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教会の司教会議室。
そこは、聖女としてのリアネが「最も贅沢な果実」を享受してきた場所であり、同時に彼女の生命線でもあった。
重厚な円卓を囲むのは、信仰心など微塵も感じさせない、冷徹な財務担当の司教たちだ。
「……リアネ。説明してもらおうか。Dチューブの永久停止(垢バン)、および今期予定されていた広告収入の全損について」
司教の一人が、分厚い収支報告書を机に叩きつけた。
そこには、彼女が維持してきた贅沢な暮らしの費用と、教会の裏運営費として消えていくはずだった莫大な金額が、赤字として刻まれている。
「……っ。それは、運営側の不当な判断で……! 私のせいじゃありません! すぐに異議申し立てを……」
「黙れ。規約違反の『暴力性』を指摘されたのは君だ。……君が、あの無能な幼馴染を玩具にしすぎたせいだろう」
リアネの指先が、怒りと恐怖で細かく震えた。
司教たちの目は、もはや彼女を「聖女」として見ていない。
壊れた集金箱を見るような、冷酷なゴミを見る目だ。
「孤児院への寄付はどうする。教会の修繕費は? ……そして、君に与えていたその絹のドレス。これ以上、稼げぬ広告塔を維持する余裕は我々にはない」
司教が身を乗り出し、死刑宣告に近い言葉を告げる。
「次回の収支報告までに、損失分を補填できる『奇跡』、あるいは新たな収益源を示せ。……できなければ、君には最前線の『浄化部隊』へ行ってもらう。あそこなら、嫌でもその魔力を使い切れるだろう?」
浄化部隊。
一度送られれば、二度と生きては戻れぬ、死体処理と魔獣除けの最前線。
リアネは顔面を蒼白にし、膝の上で拳を握りしめた。
「……わかりました。やればいいんでしょ、やれば。……あいつを、コウタを『奇跡の男』として完成させます。世界中が跪いて金を差し出すような、究極の絶望と再生を見せてあげますから!」
会議室を飛び出した彼女の頭の中には、もはや幼馴染への情など欠片もなかった。
あるのは、自分が破滅から逃れるための、さらに過酷で、残酷な「新企画」の構想だけだ。
ネットがダメなら、現物を売るしかない。
あいつの体そのものを、奇跡の安売り会場にする。
森へ戻る道すがら、彼女は乱暴にスマホを取り出し、フリマアプリの通知をチェックした。
わずかな反省文の売上など、教会の赤字の前では雀の涙にもなりゃしない。
「……足りない。全然足りないわよ、コウタ。……ただ殴らせるだけじゃ、私のドレス一着分にもなりゃしないんだから」
彼女は、森の奥で今もなお、自身の「死刑宣告」とも知らずに鉄樹に向かい続けるコウタの元へ、呪いのような執着を抱えて駆け出していった。
そこには、血を流しながら、リアネが喜ぶ「奇跡」を信じて拳を振るう、哀れな幼馴染の背中があるはずだった。
教会の査察官が来るまで、あと三日。
リアネは森の入り口で立ち止まり、震える手で何度もスマホの画面をタップした。
しかし、目に飛び込んでくるのは「アカウントは完全に削除されました」という非情な警告と、フリマアプリの無慈悲な売上残高だけ。
「……どうしよう。どうしよう、どうしよう……!!」
彼女は膝から崩れ落ち、泥だらけの地面を爪が剥がれるほど掻きむしった。
これまでコウタを「無能」と見下し、あらゆる苦痛を「企画」として処理してきた彼女の頭脳が、初めて完全に停止する。
何をしても、どう足掻いても、教会が要求する莫大な上納金には届かない。
「何も、思いつかない……っ。……もう、何も……」
あれほど自信満々にコウタを操っていた彼女の口から、掠れた絶望が漏れ出す。
目の前には、彼女の「新企画」を待ちわびて、ボロボロの拳で鉄樹に向かい続けるコウタの背中がある。
その背中ですら、今のリアネには自分を嘲笑う巨大な墓標のように見えていた。
「コウタ……、助けて……。……ううん、死んでよ。あなたが死んで『殉教者』にでもなってくれないと、私は……!」
涙と鼻水で顔を汚し、髪を振り乱しながら、リアネは狂ったように笑い始めた。
