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焚き火の周りには、安酒の匂いと下品な笑い声が満ちていた。

ガントレットをくれた古参兵たちが、月に向かってひたすら拳を突き出すコウタの姿を指差し、肩を揺らしている。


「おいおい、見てろよ! 今の左、月がちょっと震えたんじゃねえか!? ぎゃははは!」



「いいなあ、あの純粋さ。あんたの亭主、最高に面白いな。ここじゃあ最高のエンターテイナーだよ、聖女様(笑)」


兵士の一人が、リアネの肩を馴れ馴れしく叩きながら、濁った酒の入った杯を突き出した。

リアネの全身に、激しい嫌悪感が走る。

かつての自分なら、こんな汚らしい男たちは目も合わせずに浄化の炎で焼き払っていただろう。

だが、今の自分には権威もなければ、この男たちを黙らせる実力もない。

(……この、クズどもが。私のコウタを、見世物扱いして……)

彼女は屈辱に奥歯を噛み締め、爪が掌に食い込むほど拳を握った。

しかし、その瞳の奥には、冷徹な計算が走り始める。

この男たちは、コウタを「狂った玩具」だと思っている。

ならば、その「面白さ」に値段を付けてやればいい。


「……ふふ、そうでしょう? あの子、一度言い出したら聞かないの。でも、あんなに一生懸命なのは、私を守りたいからなんですって」


リアネは瞬時に「健気な妻」の仮面を被り、潤んだ瞳で兵士を見上げた。

絶望的な状況下で、狂った夫を支える聖女。

その哀れな姿は、荒くれ者たちの保護欲と、歪んだ優越感を刺激した。


「へえ、健気なこった。……まあ、あんなに暴れてりゃ腹も減るだろうな」



「そうなんです……。でも、私たちが持ってきた食料ももう底を突いてしまって。このままだと、彼、修行の途中で倒れちゃうかも……」


リアネは消え入るような声で、男の袖を弱々しく掴んだ。

男たちは顔を見合わせ、酔った勢いで景気よく笑った。


「おう、任せとけ! 俺たちの余ってる干し肉と、この間の略奪で手に入れた毛布を分けてやるよ。月殴りのあんちゃんが倒れちまったら、明日からの楽しみがなくなっちまうからな!」



「ありがとうございます……。皆様の慈悲に、感謝しますわ」


深々と頭を下げるリアネの口元は、髪に隠れて見えない。

そこには、自分を蔑んだ男たちから無慈悲に物資を吸い上げる、悪女の笑みが張り付いていた。

(笑ってなさい。……今はまだ。こいつが「月」を落とすその時まで、精々たっぷりと貢がせてあげるわ)

背後では、コウタが新しいガントレットを嵌めた拳で素振りを続けていた。


兵士たちは焚き火の周りで、下卑た笑い声を上げながら通信魔石をコウタに向けていた。

彼らにとって、それは過酷な最前線での数少ない娯楽。

「無能な狂人」を世界に晒し、笑い物にするという悪趣味なライブ配信だった。


「おい、見てろよ! 今夜も『月殴りのあんちゃん』は絶好調だぜ! 誰かこいつに、月までの距離を教えてやってくれよ!」


兵士が流した映像は、軍用の低速回線を通り、かつてリアネが君臨していた動画プラットフォームのミラーサイトへと流れ込んだ。

最初は「また狂った兵士が何かやっている」と冷笑されていたが、画面の端に泥にまみれた「あの女」が映り込んだ瞬間、ネットの海に激震が走った。


「待て……この女、垢バンされた『捏造聖女』のリアネじゃないか!?」



「最前線に送られたって噂は本当だったのか。……おい、隣で空を殴ってるのは、あの無能な幼馴染か?」



「シュッ、シュッて……音だけは一人前だけど、これただの素振りだろ。実戦ですらないし、何も起きてねえ。やっぱりヤラセと無能のコンビだな!」


かつては「ヤラセ」と「贅沢」で憎まれた二人。

今映し出されているのは、重すぎるガントレットに振り回され、筋繊維を悲鳴を上げさせながら空を殴るコウタと、兵士から物資をせしめるリアネの、あまりにも「本物」な転落の光景だった。

