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アカツキ山脈・第四防衛基地の跡地。

そこは、これまでのリアネが知る「貨幣」や「権威」が一切通用しない、暴力と物々交換だけが支配する原始的な世界だった。


「……ここ、お金は使えないの?」


リアネは、たまたま通りかかった野良の傭兵に問いかけ、絶望的な答えを受け取っていた。

教会の裏金も、Dチューブの収益も、ここではただの紙屑だ。

必要なのは、食える肉か、魔獣の角か。

殺した獲物の鮮度だけが、この地獄での唯一の「価値」だった。


「リアネ、準備して。……俺と一緒に、もっと前の方へ行こう。そこなら、君が浄化しなきゃいけない魔獣がもっとたくさんいるはずだから」


コウタが、自らの血で汚れた拳を握り締め、基地のさらに奥……魔獣がうごめく漆黒の谷を指差した。

彼は、リアネが課せられた「浄化の試練」を一日でも早く終わらせるため、彼女を最前線のさらに最前線へと連れて行こうとする。

だが、リアネの足は、蛇に睨まれた蛙のように動かなかった。


「……だ、だめよ! 私は、ここを動いちゃいけないの!」


リアネは、ガタガタと震える膝を必死に隠しながら、掠れた声で叫んだ。

今の彼女が前線へ行けば、一秒と持たずに魔獣に食い殺される。

何より、彼女の魔法はもう「癒やし」ではなく「侵食」だ。

戦場で見せられるわけがない。


「私は……ここで待ってるわ。コウタ、あなた一人で行ってきて」



「え? でも、君の魔法がないと、もし俺が怪我をしたら……」



「……大丈夫よ! あなたが戻ってきたら、私がここで、最高の回復魔法をかけてあげるから。……だから、あなたは私に触らせないくらい、完璧に獲物を仕留めてくればいいの」


リアネは震える手で、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。


「私は……この基地の『結界』を維持しなきゃいけないの。だから、一人で行って。……お願い、コウタ。私を守ると思って……!」


彼女の瞳には、かつての傲慢な光はなく、ただ自分を一人にしないでほしいという、卑屈なまでの依存と恐怖が濁っていた。

コウタは、その震える声に胸を締め付けられるような思いをし、深く頷いた。


「……わかった。リアネがここで待ってるなら、俺はもっと強くなって、君の魔法が必要ないくらいに全部片付けてくるよ。……待ってて。すぐに肉を、持って帰るから」


コウタは一歩、また一歩と、死の充満する谷へと足を踏み入れていく。

一人取り残されたリアネは、彼の背中が見えなくなるまで、泥を掴んだまま震え続けていた。



 数時間後、谷の奥から凄まじい衝撃波が響き渡り、血まみれのコウタが帰還した。

その背には、魔獣の死骸が叩き潰された状態で担がれている。


「……ただいま、リアネ。君の言った通りだった……。俺、迷わずに拳を振るったら、あんな魔獣も、一撃で……」


コウタは誇らしげに笑おうとしたが、その脇腹からは深い裂傷が覗き、どくどくと鮮血が溢れていた。

リアネは引き攣った顔で後ずさりする。

やはり、この男は異常だ。

そして、自分が「正しい修行」をさせていたという事実に、歪んだ万能感が再び胸の内で鎌首をもたげる。


「……当然よ。私の選んだ道だもの。……ほら、早くそこへ座りなさい。治してあげるから」


だが、リアネの心臓は早鐘を打っていた。

先刻、教会の前で披露したのは、生命を腐敗させる「侵食」の呪い。

もし今、同じことが起きてコウタの傷を悪化させれば、唯一の守護者である彼を自らの手で殺すことになる。

(……やるしかないの。でないと、私はここで死ぬ……!)

リアネは目をつむり、震える手を血に濡れた脇腹にかざした。

「お願い、光って!」と心の底で絶叫しながら、魔力を注ぎ込む。

すると、どうしたことか。

彼女の指先から溢れたのは、教会で見た泥のような澱みではなく、かつてよりもずっと澄み渡った、純白の癒やしの光だった。


「……ああ……すごい。やっぱりリアネの魔法は、あったかいな……」


瞬く間に傷口が塞がり、コウタの顔に赤みが戻っていく。

(……なんで? どうして治るのよ……!?)

