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19話:聖者コウタ、泥濘の死地にて「呪い」を拾う
最前線の夜は、鉄と血が混じり合った不快な熱気に満ちていた。
コウタは膝をつき、肩で荒い息を吐く。
周囲には数えきれないほどの魔獣が、獲物の死を待つハイエナのように包囲の輪を縮めていた。
「……はぁ、……っ、ここまで、か……」
折れた剣を杖代わりに立ち上がろうとするが、傷口から流れる熱が体力を奪っていく。
そんな朦朧とする意識の底で、彼は「声」を聞いた。
それは幻聴か、あるいは、彼がかつてその身に受け続けてきたリアネの魔力が、遠く離れた地で共鳴したのか。
『あんたがいないと、私は……こんなに、汚い』
『気持ち悪い…………』
それは、かつて高潔だった聖女が、泥を啜るように吐き出した執着の告白だった。
冷たい独房の床で自分の身体を掻き毟り、自分自身の醜さにのたうち回るリアネの「気配」が、生々しくコウタの脳内へ流れ込んでくる。
それを感じた瞬間、コウタの乾いた瞳に、猛烈な熱が宿った。
「…なんだ……そうだったんだ、リアネ様……」
絶体絶命の戦場で、コウタは狂ったように笑い声を上げた。
自分がここで魔獣に喰われようとしている間、あの方もまた、自分への執着という「地獄」に喰われかけている。
その孤独な絶望が、コウタには何よりも美しい救いに思えた。
「見える……。見えるぞ……!」
映像の中のリアネが、自分を呪うようにその名を呼ぶ。
その瞬間、コウタの全身から、尽きかけていたはずの魔力が「聖なる輝き」となって爆発した。
傷口が強制的に塞がり、折れた骨が軋みながら繋がる。
「死んでる暇なんて、ない!」
コウタは、目の前で咆哮を上げる巨大な魔獣の眉間に、素手を叩き込んだ。
もはや、軍の命令も、世界の平和もどうでもよかった。
リアネが泣くほどの自責を、この俺がその手に取り戻さなければならない。
「リアネ様。」
泥にまみれた「聖者」は、愛する人の絶望を糧に、かつてないほどの力を得て戦場をかけ始めた。
:黄金の流星、荒野を裂く
殿としての役割は、今この瞬間をもって終わった。
背後で味方の兵士たちが撤退路へ消えていくのを確認したコウタは、もはや一秒も、この場所に留まるつもりはなかった。
「……待っていてください、リアネ様」
コウタは一歩、踏み出す。
彼にそんな力はないはずだった。魔力回路は焼き切れ、体中の筋肉はとっくに限界を迎えている。
だが、脳裏に響くリアネの泣き声が、無理やり彼の体を突き動かしていた。
彼は地面を蹴った。
その瞬間、全身の筋肉が断裂しかけ、凄まじい激痛が走る。
だが、コウタはその痛みに、どこか懐かしい感覚を覚えていた。
「ああ……、これだ……。この痛みだ……」
かつて鉄樹の森で、リアネに「修行」と称して叩き込まれた、あの死の淵を彷徨うような日々。
拳が肉塊に変わるまで殴り続け、一晩中飲まず食わずで立ち尽くし、ただ「無能の無駄な努力」と笑われ続けたあの地獄。
当時は理不尽な絶望に魂を塗りつぶされるだけだったが、いまならわかる。
リアネ様の言っていた修行は、この時のためにあったんだ。
何度も壊され、そのたびに彼女の魔法で無理やり繋ぎ合わされたこの体。
その繰り返しが、限界を超えてもなお動動き続けるための「異常な肉体」を作り上げていたのだ。
あの日、鉄樹を相手に掴み損ねた「一撃」の意味が、今、溢れ出す魔力と共に完成していく。
「ありがとうございます、リアネ様。……僕は、動けます」
コウタは黄金の光を撒き散らしながら、夜の荒野を切り裂く弾丸となった。
それは神々しい流星というよりは、今にも空中分解しそうな、危うい火の玉のようだった。
最短距離を走るために、立ち塞がる魔獣の群れを「肉塊」として突き抜けていく。
かつて鉄樹の幹を殴り続けたあの拳が、今は魔獣の頭蓋を易々と粉砕する。
ぶつかるたびに腕が、肩が、衝撃で削れていくが、彼は速度を落とさない。
「死んでる暇なんて、ない……!」
軍の常識で測れば、彼はとっくに死んでいるはずの負傷を負っていた。
だが、リアネが自分にくれた「痛み」の記憶と、彼女を救い出したいという「執着」だけが、彼の肉体を死から繋ぎ止めている。
コウタは夜空を不格好な黄金色に染め上げながら。
ただひたすらに、愛する人の絶望が待つ場所へ向けて、壊れた体で逆走を続けた。




