凪と同様に説き伏せられて仕方なく見回して車を選ぶ。
俺が選んだのは型の古い国産車だった。
「これで良いですよ。俺、外車なんか運転した事ないし車の事よく分からないから」
「本当にそれで良いの? 車の事を知らないわりにあのポンコツかなりいじってあったじゃない」
「それは車の車種とそんな事はよく分からないけれど、機械は好きだったので親父に連れまわされて居る時にメカニックの人といつも一緒に居たからエンジンの事や足回りはそれなりに。それにこの車はこの中でも一番ヤンチャ仕様なんじゃないですか? 上の回転数はどれくらいですか?」
何故、潮さんにそんな事を聞いたかと言うと初めてここに案内された時に車に関してはあのクソ親父と同じ匂いを感じたからで。
それにこの車は他の車に比べてよく整備されているし足回りはガチガチにセッティングされていた。
「お前、この車は何だ?」
「走る棺桶みたいなものかな、怖いのか?」
「わ、私には、こ、怖い物なんか無い」
「じゃあ、そのちっこい体をシートに沈めてシートベルトを締めてくれ」
不安そうな凪を少し弄ると意地を張りだした。
イス硬が固いと凪が文句を言うとお尻の皮が剥けちゃったら可哀そうだもんねと言いながら潮さんがシートに合った長方形のクッションをシートに載せた。
「後の事は全て任せなさい、出来るだけ早く帰って来るのよ」
「仕事もありますからそれなりにですね」
「それと明日から2~3日。ターちゃんを連れていきたい所あるからお店の方はお休みしてね。凪の事ヨロシクね。凪ちゃんも大好きなお兄様の言う事良く聞くのよ」
潮さんに耳打ちされ凪の顔が少し赤くなった気がしたが気にせず車を出した。
「蛙の子は蛙ね。仁」
車を見送りながら潮さんが何かを呟くが聞こえるはずもなく。
しばらく車の調子や挙動を確かめながら京浜道路を走り環状線に入る。
凪に断りを入れてから窓を開ける。
風を受けながら走るのが俺のスタイルだった。
凪は詰まらなそうに視線を外に投げ出している。
「凪ちゃんはまだ学生だろう何処の学校なんだ」
「『ちゃん』はいらない、凪でいい。白百合学園だ」
「すごいな。でもそれが普通なんだろうな有名な小・中・高一貫教育のお嬢様学校だよな。中等部なのか」
「中等部じゃない、高等部だ」
「えっ、でも凪はまだ確か」
「15歳だ、飛び級したんだよ」
「へぇ、頭すごく良いんだな。俺の事もよかったら名前か何かで呼んでくれないか。お前じゃなくてさ」
よく聞き取れなかったので聞き返そうとすると先に返されてしまう。
「じゃ、しかたない今から、お前の事を兄貴と呼んでやってもいいぞ」
「兄貴か、了承した」
「なんだ、文句でもあるのか」
「いや別に」
凪とはちゃんと話した事があまり無かったが本当は素直で良い子なんだなと思った。
ヤマングゥだけどな(ヤマングゥとは島の言葉でお転婆と言う意味だ)
「あ、兄貴は何処の学校に通っていたのだ?」
「俺か、地元の学校だ」
「どんな感じだったんだ」
「どんなって、学生の頃は楽しい事なんて何も無かったな。休みは親父に連れまわされていたしな」
「凪はどうなんだよ」
「私は、詰まらなくは無いが」
曖昧で微妙な返事だった。
かなりのハイペースで走っていたので白と黒のツートンカラーの車が追いかけてきた。
潮さんの『後の事は全て任せろ』の言葉を信じてアクセルを開ける。
前を大型トラックが平行して2台走っていた。
ドアミラーを倒しほんの少しトラックの間が空いたその間を矢の様にすり抜ける。
トラックと車の間は5センチ位だっただろうか。
それ以上ツートンの車が追って来る事は無く凪を見ると固まっていた。
「ごめんな、怖かったか?」
「こ、怖いわけ無いじゃないか。お姉ちゃんの運転の方がもっとすごいぞ」
やっぱり潮さんはヤンチャらしい。
しばらく走ると突然携帯がなり潮さんからの着信を知らせている。
『その先のインターの近くで待ち伏せしているから迂回しなさい』
本当にこの人はスパイ衛星でもと思うと本当に持っていそうで寒気がした。
仕方なく迂回して高速にアクセスする事にした。
高速に乗りしばらく走り給油をかねて一休みする。
俺が車のドアに寄りかかりながら空を見ていると飲み物を買いに行き戻ってきた凪が話しかけてきた。
「兄貴は沖縄の島に住んでいたんだろ。どんな所なんだ?」
「そうだな、海が綺麗で太陽が輝いていて空がでっかくて夜は満点の星空で。人はみな優しく、とてもゆっくりとした時間が流れている所だ」
「そうか、いい所なんだな帰りたいか」
「ああ、いつかきっとな。そろそろ行くぞ」
時間的にはまだ余裕があったが早め早めはいいことで。
交通法規など完全無視して白と黒の車をちぎりながら進む。
