マレク・ヤシコフ・オーリフ 3
午後の日も落ちようとしている。
先ほど部屋の奥まで照らした光は、今や窓辺にまで退いた。後はない。
沈黙を破ったのはマクシムであった。
「随分と長く時間を割いてもらったな。もう日も暮れる。最後になってしまったが、今日伺った訳をお話ししてもいいだろうか」
「それはぼくも気になっていたところだね。君がニコビルグに帰ってきてもう大分経つはずだ。すぐにうちを訪ねて欲しかったけど、恨み言は置いておこう。——ねぇマクシム。なぜ今なんだ?」
「やりたいことができたからだろうか。母の死を知って以来、ずっと、おれには何もなかった。すべてどうでもよかった。正直に言えば。だが、まさに今日同行してもらったエカテリン嬢が気づかせてくれたんだ。おれがやるべきことを」
「ああ、全く! 気になることばかりだよ。君と彼女の関係も然り。でもそれは今度に取っておこう。それで、やりたいこととは?」
マレクは混線した会話の糸を断ち切らんと声を高め、端的に問う。しかし対手たるマクシムの答えは迂遠なものであった。
「きみのところは最近、商売がやりづらくないか?」
「……商売?」
「オーリフは色々な分野に手を出しているね。おれの友人達も幾つかの工場でお世話になっている」
「……どこの工場主だい? これは知らなかったよ。君の薄情さを。君はまず、うちに訪ねてくるべきだった。なんでそんな回りくどい……」
「いや、たぶん勘違いしている。おれの友人達は工場主様でも管理官様でもない。工員だ」
「工員! なんとも。しばらく会わないうちに、大分おかしくなったものだね。まぁいい。それで?」
「それで。それで、色々なやっかいごとがあるだろう? なぜかは知らないが、俺はよく友人達から相談を受けるんだ」
青年の顔色が俄に変わる。
突如現れた幼なじみの青年が発した言葉は、旧交を温めるものでも物乞いのそれでもない。オーリフ家の〝仕事〟に関わる話だった。
「争議のことかな? 確かに君の言う通り、やっかいごとは山ほどあるさ。それで?」
「それで、どうする?」
「どうするって、じきに片が付くよ。春に新しい勅令が出て終わりだ。工員の労働時間制限と引き換えに怠業は禁止される。イーヴン陛下のご芳情が示される。正教の信仰篤い慈愛の手が。民を慈しむ制度だね」
マレクの言には幾分かの皮肉が含まれている。
ノーレムリアにおいて現状規定される工員の労働時間上限は十三時間。それが十一時間半に引き下げられ、祭日と休日の前日は十時間を超えないことと定められる。西方諸国の労働法に比較的近い形の規定である。
また、従業員数が百人を超える工場においては労働者向けの診療所を併設することも義務として定められる。
一方で、工員達が徒党を組んで怠業を行う形態の抗議は明確に違法となり、検挙の対象となる予定だった。
半ば一線を退き自領に籠もることが多くなった当主ヤシクに代わり、オーリフの所有する企業群の実質的な差配を担うマレクにとって、それは最善とまでは言えないが、まあ悪くはない内容であった。
オーリフをはじめとする大規模事業主は法の遵守を求められる。ある意味で彼らは国家の文明化の象徴である。西方諸国に劣らぬほどに整然とした、清潔な、つまり文明的な工場がノーレムリアにも存在することを中央大陸の列強に知らしめるものだ。
加えて、イーヴン三世が熱を入れる正教施設の普及拡大——診療所に付設を義務づけられた小聖堂の建設と運営にも多大な資金を投じねばならない。
一方で、小規模企業は恐らくそれを無視するだろう。家内工業とさして変わらぬ小工場を摘発して回る余力など当局には存在しないからだ。
これらの状況を綜合して弾き出される損得を、マレクは「まあまあ」と踏んでいた。自分たちは経費ばかりが嵩みながら、小工場においてはある程度の躍進があるだろう。だが、それを踏まえてなお「まあまあ」だ。
西方諸国で相次ぐ労働者の待遇改善は東の果てノーレムリアをも確実に侵食しつつある。
近年の労働者贔屓は、ある意味で彼ら自身の力で勝ち取ったものともいえる。
昨年事業の清算を余儀なくされたモルネ商会はオーリフとさして変わらぬ規模を誇る大企業体でありながら、長く続く労働者の集団怠業抗議により製鉄、紡績の主力事業が麻痺した結果、資金繰りの目処が立たず、その歴史をあっけなく終えた。
その様を間近で見続けたオーリフの諸企業にとって、労働者の団結行動を抑制するお墨付きが国家より与えられることはまさに天佑である。多少の損が出ても、やむを得ぬ経費と考えて諦めが付く。
マレクの答えを受けて、マクシムは微かに笑みを浮かべた。
「そうなるといい。とてもいいと思う」
「そうはならないかい?」
