1 タダの旅人
街の喧騒の中を、紺青色の髪を持つ男が軽い足取りで駆け抜けていく。
人混みに紛れ、路地裏を抜け、廃アパートの階段を登って隣の建物に飛び移る。
「………っと、危ない危ない」
廃アパートから三件先、踏み外しかけたところをどうにか踏ん張り、たった四階建てのマンションの屋上に転がり込んだその時。
ヒュッと風を切る音がした。男は寸でのところで後ろに飛び退き、その風を切る音の正体に口笛を一つ。
「ひゅ~。よく追いつけたね、すごいよ君」
「その喧しい口を今すぐ閉じろ」
風を切ったもの__ナイフを持ち直し、長い黒髪を三つ編みに結った青年が男の喉元にそれを付き付ける。男は観念したかのように両手を上げ、ひらひらと振り、「怖いって、降参降参。でもね、君は僕の事を殺せないよ」と挑発気味の笑みを浮かべた。
その胡散臭い笑みに、青年の眉間の皺は更に深くなる。
「試してみる?」
「は?何言ってんだ、おま____」
青年が言い終わる前に、男が青年のナイフを持った手を掴み、自身の胸元に突き刺した。
男が身に着けている黒いシャツに、胸元から流れ出る赤黒い血液が染み出す。青年は困惑で目をしばたたかせ、男が掛けた色眼鏡の奥にある瞳を見つめた。
「ね、殺せないでしょ?」
「なん、で………自ら、お前………」
「そんなことはどうでもいいじゃないか。ところで、何か一つお忘れじゃないかい?」
男の瞳が半月のように細められた、次の瞬間。男の胸元から赤黒い鎖が現れ、それは青年をきつく縛り付けた。
胸元から出てきた鎖の先は男の手の中に納まり、鎖を引いてから力を緩め、青年を転ばせる。
尻もちをついた青年の前に男はしゃがみ込み、自身が掛けている色眼鏡をずらして、青年の姿を見定めるように視線を動かす。深い海のような青い瞳だった。
「君が身に着けているマント、あの組織のものだろ?僕を暗殺しに来たんだろうけど………。可哀想に、暗殺相手の異能を事前に教えてもらえてなかったの?」
「……おい、この鎖を解け」
「素直に解くわけなくない?君、あんま頭良くないね」
ケラケラと笑い、男は青年の首に手刀の一撃を叩きこむ。
青年の視界は暗転し、屋上の堅いコンクリートの上に倒れ込んだ。
*****
「っは、」
目が覚めた。俺は、何をしていたんだっけ。
あぁ、そうだ。任務だ。任務に出ていて、異能を持つ男を追っていて、それで………。
「起きた?」
背筋が冷えた。冷えたどころじゃない。凍り付いた。
目を覚ます前の記憶が鮮明に蘇り、咄嗟に自分の左下腹部に付けていたナイフホルダーに手を伸ばす。
だが、指先が脳に伝えた感覚は、革製のナイフホルダーの感覚ではなく、自身が普段身に着けている、特殊な素材で出来ているタクティカルジャケットの感覚だった。
眠っていた部屋を右に左にと見回して、最後に男の方を見ると、彼は笑顔で「おはよう」と挨拶をしてくる。俺が無視をして睨み付けていると、男は軽快な笑い声をあげた。
「あっはは、ここがどこか気づかない?」
「気付いている。その上で、何故お前がここに立ち入っているのかを考えているんだ」
「もう、そんなに警戒しないでよ」
降参降参とぬかしておいて思い切り拘束して手刀を叩きこんできたのはどこの誰だ。
「俺の武器は」と尋ねれば、彼は笑顔を崩さないまま、俺が眠っていたベッド横のサイドテーブルを指差した。
俺は立ち上がってそれらを身に着け、もう一度ベッドに座った。本来なら逃げ出すべきだが、逃げ出せない理由__いや、逃げ出す必要がない理由がここにはあった。
「もう一度聞く。何で暗殺対象であるお前が、建物の中に入り込んでいるんだ」
そう、俺が眠っていた場所。それは、俺が所属する『対異常能力特別対策機関:RAVEN』内の、仮眠室だった。
RAVENは、人間の道を踏み外し、人智を超越する力_異能を手に入れた者たちを暗殺する事を目的に作られた機関だ。
その仕事内容と、組織自体の秘匿性から、建物内に入るには、組織に所属する人間が持つ所属番号と網膜認証が必須のはず。
仮にどうにかして入れたとしても、廊下で誰とも遭遇しない確率は限りなく低い。
「あぁ、金髪の女の人に「この子届けに来ました~」って言ったら簡単に開けてくれたよ」
「あの野郎………!!」
美しい長い金髪を持つ同僚に悪態をつき、俺は頭を抱えた。
馬鹿なのか。あいつは馬鹿なのか。
ここは政府公認……どっちかと言ったら黙認の暗殺組織だぞ。こんな得体の知れない奴を建物に入れるんじゃない。次会ったら必ず文句を言ってやる。
男は頭を抱えている俺の顔を覗き込んで尋ねる。
「君、名前は?」
「………言うと思うか」
「黒木朔弥、2150年生まれの二十歳でカナガワ出身、続柄は___」
「知ってんなら聞くんじゃねぇ!!!」
仮眠室のクッションを放り投げると彼は背を反らして避けた。腹が立つ。
「ま、僕も教えてあげるから。そう怒らないでよ」
「お前が言う事が本当ならキレない」
「ふふ、そうかい。エーベル・ヴァルトシュタイン、ドイツ出身。今までいくつもの国を渡り歩いてきたただの旅人さ。よろしくね」
差し出された手を見て見ぬふりをし、俺はベッドの上で胡坐をかいた。
「”タダの旅人”、ねぇ……。ただの旅人サンは、どうして異能を持っているんだ?」
「色々あるのさ、色々とね」
ふふん。
エーベルはそう笑うと、窓から空を見つめた。
曙色、もう夜明けが近いようだ。