特定班による検証は瞬時に終わった。

「アカツキ山脈、第四防衛基地。あそこは魔獣の氾濫で半壊している地獄だぞ」

視聴者たちは、かつての嘲笑と、今の二人の「無残な現実」を突き合わせ、不気味な熱量で映像を注視し始めた。

(……何かしら、この視線。……懐かしい、誰かに見られているような不快感……)

リアネは、背中に走る奇妙な悪寒に肩を抱いた。

コウタはといえば、重い鉄の塊を手にしたことで「修行の効率が上がった」と信じ込み、実際には一ミリも実力が上がっていないことにも気づかず、虚空を殴り続けている。


基地の兵士たちが掲げる通信魔石の向こう側。

かつてリアネが「聖女」として君臨したD-tubeのミラーサイトでは、残酷なリアルタイムカウンターが表示されていた。

【月殴り:34,201回 / 成功:0回】

画面には「まだやってるのかよ」「無能の極致」「もはや芸術的な無意味さ」といった嘲笑のコメントが、濁流のように流れ続けている。

コウタは、重すぎる錆びたガントレットを嵌めた腕を、震わせながらも月へと突き出していた。


「……はぁ、はぁ……っ! リアネ、あの文字……あれは、何……?」


コウタが肩で息をしながら、兵士の魔石に浮かぶ不気味な数字を指差す。

リアネは冷たい泥の上に座り込み、計算高く微笑んだ。


「……あれはね、世界中の人たちが、あなたのパンチを数えて応援してくれている数よ。ほら、あなたが一回殴るたびに、数字が増えるでしょう?」



「……応援……。そうか、みんな、見ててくれてるんだ……っ!」


コウタの瞳に、危ういほどの純粋な光が宿る。

それが自分を嘲笑うための「無能カウンター」だとも知らず、彼は再び、一ミリも月に届かない拳を虚空へと叩き込み始めた。

その姿を眺めながら、リアネの心は冷え切っていた。

先ほど、基地の近くに現れた魔獣に対し、コウタは必死に食らいついていた。

何度も地面を転がり、泥を噛み、ボロボロになりながら、ようやく一匹を仕留めて帰ってきたのだ。

確かに成長はしている。

並の兵士よりは頑強だ。

だが、それは「超常の力」などではなく、ただ死ぬ物狂いで足掻いただけの、泥臭い凡人の領域を出るものではなかった。

(……やっぱり、この男は『無能』のままなんだわ)

期待していたような奇跡は起きない。

圧倒的な力で自分を救い出してくれるヒーローになど、この男はなれない。

それでも、リアネはこの「少しだけ腕の立つ狂人」を最強だと煽て続けなければならない。

兵士たちの「見世物」として、お零れの物資を恵んでもらうために。

やがて、基地の転送陣に、視聴者たちから「支援物資」が届き始めた。

中に入っていたのは、腐りかけの果物や、刃の欠けた拷問器具、そして「もっと無様に暴れろ」という侮蔑のメッセージカード。


「見て、コウタ! 信者たちからの『供物』が届いたわ。……これはね、あなたがもっと過酷な修行に耐えられるようにって贈られた、特別な聖遺物なのよ」


リアネは、メッセージカードを足で踏みつけ、中から取り出したボロボロの鉄枷をコウタに差し出した。


「これを足に縛り付けて、朝まで殴り続けなさい。それが、私を助けるための唯一の道なんだから」



「……うん! 俺、やるよ、リアネ! みんなの期待に応えて、絶対、君を幸せにする!」


悪意に満ちた鉄屑を、至宝のように抱えて修行に戻るコウタ。

引き摺る足が重さに悲鳴を上げているのを、リアネは冷めた目で見つめていた。

いつか彼が限界を迎えて死ぬか、あるいは自分が先に耐えられなくなるか。

そんな終わりなき綱渡りの日々が、月光の下で続いていく。


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