自分が一番無能だと蔑んでいた幼馴染に、自分の命運のすべてが握られているという皮肉。
彼女は震える足で、鉄樹の前で立ち尽くすコウタの方へと、幽霊のような足取りで歩き出した。
思考が焼き切れ、プライドすら泥にまみれたリアネが取った行動は、支配者としての命令ではなく、あまりにも無様な「無心」だった。
「……ねえ、コウタ。お願い。お金……お金、貸してくれない……?」
鉄樹に向かって拳を構えていたコウタの動きが、ぴたりと止まった。
彼はゆっくりと振り返る。
そこには、絹のドレスを泥で汚し、聖女の面影もなく縋り付いてくる幼馴染の姿があった。
「お金……? リアネ、どうしたの? 俺、お金なんて持ってないよ。……全部、君に預けてるじゃないか」
コウタの言葉は、混じり気のない事実だった。
これまでの配信収益も、彼が血反吐を吐いて稼いだ報酬も、すべてリアネが「管理」という名目で独占し、贅沢品へと変えてきたのだ。
今のコウタが持っているのは、ボロボロの着衣と、鍛え上げられた剥き出しの肉体だけ。
「そんなのわかってるわよ……! でも、何かないの!? 隠し持ってる金貨の一枚くらい……。……でないと、私、殺されるの。最前線に送られて、死ぬまで魔獣の餌にされるのよ!」
リアネはコウタの逞しい腕を掴み、狂ったように揺さぶった。
司教たちへの恐怖。
贅沢な暮らしを失うことへの絶望。
それらが彼女から理性を奪い、かつて「無能」と蔑んだ相手に、恥も外聞もなく泣きつかせていた。
「最前線……? リアネが……死ぬ……?」
コウタの瞳から、修行の熱が急速に引いていった。
彼は、自分の腕を掴んで震えているリアネの手を、そっと包み込むように握り返す。
「……どういうこと? リアネ。なんで君が、死ぬなんて話になるんだ……?」
コウタの声は、酷く動揺していた。
彼にとって、リアネは自分を導いてくれる絶対的な存在であり、教会の庇護の下で誰よりも安全な場所にいるはずの「聖女」だったからだ。
「最前線って……あのアカツキ山脈の向こうにある、生きて帰れないっていう戦場のこと……? なんで、君がそんなところに……」
コウタはリアネの顔を覗き込み、彼女の瞳に宿る本物の「死の恐怖」を見て、息を呑んだ。
彼女が自分に課してきた地獄のような修行は、すべて彼女を守るための「仕事」の一環だったと、彼は今も信じている。
だが、現実はその逆だ。
リアネが自分の私欲のために彼を使い潰した結果、その報いが彼女自身に襲いかかろうとしている。
そんな残酷な真実を知る由もないコウタは、自分の無力さを呪うように、さらに彼女の手を強く握った。
「……俺が、何か間違ったせい? 俺の修行が足りなかったから、君がそんな目に遭うの……?」
リアネは、自分の握りしめたコウタの腕が、あまりにも硬く、熱を帯びていることに気づいて、ハッと我に返った。
自分が何を言っているのか。
世界最強の「無能」であるコウタに、金の無心。
その滑稽さと、彼に自分の「底」を見せてしまった羞恥心が、恐怖を一時的に上書きした。
「……っ。何でもないわよ。今の、忘れて」
彼女は乱暴にその手を振り払った。
コウタの掌に残っていた熱が、夜の冷気にさらされて急速に奪われていく。
「……え? でも、リアネ、さっき最前線に送られるって……」
「聞き間違いよ! ちょっと……そう、次の企画の台本を練習してただけ。あなたが不甲斐ないから、私が必死に考えてあげてるんじゃない!」
リアネは、引き攣った笑みを顔に貼り付け、彼から目を逸らした。
一度「貸して」と言ってしまった口が、今さら何を言っても虚しく響く。
彼女は、追いすがろうとするコウタの視線を振り切るように、背を向けて走り出した。
「じゃあね! 明日の朝までに、その木に指一本分でもいいから穴を開けておきなさいよ。……そうじゃないと、本当に『ボツ』なんだから!」
暗い森の奥へと消えていくリアネの背中を、コウタはただ、呆然と見送っていた。
「忘れて」と言われて、忘れられるはずがない。
彼女が流した涙も、その指先の震えも、コウタにとっては鉄樹を殴る衝撃よりも鋭く、その胸に突き刺さっていた。




