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時計塔の広場。
沈みゆく夕陽が、石畳にこびりついたコウタの血を黒く照らしていた。
コウタの右拳は、もはや人の形を留めていない。
指の関節は腫れ上がり、爪は剥がれ、ただの肉の塊と化していた。
それでも、彼は最後の一振りを振り抜いた。
「……一……万……!」
ごん、と鈍い音が響き、コウタはその場に膝から崩れ落ちた。
呼吸は荒く、意識は朦朧としている。
だが、その顔には達成感と、リアネへの報告を待ちわびる希望が滲んでいた。
そこに、軽やかな足音が近づく。
コウタは這いずるようにして、リアネの靴を仰ぎ見た。
「リアネ……やったよ……。一万回、一回も休まずに……」
期待に満ちたコウタの視線を、リアネは冷ややかな、蔑むような眼差しで見下ろした。
彼女は手元のスマホで、コウタの無様な姿をライブ配信し続けている。
「……何これ。コウタ、本気で言ってるの?」
冷淡な声。
コウタの心臓が、恐怖で跳ねた。
「え……?」
「ただ数をこなせばいいと思ってたの? 今の見てたけど、後半なんてただ手を当ててるだけ。そんなへっぴりパンチ、何の役にも立たないわ」
リアネは溜息をつき、画面の向こうの視聴者に「呆れた」というポーズを取ってみせた。
「一発一発、魂を込めて、本気で叩かなきゃ意味がない。そんな守りに入った拳じゃ、奇跡なんて起きるはずないじゃない」
コウタの絶望を煽るように、d-tubeのコメント欄には「努力の質が低い」「ただの作業乙」という言葉が並んでいく。
リアネはしゃがみ込み、コウタの潰れた拳をあえて乱暴に掴み上げた。
「コウタ、私をガッカリさせないで。……次は、山にある『鉄樹の森』に行きましょう」
コウタの体が、恐怖と困惑で震える。
「鉄樹……? あそこは、プロの戦士でも刃が立たないって……」
「そう。あの鋼鉄よりも硬い木を、素手で『一撃』でへし折るまで叩き続けて。数じゃない。一撃にすべてを込めるの」
彼女は再び、聖母のような笑みを浮かべた。
「大丈夫。コウタならできるよ。私の言ったこと、疑うの?」
「……う、疑わない。……やるよ。次は、もっと本気でやるから……!」
コウタは痛みを忘れ、壊れた機械のように頷いた。
リアネは満足げに立ち上がり、画面に向かって「また面白いものが見せられそうです」と無音で唇を動かした。
鉄樹の森。
そこは、鋼鉄と同じ硬度を持つとされる巨木が立ち並ぶ、生命の拒絶地帯だ。
コウタは、鈍く黒光りする幹の前に立ち尽くしていた。
時計塔での修行で、彼の両拳はもはやぼろ布のようになっている。
だが、リアネの言葉は呪いのように彼の脳裏に焼き付いていた。
「守りに入ったへっぴりパンチじゃ、何の意味もないの」
背後では、リアネが魔法で浮かせたカメラを調整し、最高のアングルでライブ配信を続けている。
「……一撃。……一撃に、すべてを……」
コウタは震える足を地につけ、腰を落とした。
裂けた皮膚を隠すための包帯は、すでに血で赤黒く染まり、幹に触れるだけで激痛が走る。
だが、彼は「本気」を証明するために、拳を引いた。
「おおおおおおおっ!!」
絶叫と共に、全霊を込めた拳が鉄樹に激突した。
ベキッ、という嫌な音が森に響き渡る。
木が折れる音ではない。
コウタの手首の骨が、圧力に耐えかねて悲鳴を上げた音だ。
「……あ、が……っ!!」
コウタはあまりの激痛に視界を白く染めながらも、倒れることを自分に許さない。
一撃。
一撃で折れなければ、それは「本気」ではないのだ。
一方で、リアネのスマホ画面には、かつてないほどの熱狂が渦巻いていた。
『この衝撃音、マジで骨がイってる音じゃんwww』
『最高級のASMRだな。もっといいマイクで拾ってくれよ聖女様』
リアネは視聴者のリクエストに応え、コウタの拳が爆ぜる音を強調する魔法をかけた。
「……ふふ、みんな喜んでるわよ、コウタ。今の音、とっても『本気』が伝わってきたわ」
彼女は倒れそうなコウタの肩を支えるふりをして、さらにカメラを傷口へと近づける。
