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鉄樹の森に、重苦しい衝撃音が延々と鳴り響いている。

コウタの拳は、もはや赤黒い肉塊にしか見えなかった。

それでも彼は、リアネの言葉を信じて、一撃に全霊を込め続けていた。


「……はぁ、はぁ……っ!!」


それを見守るリアネは、カメラに映らない位置で、退屈そうに爪を眺めていた。


(……バカね。あんなの、一生かかったって折れるわけないじゃない)


内心で毒づき、彼女は冷たくコウタを観察する。

彼女にとって、この修行は「コウタが強くなるため」のものではない。

「無能が必死に無駄な努力をする姿」を配信し、再生数を稼ぐための舞台装置に過ぎない。

だが、その時。

手元のスマホが、無機質な警告音を鳴らして画面を暗転させた。


「……あら。電池切れ?」


リアネは露骨に嫌そうな顔をして、立ち上がった。

配信ができない以上、ここに留まる理由は一秒たりともない。


「コウタ、今日はここまでにしましょう。カメラの充電が切れちゃったわ」


コウタは、振り上げた拳を止めて、ふらふらとリアネを振り返った。

顔中、汗と血と泥にまみれている。


「……え? でも、リアネ……まだ、一撃も……」



「いいの。続きはまた明日。ほら、暗くなる前に街に帰るわよ」


リアネはそう言って、さっさと踵を返した。

背後からコウタがついてくることを、疑いもしなかった。

だが。

足音が一つしか響かないことに気づき、彼女は立ち止まって振り返った。

コウタは、一歩も動いていなかった。

折れかけた膝を震わせながら、再び鉄樹に向き直っている。


「……コウタ? 何してるの、帰るって言ってるじゃない」


コウタは振り返らず、ただ、鋼鉄のような幹を凝視していた。


「リアネは先に帰ってて。……俺、あともう少しだけ、やっていくよ」



「……はあ? 何言ってるの、回復魔法ヒールなしで続けたら、腕が腐り落ちるわよ?」


リアネの苛立ち混じりの言葉にも、コウタは首を振った。


「……いいんだ。リアネが『一撃に込めろ』って言ってくれたのに、俺はまだ、納得できる一撃が打ててない」


コウタの瞳には、配信用の「素材」としては不気味すぎるほどの、暗い情念が宿っていた。


「……君に、認められたいんだ。だから……帰れない」


リアネはわずかに眉を潜めた。


(……勝手にすれば。死んだって知らないんだから)


彼女は鼻で笑うと、暗くなり始めた森の道を、一人で去っていった。

夜の森。

静寂の中に、再び「ベキッ」という、肉が潰れる音が響き始めた。


リアネは苛立たしげに足音を鳴らし、立ち尽くすコウタに歩み寄った。


「……本当に、面倒な人ね」


彼女は乱暴にコウタの腕を掴むと、淡い光を放つ魔法を叩きつけた。

骨が繋がる不気味な音と共に、コウタの傷が急速に塞がっていく。

だが、それは慈悲ではない。

カメラの回っていないところでの回復は、彼女にとって単なる「メンテナンス」に過ぎなかった。


「はい、治したわよ。もうこれ以上、私の魔力を無駄にさせないで。さあ、今度こそ帰るわよ。明日の撮影に響いたらどうするの?」


コウタは治りたての腕をさすりながら、すがるような目でリアネを見た。


「……ごめん、リアネ。でも俺、どうしても納得がいかなくて」



「納得なんてどうでもいいの。私が『今日は終わり』って言ったら終わり。いい? あなたは私の言うことだけ聞いていればいいの」


リアネは有無を言わせぬ口調で言い捨てると、暗い森の奥へと消えていった。

彼女の背中を、コウタはいつまでも見つめていた。

翌朝。

リアネが欠伸をしながら、新しい魔導バッテリーを携えて「撮影場所」へと戻ってきた。

昨日と同じ場所。

そこには、一睡もせずに鉄樹の前に立ち続けているコウタの姿があった。


「おはよう、コウタ。……え、あなた、まさかずっとそこにいたの?」


リアネが呆れて声をかけると、コウタがゆっくりと振り返った。

その瞳は、昨日よりもさらに深く、暗い色に沈んでいる。


「……リアネ。俺、わかった気がするんだ」


コウタの声は枯れ果て、幽霊のようにかすれていた。


「『一撃』の意味が。……昨日、君が帰った後、ずっと考えてた」


リアネは心底どうでもいいと思いながらも、手慣れた手つきでスマホをセットし、ライブ配信の開始ボタンを押した。


「はいはい。じゃあ、その成果をみんなに見せてあげて。……視聴者の皆さん、お待たせしました! 無能な幼馴染くん、一晩中考えて何かを掴んだみたいですよ?」


リアネが画面に向かって猫なで声を出した、その瞬間。

コウタが、静かに拳を構えた。

昨日までの、悲壮感に満ちた絶叫はない。

ただ、吸い込まれるような静寂が、森を支配した。


コウタの瞳は、まるで深い淵のように沈んでいた。

彼が構え、放たれた一撃。

空気を切り裂く鋭い音と共に、拳が鉄樹に吸い込まれる。

だが、期待されたような「奇跡」は起きなかった。

硬い木肌は、わずかに表面が削れただけ。

代わりに、昨日あんなに綺麗に治してもらったはずのコウタの拳が、再び無残に弾け飛んだ。


「……あ、あぐ……っ!!」


鉄樹の根元には、昨日から続くおびただしい血の跡が、黒ずんだシミとなって広がっていた。

その上に、また新しい鮮血が滴り落ち、生々しい鉄の臭いを撒き散らす。

一日中、死ぬ気で、骨を砕きながら考え抜いた結果が、これだ。

何も変わっていない。

無能がどれだけ命を削っても、世界の理はびくともしなかった。

リアネはスマホの画面越しに、その無様な結末を確認すると、心底愉快そうに鼻で笑った。


「ふふっ……あはは! 何それ、あんなに自信満々だったのに、昨日と全く同じじゃない」


彼女はカメラのアングルを、地面に広がる大量の血痕へと向けた。

視聴者からのコメントが、残酷な速さで流れていく。

『期待させんなよwww』

『ただの流血配信かよ、飽きたわ』

『血の跡だけは一丁前だな』

リアネはわざとらしく溜息をつき、崩れ落ちたコウタの髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。


「ねえ、コウタ。わかった? 一日頑張ったくらいじゃ、何も変わらないの。あなたの努力なんて、その程度の価値しかないんだから」


コウタは焦点の合わない目で、自分の血で汚れた幹を見つめていた。

絶望が、彼の魂を真っ黒に塗りつぶしていく。


「……ああ……そう、だね……。俺、……馬鹿、だった……」


リアネはその絶望しきった表情を最高の構図で収めると、今日一番の「いいね」が届いたことに満足して、彼の耳元で囁いた。


「でも、安心して。何も変わらないあなたを見捨てないのは、世界で私だけよ。……さあ、また『治して』あげるから。次はもっと、もっと絶望的な修行をしましょうね?」


コウタは力なく頷いた。

その姿は、もはや自分の意思で動く人間ではなく、彼女の飼い慣らした操り人形のようだった。


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