これで潮さんの言葉が冗談なら確実に塀の中だろうなと考える。
凪はまだ、詰まらなそうに外を見ていた。
「詰まらなそうだな」
「別に」
「しょうがねえなぁ」
長野に入る前に高速を下りると凪が俺の顔を伺っている。
「何処に行くんだ。まだ先だぞ」
「少し寄り道だ。凪はジェットコースターとか好きか? 潮さんの車はそんな凄かったのか」
「そうだな、こうゴーって壁が寄ってきて、ドンッて車が言うんだ」
潮さんてどんな運転しているんだ。
しばらく走るとそこは親父に度々連れて来られたことがある、走り屋さんと言われる人が集まる有名な峠道だった。
メガネ橋の近くで車を止める。
「あの、レンガの橋はなんだ」
「あれか、昔の鉄道の橋だよ、メガネ橋と言ってかなり有名だぞ」
「じゃ、行くぞ」
アクセルを開け車を軽くスライドさせながらコーナーを抜ける。
「それ、どうだ」
「それ、それ、それ」
「ほら、ほら、行くぞ」
コーナーの度にテンションを上げ叫ぶ。
時々、走り屋らしい車とすれ違うが日中なのでそれ程多くは無い。
「バカ、バカ」
「止めろ、止めろ」
「行け、行け!」
しばらくすると凪が笑い声をあげはじめた。
近くで馬鹿をやられるとその馬鹿は伝染する。
途中で止まって少し休んでいると通り過ぎる走り屋や止まって遠巻きに見ていた。
「なんだ、見ない顔だな。それにあの旧車」
「おい、あれって伝説のクイーンの車じゃないか?」
「クイーンの車だぞあれ、あの伝説の」
「それに、あの派手なオレンジのキャップにあのメガネって『キッド』じゃないか」
「なんでクイーンの車をキッドが。こりゃすげーぞ」
「そろそろ行くか。本気で飛ばすぞ。寄り道し過ぎて時間があまり無いからな」
何年かぶりに全開で走っても追いかけてくる輩は1台もなかった。
俺が真剣な顔でいたせいか凪も何もしゃべらなかった。
長野市内の大きなホテルの駐車場には大型バスが何台も止まている。
タイヤを鳴らしながらホテルの入り口に車を着けるとロビーに居たお客や生徒が一斉にこっちを見た。
「凪、着いたぞ」
返事が無いが気にせずに車から降りてトランクの大きなバックを取り出し肩に掛ける。
助手席のドアを開けてもう一度、凪に声を掛ける。
「凪、着いたぞ」
「兄貴のバカ!」
凪の肩をゆするとハッとして俺の顔を見上げて叫んだ。
しゃべらないのではなくしゃべれなかったらしい。
立とうとしたがモゾモゾしながら『あれ、あれ』と言っている。
「凪お嬢様、失礼します」
シートベルトを外し肩にバックを担いだまま凪を抱き上げる。
嫌がる素振りは見せなかったが恥ずかしいのか少し顔が赤くなっている。
お姫様抱っこの状態でロビーに入ると視線が集中した。
「わぁ、凪ちゃんが来た」
同級生が騒いでいるが気にせずにロビーのソファーに凪を座らせ横にバックを置くと友達が集まってきた。
「凪をよろしくお願いいたします」
「ありがとう」
同級生の女の子達に軽く会釈をして立ち去ろうとすと凪が手を振っている。
軽く手を上げて合図をして車に向かう。
「凪ちゃん、あの方、どちら様なの?」
「ああ、もしかしてあの方が、あのお兄様なの」
「キャアー」
などと言う黄色い声が聞こえてきた。
その後、全開で峠を飛ばし俺はあの峠のメガネ橋の下で携帯で写メを撮っていた。
やけに人が多いなと思いながらもそんな事に構っている時間は無く。
何故、こんな事をしているかと言うと凪を抱きかかえてロビーを歩いている時に凪が耳元でこんな事を言ったからだ。
「あのメガネ橋の写真が欲しいから、帰りに撮って来てくれ」
お嬢様はやはり少しわがままだった。
潮 さんに言われたとおりに水神のビルの駐車場に車を止め。
管理人に車のキーを預け店に向かい猛ダッシュした。
息を切らして店に入ると先輩が睨んでいる。
「本当にスイマセンでした」
「何していたんだ、今日は」
「ちょっと長野まで」
「如月、お前冗談も程々にしろよ、馬鹿かお前は」
まったく信じてもらえず帰りに撮ってきたメガネ橋の写真を見せると『お前、壊れているだろう』と言われた。
仕事を終え先輩に明日から2~3日急用の為休みをもらいたいと言うと。
「お前、最近、弛んでるな。女が出来るとこうだからな、でもしょうがないか。ビシッと決めて来いよ」
変な勘違いされてしまった。
「クイーンが帰ってきた、いやキッドだ」
「キッドはやっぱりキングとクイーンの」
「クイーンの愛車にキッドが」
等々その大騒ぎのネットを潮さんは見ながら微笑んだ。
「クイーンがキングに出会った時にキングにはもう可愛らしいお姫様が居たのよ」
その晩の峠はお祭り騒ぎだったらしい。
そんなお祭り騒ぎも吹っ飛ぶほど大変な事が後に俺の身に起こる事を誰も知らなかった。