「分からない。ただ、俺の友人達は欲深い。君やおれと同じくらいには。労働時間が収まれば次は住居と賃金だろう。皇帝陛下のお慈悲に感謝する一方で、こうも思うはずだ。皇帝陛下のお慈悲は聖木よりもいと高く在るはずだ、と。日銭を少し上げてくださるくらいわけはないし、雑居の薄汚れた住居をほんの少しマシなものに建て替えてくださるのも大した手間ではなかろうと」
「マクシム。マクシム。そんな話は通らないよ。今度の労働法は明確に団体怠業を禁止しているんだ。警邏隊に蹴散らされ、場合によっては逮捕される」
ボリシェールは大きく頷く。鷹揚に。
そして述べた。民の言葉で。
「たとえ話をしよう。父も母もなく、子もいない。あるいは幼くして亡くした。あるいは連れ合いをもてる見込みもない。財産もない。そんな人間の話をしよう。彼は警邏を恐れるかな。彼は逮捕を恐れるかな。彼は死を恐れるかな。おれはそういう類いの人間をよく知っているよ。——彼は何も恐れない」
「……怖いことを言うね。でも、君の言う通りの人間がいたとして、その者はなぜ待遇改善を求めて法を犯すんだい? 彼らが欲深いからか? 君が今、自分で述べたようにさ。それなら警邏に捕まり監獄に放り込まれるのを恐れるはずだ。快適さへの欲を持つ人間は、不快を恐れると思うよ」
「いや。いや。マレク・ヤシコフ。違う。彼らが何も持たないのは、不幸にもこれまで何も持てなかったからだ。一度何かが手に入れば、もっと欲しくなる」
「その大それた欲のお陰で、せっかく手に入れたものを失うことが明白だとしても?」
軽快なまでに素早い会話の応酬はここで一息つくこととなった。
マクシムは肘掛けに載せた両の手を腹の前で結び、じっと眺めた。ノーレムリア有数の富豪であるオーリフ子爵家の後継子を。
やがて答えがあった。問われた以上答えるしかない。青年は緩慢に述べた。
「おれの友人達はね、マレク。何かを手に入れた経験がない。なければないでよかったんだ。正教僧が説くように、それが彼らの〝物語〟だった。だが一度経験した以上、後戻りはできない。恐怖は欲を抑えられない」
「欲にも……限度があるはずだよ」
「その限度がこの立派なお屋敷での生活あたりだとしたら、彼らにはまだまだ欲する余地があるね」
青年は瞳だけを動かし、小部屋をぐるりと見渡す。
そして言を継いだ。
囁くように。
「だから、必要ではないかな? 彼らと歩調を合わせ、彼らを理解し、彼らの欲を鎮め、——導く者が」
目眩を抑えながら、マレクは意識を保とうと必死になる。
数歩の距離に座する男。
自身の従兄弟であり、幼なじみでもある青年。父も母も兄も失い、財産を失い、身分も亡くし、名もなくした一人の青年。これはようするに彼の話なのだ。
にもかかわらず、その佇まいは卑屈や捨て鉢の対極にあった。
工員達と彼を隔てるものはただ一つ。
「失った」経験、換言すれば「何かをもっていた」経験の有無である。
マレクはふと気づく。
マクシム・ボリジチが腰を下ろした椅子。
赤茶けた、使い込まれた総革の単座。
かつて、屋敷を訪れる度にその椅子を定位置にした男がいた。
|ニコルス・ニコレヴィ・レムリス《ニコルス五世》という。
姿形も身分も何もかも異なる。しかしマレクは幻視した。
かつて父ヤシクは、かの椅子を指して戯れにこう呼んだ。
「第二の玉座」と。
今、不揃いな黒髪をなでつけ、古い粗末な外出着に身を包んだ一人の青年が、その座を占めていた。
「マレク・ヤシコフ。おれは君の力になりたいと思う。君の悩みを解消する助けに。幸いなことに、おれは君の悩みの種と友人なのでね。何かが起こりそうになったとき、彼らと同志として話ができる。穏便に。つまり、やっかいごとを回避する手伝いができる」
「必要ない、と言ったら?」
ボリシェールは両腕を組み、しばし瞑目した。
そして返答があった。
一瞬前まで場を圧した淀みは一切抜き去られていた。
ごく軽快に、彼は述べた。
「その場合は申し訳ないが、対価なく、ただ助けて欲しい。多分、君にはそうする義務があるはずだ。……君の良心がそう命ずるだろう。君自身に」
◆
当初の想定通り、マレクは帰りの移動手段を持たぬボリシェールとカーシャのために自家の馬車を用意した。
青年は厚意をありがたく受け入れた。ゆえに二人は、その居室において言葉少なに在った。戸板一枚を隔ててオーリフ家の御者がいるのだから当然の反応であろう。
カーシャは対面に座るこの男、ボリシェールの素性を大体のところ理解した。
没落した貴族家の遺児であり、かつて犯罪に連座し流刑に処されたこともあるらしい。その上、刑期の途中で脱走しニコビルグへ戻ってきたという。ならば彼のこれまでの振る舞いも納得がいく。大っぴらに家名を名乗ることは不可能である。身元を隠さねばならない。
状況を冷静に振り返れば、今この瞬間、自分は流刑地を脱走した凶悪犯と共にいることに気づく。