リアネは内心で激しく困惑していた。

教会の高官たちの前ではあれほど濁っていた魔力が、この地獄のような最前線で、無垢なコウタに触れた瞬間だけ、聖女としての輝きを取り戻したのだ。

その理由は、今の彼女にはまだ分からない。


「……よし、完璧ね。さあ、次は食事よ。その汚い肉を、早くどうにかしなさい」


困惑を隠すように、リアネは傲慢な態度で命じた。

その後、放置された野営道具を使い、コウタが持ってきた魔獣の肉を火にかけた。

かつて教会で食していた、スパイスを効かせた高級なジビエ料理とは程遠い。

血抜きも甘く、焦げ臭さと野獣特有の臭みが鼻を突く、無骨な塊だ。

泥だらけの指で、適当に千切っただけの肉。


「……はい。こんなの、私に食べさせないでよね」


木の枝に刺しただけの肉を差し出すと、コウタはそれを宝石でも受け取るかのような、畏れ多い手つきで受け取った。


「……リアネが、俺のために……料理をしてくれた……」


コウタは、その焦げた肉を大きく頬張った。

噛み切るのも苦労するほど硬い肉のはずなのに、彼は涙を浮かべながら、幸せそうに喉を鳴らす。


「……美味しいよ。今まで食べた中で、一番だ。……俺、頑張るから。リアネがずっと、ここで笑っていられるように」


幸せそうに笑うコウタ。

それを見つめるリアネの瞳には、自分の魔法が復活したことへの安堵と、この最強の怪物を繋ぎ止め続けられるという、どす黒い安堵が混ざり合っていた。


 焚き火の火が爆ぜる音と、コウタが肉を咀嚼する音だけが響く静寂。

食い終えたコウタは、満足げに口元を拭うと、迷いのない足取りで再び月光の下へと歩み出た。


「……っし。やるか」


彼は大きく息を吐き、夜空に浮かぶ銀色の月を見上げると、全身のバネを絞るようにして拳を突き上げ始めた。

凄まじい風切り音が夜の静寂を切り裂く。

その異様な光景に、周囲のテントから顔を出していた「前線の人々」――死を待つだけの負傷兵や、荒くれ者の傭兵たちが、呆れたように声をかけた。


「おい、あんちゃん。夜中に何してんだ? そんなとこに魔獣はいねえぞ」


コウタは拳を止めず、背中で答えた。

その声には、混じり気のない熱意が宿っている。


「特訓だよ! 俺の拳が、あの月に届くように頑張ってるんだ!」


一瞬、その場にいた全員が固まった。

月。

はるか天空に輝く、物理的に届くはずのない天体。

それを「殴る」ために、この地獄の最前線で汗を流しているという。


「……ああ。そうか。こいつも、いかれちまったんだな」


一人が哀れみを含んだ溜息をつき、他の連中も首を振って同意した。

このアカツキ山脈の「魔気」に当てられ、精神を病む者は少なくない。

自分を勇者だと思い込む者、死んだ家族と話し続ける者。

そして、月を殴ろうとするこの男も、その一人なのだと「理解」された。


「……まあ、頑張れよ、月殴りのあんちゃん。何かに必死になってる間は、恐怖を忘れられるからな」


一人の古参兵が、自分の荷物の中から薄汚れた、だが頑強な造りのガントレットを取り出し、コウタの足元に放り投げた。


「これ、やるよ。……もう、指のねえ俺には必要ねえ。月を殴るなら、素手じゃあ拳が持たねえだろう?」



「えっ、いいの!? ありがとう、おじさん!」


コウタは純粋に喜び、そのガントレットを装着した。

使い込まれた鉄の冷たさが、彼の過熱した拳に心地よく馴染む。

背後でそのやり取りを見ていたリアネは、複雑な表情で顔をしかめていた。

コウタが「狂人」として扱われることで、自分たちの異常性がカモフラージュされる安堵。

そして、自分が作り出した「月を殴る」というデタラメを、この男がどこまでも本気で信じ、他人から施しを受けてまで遂行しようとしていることへの、薄気味悪さ。

(……いいわ。狂ってようが何だろうが、都合がいいもの。……あなたはそのまま、あの月だけを見ていなさい)

リアネはガントレットを嵌めて再び月へ拳を突き出すコウタを見つめ、闇の中で静かに口角を吊り上げた。


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