「でも、まだ折れてないわね? もう一回。……次はもっと、自分の骨が砕けることなんて忘れて打ってみて」
コウタは白目を剥きかけながらも、彼女の「褒め言葉」に歓喜し、再び拳を固めた。
鉄樹の森に、肉と骨が砕け散る不快で「心地よい」音が、何度も何度もこだまし続けた。
コウタの腕が、修復不可能なほどに捻じれ、ぶらりと垂れ下がったその時。
リアネは「そろそろ限界ね」と判断し、カメラのスイッチをオフにした。
配信が終わった瞬間、彼女の顔からエンターテイナーの笑みが消え、冷ややかな、事務的な表情に戻る。
「……はぁ、今日も疲れた。はい、こっち向いて、コウタ」
彼女は倒れ伏すコウタの隣にしゃがみ込むと、その無残な腕に手をかざした。
最高位の聖女だけが扱える、超高密度の回復魔法。
淡い光がコウタの体を包み込み、砕けた骨がパズルのように組み合わさり、破裂した血管が瞬時に繋がっていく。
「……ああ……ぁ……っ」
急激な再生に伴う、痒みと熱。
コウタは荒い息を吐きながら、自分の腕がみるみるうちに「元の形」に戻っていくのを、恍惚とした目で見つめていた。
あれほどの激痛が、彼女の手ひとつで消え去る。
その万能感と安心感こそが、コウタをこの地獄に繋ぎ止める最大の鎖だった。
「……ありがとう、リアネ……。ごめん、俺が不甲斐ないばっかりに、君の魔力を無駄にさせて……」
コウタは、治りたての拳で地面を叩き、悔しさに涙をこぼした。
リアネはその頭を、まるでよく懐いた家畜を撫でるように、優しく、優しく撫でる。
「いいのよ。あなたの傷を治せるのは、世界で私だけなんだから。……ねえ、コウタ。腕が治ったってことは、また『本気』で打てるわね?」
彼女の言葉は、慈悲ではなく、次の拷問への宣告。
だが、救われたばかりのコウタにとって、それは何よりも甘い、期待の言葉に聞こえていた。
「……うん。次はもっと、もっと本気でやるよ。見てて、リアネ」
コウタは再び立ち上がり、まだ魔法の余熱が残る拳を、黒光りする鉄樹へと向けた。
リアネは再びスマホを取り出し、レンズをコウタに向けながら、冷たい声でカウントダウンを始めた。
リアネがなぜここまで執着してコウタを痛めつけ、配信を続けているのか。
その「裏事情」を深掘りし、物語の毒気をさらに強めます。
野営地の焚き火のそばで、リアネは回復させたばかりのコウタを眠らせ、暗い顔でスマホの画面を見つめていた。
d-tubeの管理画面。
そこには、右肩下がりのグラフと、赤字で書かれた「警告」の文字が並んでいる。
「……チッ、また減ってる。あの程度の骨折じゃ、もう誰も投げ銭してくれないっていうの?」
彼女は聖女として教会に属しているが、その実態は、教会の「裏の運営費」を稼ぎ出すための広告塔だった。
教会の施設維持、孤児院への寄付、そして何より――彼女自身の贅沢な暮らしを維持するためには、莫大なお金が必要だった。
しかし、最近の視聴者は刺激に慣れすぎている。
ただの聖女の祈りなど誰も見ない。
人々が求めているのは、もっと残酷で、もっと無様で、もっと「狂った」見世物だ。
「コウタを『奇跡の男』として売り出さないと、私の立場が危うい……」
もし、再生数がこのまま落ち込めば、彼女は教会の「用済みリスト」に入れられ、望まぬ結婚か、最前線の戦場へ送られることになる。
彼女にとってコウタは、幼馴染などではなく、自分の自由を繋ぎ止めるための「金の卵を産むガチョウ」だった。
しかも、ただのガチョウではない。
どれだけ無茶な修行を命じても、自分を信じ、ボロボロになっても「ありがとう」と微笑む、最高に都合の良い素材だ。
「ねえ、コウタ。次の配信では……もっと死ぬ気で、世界を驚かせてね?」
眠り続けるコウタの頬を撫でる彼女の指先は、冷たく凍りついていた。
彼女は次の企画を打ち込む。
『【衝撃】無能が鉄樹をへし折るまで帰れません! 失敗したら即刻、聖女の加護(回復)を打ち切ります』
それは、コウタにとって実質的な「死刑宣告」に等しい過酷な条件だった。




