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コウタの拳が、静かに、鉄樹の黒い幹へと沈み込んだ。

昨日まで、どれだけ命を削っても弾き返されていた「拒絶の壁」。

それが、コウタの拳が触れた瞬間、ミシリ……と不気味な悲鳴を上げた。

一撃。

ただ、真っ直ぐに。

リアネに認められたい、その一念だけで積み上げられた「無駄」が、鉄の木肌を内側から食い破っていく。


「……ああ……。……入った」


コウタが拳を引き抜くと、そこには、はっきりと拳の形に凹んだ痕跡と、そこから上下に走る「ひび割れ」が刻まれていた。

鋼鉄を凌駕する硬度を持つ鉄樹が、ただの素手によって、物理的に破壊されたのだ。

リアネは、腰が抜けて地面にへたり込んだまま、その亀裂を見つめていた。


「……嘘…………」


d-tubeという観測者が消え、再生数という価値基準が崩壊したその場所で。

世界から見捨てられたはずの無能が、世界のルールを無理やり書き換えてしまった。

コウタはゆっくりと、血の滴る拳を見つめ、それからリアネを振り返った。

その瞳は、暗く、澱んでいるが、同時に底知れない充足感に満ちている。


「リアネ……。入ったよ。……ひび、入った。……俺、やっと、『本気』になれたのかな」


コウタの声は、あまりにも穏やかで、だからこそ狂気に満ちていた。

彼は、一歩、また一歩と、腰を抜かしているリアネに近づいていく。


「ねえ、リアネ。もっと。……もっと難しい修行を、俺にちょうだい」


ひび割れたのは、木だけではない。

リアネが築き上げてきた、コウタを「無能」として飼い慣らすための支配構造そのものが、音を立てて壊れ始めていた。


コウタの歪んだ笑みを見て、リアネは初めて本能で理解した。


リアネは、足の震えを必死に抑えながら立ち上がった。

泥に汚れたスカートを払い、精一杯の「聖女」の微笑みを顔に張り付ける。

ここで怯えを見せれば、この怪物を繋ぎ止める手綱を失うと直感したのだ。


「……ふふっ。驚いた? そうよ、やっと。やっとスタートラインに立てたのね、コウタ」


彼女はコウタの血塗れの拳に、あえて自ら触れにいった。

熱を帯び、ピリピリとしたプレッシャーを放つその拳に、氷のような冷たい指先を絡める。


「でも、浮かれちゃダメ。鉄樹にひびを入れるなんて、私の計算では『一週間前』に終わっているはずだったんだから」


コウタの瞳が、僅かに揺れた。

あんなに死に物狂いで掴み取った成果も、彼女にとっては「遅すぎる通過点」に過ぎないのだという事実。

その絶望的なまでの期待の高さに、コウタの脳は麻痺したような快感を覚える。


「……そう、だね。ごめん、リアネ。俺、時間がかかりすぎた……」



「わかればいいの。……さあ、次はもっと『本物』に近づいてもらうわよ。次は……そうね」


リアネは空を見上げた。

雲間に浮かぶ、淡い月。

彼女は、自分でも制御できないほど肥大化した虚栄心と恐怖を隠すように、最も残酷で不可能な「嘘」を口にした。


「あの空にある『月』。あそこに、あなたの拳を届かせなさい」


コウタは、呆然と月を見つめた。

数千キロメートル、あるいはそれ以上の彼方にある天体。

魔法使いですら届かぬ神の領域。


「……月に、拳を……?」



「そう。一撃で空を割り、概念を突き抜けて、あの月を穿つの。それができなければ……あなたは一生、私の隣に立つ価値なんてないわ」


リアネはコウタの頬を、愛おしそうに、そして拒絶するように撫でた。

コウタはその言葉に、これ以上ない「生きる意味」を見出したかのように、力強く頷いた。

リアネは、コウタが空に向かって拳を振るい始めた隙に、地面に散らばった「血塗れの反省文」を一枚残らず回収した。

d-tubeのアカウントは消されたが、彼女の商魂は死んでいなかった。


「……捨てるのはもったいないわね。これだって、ある意味『一点もの』の作品なんだから」


彼女は匿名のアカウントを作り、ダークなマニアが集まるフリマアプリに、その凄惨な紙片を出品し始めた。

『【激レア】無能と呼ばれた少年の「命の贖罪」直筆血文字。呪術や鑑賞用にどうぞ。』

一枚、また一枚と、法外な値段で売れていく。

d-tubeの視聴者だった狂信者たちが、あのアカウント停止の騒動を経て、コウタの「狂気」にプレミア価値を見出し始めていたのだ。


「ふふっ……すごい。動画の広告収入より効率がいいじゃない」


リアネはスマホの画面に踊る「売却済み」の文字を見て、下卑た笑みを漏らした。

彼女は、自分が売っているものが「幼馴染の魂の削りカス」であることなど、微塵も気にかけていなかった。

一方で、コウタはそんな彼女の背中を、希望に満ちた目で見つめている。


「……リアネ、見てて。俺の反省文をそんなに大切に保管してくれてるんだね。……俺、もっと、もっと頑張るよ。君が誇れる俺になるために」


コウタは、彼女が「金のために売っている」とは夢にも思わず、それを自分への愛だと勘違いしていた。

リアネはスマホを隠しながら、殊勝な顔で振り返る。


「そうよ、コウタ。これはあなたの『決意』の証。……だから、もっと価値を上げなさい。月を穿つほどの決意を込めれば、これらはもっと……ううん、あなたはもっと輝けるわ」


売買が成立するたびに、リアネの懐には大金が転がり込み、コウタの精神は「売られるための苦行」へと加速していく。


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