しかし特段の恐れはない。
先ほど眼前に繰り広げられたボリシェールとマレク——オーリフ家の後継子の友好関係こそが何よりの保証となったからだ。
ノーレムリアは歴とした法治国家である。少なくとも知的階層に属する人々はそう自認している。
だが一方で、その法が適用される範囲については自信を持てないのも事実である。
例えば彼女が家に帰り着いた後、普段から信奉する西方諸国流の正義感に突如目覚めたとする。翌日警察署に出向きボリシェールを告発する。結果はどうなるか。彼は逮捕されるだろう。真っ当な市民の娘であるエカテリンの訴えがあったからだ。そして数刻後には釈放されるだろう。オーリフ子爵家の後継子による口利きがあったからだ。
つまるところノーレムリアは歴とした法治国家である。ただし、法以上に重視される要素が存在するだけだ。
正直なところ、青年とマレクの会話を十分に理解できたとは言いがたい。
二人の男は明らかに、彼女が持たぬ共通の前提を元に会話を交わしていたのだから無理からぬことだ。それ自体は構わない。
しかし、ただ一つだけ、是非とも解消しておかねばならない疑問をカーシャは抱いていた。
「ボリシェール。一つ分からないことがあります」
「分からないことはたくさんあるよ。おれにも」
「ええ。もうあなたの〝分からない〟を咎めはしません。それはさておき、私が知りたいのは単純なこと」
「おれに答えられることなら、なんでも答えよう」
青年は女が見慣れた雰囲気を見事に取り戻している。先刻屋敷で見せた威風は姿を消し、そこに在るのは〝ぼんやり〟した元隷農であった。
「なぜ私を供に? 私は今日、あの場に必要でしたか?」
至極真っ当な疑問だろう。
彼女は二人の男達の会談に加わらなかった。ただ傍観者として行儀良く椅子に腰掛けていただけである。その在り様は部屋の調度品に等しい。
一時の興奮から冷めてみると少々不快感すら覚える。
「おれとマレク・ヤシコフにとっては必要ではなかったかもしれない。でも、きみにとっては必要だった」
「謎かけは止めてください」
明らかに強勢な語気を受けて青年は両眉の端を下げた。
その様は飼い主に叱られた犬のものとも見える。あるいは、愚か者を眺める知者のあきれ顔とも。
「難しいことはなにもないよ。カーシャ。ようするに、君はマレク・ヤシコフと知り合いになった。それは意味のあることだとおれは思うが、どうだろう」
「……それは?」
「エカテリン。君の家は製鉄工場を営んでいる。立派な事業だ。だが、オーリフ傘下の大規模な鉄工所と比べれば、多分ほんの少し、小規模だ」
「もちろん。それは当たり前です。オーリフの鉄工所は軍とも関わる規模ですから」
「この先、小さな工場は減るだろう。大きな工場に呑み込まれてしまう」
「でも、さっきの話を聞く限り、今度出されるという勅令は大きな工場を戒めるものでしょう?」
「逆に言えば、工員にとってはより魅力的な場所になる。待遇面で」
「今だってそれは変わりません。でも、うちにもちゃんと工員はいます」
「これまでは。彼らは知らなかった。農村から伝手を辿ってやってきて、そこで働くだけだ。だが今後は違う。村から出てきた人々の子ども達は元隷農の息子や娘じゃない。元工員の息子や娘だ。彼らは親たちが持っていた〝縁〟を持たない」
西方諸国の背を追って急激な工業化を進めるノーレムリアは、その過程においても模範たる国々と同じ道を辿った。
農村の人口を都市に吸い上げることで工場は労働力を得る。
西方においては長い時間をかけて徐々に起こった変化だが、ノーレムリアはそれを倍速、あるいは三倍速で進めようとしている。
全ての条件は整っていた。
国家は産業の革新と発展を望んだ。西方諸国から投資として膨大な金が集まる。そして働き手には事欠かない。
西方諸国においてはいかに食い詰めようと、農民達は奴隷ではなかった。ノーレムリアにおいては彼らは奴隷である。隷農——奴隷が奴隷である所以は自身の物化にある。
物は物を所有できない。彼らは何も持たない。彼らは故郷に愛着を持たない。そこは故郷ではないからだ。物に故郷はない。ゆえに彼らは気軽に動く。
「へぇ。あなたはお詳しいんですね。随分」
何とか一矢報いようと明らかな憎まれ口を投げる女に、ボリシェールは真摯な反応を示した。
「ああ。君よりは詳しい。当然のことだ。おれこそが彼らなんだから」
反駁しようと身を乗り出したところでカーシャは気がついた。
確かにこの男は〝彼ら〟なのだ。
彼を引き留めるものは何もない。親類も家も財産もなく、名すらない。
「その……」
憎まれ口の二の矢を呑み込んで口ごもる。
その様を男は眺めていた。無感動に。無表情に。
「カーシャ。きみは真っ当な人だ。思いやりがある。それはすばらしいことだよ」




