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「一日頑張った程度で、何かが変わると思った?」
リアネの冷たい声が、森の静寂を切り裂いた。
彼女はスマホを三脚に固定し、地面に這いつくばるコウタを見下ろす。
「コウタ、次の企画が決まったわよ。……『無能な幼馴染、身の程知らずな自信を謝罪する』。これよ」
彼女はカバンから、真っ白な紙とペンを取り出し、コウタの目の前に放り捨てた。
「今のボロボロの手で、手書きの反省文を書きなさい。一文字でも震えたり、血で汚したりしたら書き直しよ」
コウタは、感覚のなくなった右手を動かそうとした。
だが、砕けた指先は、ペンを握ることさえ拒絶するように痙攣している。
「……リアネ、……手が、動かないんだ……。痛くて、何も見えない……」
「あら、じゃあ『回復』してほしい? ……いいわよ。でも、タダじゃないわ」
リアネはカメラのレンズを指差した。
そこには、視聴者数がリアルタイムで表示されている。
「この謝罪動画の再生数が、前の動画を超えるまで……回復魔法はお預け。みんながあなたの『誠意』を認めてくれたら、治してあげる」
コウタの顔が、恐怖で青ざめた。
再生数が伸びなければ、この痛みは永遠に続く。
壊れた指で、一生、文字を書き続けなければならない。
「……やる。やるよ、リアネ。……だから、見捨てないで……っ!」
コウタは震える左手を添え、無理やり右手にペンを握らせた。
ミシミシと骨が軋む音が、静かな森に響く。
「……『私、コウタは……己の無能を……顧みず……』」
一文字書くたびに、傷口から新しい血が溢れ、紙を赤く染めていく。
リアネはその様子を、極上のエンターテインメントとして、最高の画角で全世界に中継した。
「みんな、見てあげて? 彼、こんなに必死に反省してるの。……さあ、彼を助けてあげたいなら、もっと再生して、拡散してあげてね?」
彼女の慈悲深い声とは裏腹に、画面には『血文字ASMR助かる』『指の震えが最高に映えてる』という、狂ったコメントが溢れかえった。
d-tubeの運営から、リアネのアカウントに「配信内容の著しい暴力性」を指摘する警告通知が届いた。
しかし、彼女は怯えるどころか、それを最高の「スパイス」だと確信して口角を上げた。
「……ふふっ、運営まで注目し始めた。これ、消される前に伝説を作れってことでしょ?」
彼女はカメラのレンズを覗き込み、瞳を潤ませて、全視聴者に語りかけた。
「みんな……悲しいお知らせがあるの。運営さんから『この愛の修行』を止められちゃった。……でも、コウタはまだ反省が終わってないわ」
画面上には『削除反対!』『最後まで見せろ!』という狂熱的なコメントが爆速で流れ、投げ銭の演出が画面を覆い尽くす。
「だから、これが最後の生配信。削除覚悟の『ファイナル・リミット・修行』を敢行します! アカウントが消えるのが先か、コウタの謝罪が届くのが先か……みんな、見届けて!」
リアネは狂ったように笑いながら、コウタの目の前に積み上げられた血塗れの反省文を、無造作に踏みにじった。
「運営がうるさいから、文字を書くのはもう終わり。コウタ、最後のチャンスよ」
彼女はカメラを極限までコウタの顔に近づけた。
「このカメラに向かって、あなたがどれだけ無能か、どれだけ私なしでは生きていけないか、涙が枯れるまで告白し続けて。……その動画が、世界中で『1億再生』された瞬間、あなたの傷を全部、最高級の魔法で消してあげる」
コウタは、光を失った瞳をカメラに向けた。
1億再生。
それは、世界の全人口が彼を嘲笑し、蔑まなければ達成できない数字だ。
「……1億……みんなが、俺を……笑うんだな……」
「そうよ。みんなに笑われて、ゴミのように見下されて、それでも私だけがあなたを抱きしめてあげる。……最高にロマンチックだと思わない?」
コウタは、壊れた機械のように口を開いた。
全世界が彼を「見世物」として監視し、その醜態が消えない記録として刻まれ続ける、終わりの始まりだった。
d-tubeの画面が、突如として砂嵐に変わった。
「規約違反により、このアカウントは永久停止されました」
無機質なシステムメッセージが、リアネのスマホに冷たく表示される。
「……は? 嘘でしょ……?」
リアネの顔から血の気が引いた。
登録者数、これまでの動画、そして何より――。
世界1位を記録し続けていた、莫大な収益の残高。
そのすべてが、一瞬で電子の藻屑と化した。
「あ、あああ……っ!! 私の……私の1億再生がっ! 私の天国がっ……!!」
絶叫し、地面にスマホを叩きつけるリアネ。
狂ったように髪を掻き毟る彼女の足元で、コウタは依然としてカメラがあった場所を見つめていた。
彼はまだ、自分がどれほど無能かを告白しようと、震える唇を動かしている。
「……リアネ、……告白、……まだ、終わって……」
「うるさいっ!! 黙れ、この無能っ!!」
リアネは怒りに任せ、ボロボロのコウタを力任せに蹴り飛ばした。
コウタの体は枯葉のように地面を転がり、鉄樹の幹に激突する。
「あなたのせいよ! あなたがもっと上手くやらないから、運営に目をつけられたのよ! 全部、全部台無し!」
彼女はもう、聖女の仮面を被ることさえ忘れていた。
回復魔法を使う気力さえ失い、ただ、富と名声を失った絶望に震え、泣き喚く。
だが。
その背後で、コウタがゆっくりと、不自然な動きで立ち上がった。
「……ああ、そうか。……俺が、……リアネの邪魔を、したんだな」
コウタの声には、もはや感情がなかった。
感情だけでなく、人間としての「熱」さえも失われている。
「再生数が……足りなかった。……俺が、……もっと、『本気』じゃなかったから……」
彼は、壊れた右拳をじっと見つめる。
リアネは、そんな彼を無視して、泥だらけの服で街の方へ走り去ろうとした。
「もういいわ、あんたなんて勝手に死になさい! 私は別の道を探すから……!」
だが、リアネは一歩も動けなかった。
背後から放たれた、あまりにも重く、物理的な「圧」に、全身の細胞が恐怖で凍りついたからだ。
コウタが、拳を引いていた。
d-tubeという枷が外れ、誰にも観測されない孤独な森の中で。
彼が積み上げてきた、何万、何億という「無駄な努力」が、初めて一つに収束していく。
「……リアネ。……次の一撃は、……届く気がするんだ」
コウタが拳を突き出した瞬間。
森の空気が、真空になった。




