16
基地全体を包むのは、救護信号の赤色灯と、重苦しい腐臭だった。
「聖女」と呼ばれていたリアネは、今や鉄格子の嵌まった薄暗い地下室に閉じ込められている。
彼女の指先から漏れ出した黒い霧は、触れた壁すらもボロボロと崩し、基地の魔力回路を侵食していた。
軍の上層部はこれを「未知の呪い」と断定し、基地全体の隔離を決定したのだ。
「……っ、ふざけないでよ。なんで私がこんな目に……!」
自分を飾っていた華やかな「色」はすべて消え去り、残ったのは自らの心が具現化したような、薄汚れた黒色だけ。
「……全部、コウタのせいよ。あいつが勝手にいなくなったから……あいつが私に、こんな呪いをかけて逃げたからよ! あの不気味な無能がっ!」
彼女は誰もいない暗闇に向かって、声を張り上げた。
あいつは「君を神にする」と言って出て行った。
なら、今のこの惨状は何なのか。
自分を追い詰め、孤立させ、汚泥の中に引きずり込む。
これこそが、あの「無能」が仕掛けた復讐ではないのか。
だが、そう叫べば叫ぶほど、胸の奥の空洞が大きく広がっていく。
(……違う。……わかってるわよ。呪いなんて、かけてない)
自らの腐食魔法を手のひらで見つめながら、リアネは膝を抱えてうずくまった。
彼女は、気づいてしまった。
コウタは自分を呪ってなどいない。
ただ、自分という毒そのものの存在を、彼というたった一人の「聖域」が肩代わりしてくれていただけなのだ。
コウタが隣にいた時、世界は確かに輝いていた。
あいつが、自分の醜い欲望も、淀んだ魔力も、すべて「愛」という名の光に変換してくれていたから。
彼がいなくなった世界は、もはやリアネの悪意を濾過してはくれない。
「……助けてよ。ねえ、コウタ……」
鉄格子を掴むリアネの指先から、黒い腐食が広がっていく。
彼女が縋るものは、自らの魔法で次々と崩れ去っていく。
暗い独房の中で、リアネは声を殺して泣き叫んだ。
「……私……ただの、魔女じゃない……っ!」
自分を「聖女」としてしか認められないリアネにとって、コウタの不在は、そのまま自分自身の消滅を意味していた。
かつて彼に「外の世界は敵だ」と教えた彼女が、今、自ら作り上げた隔離壁の中で、最も残酷な孤独に食い荒らされていた。
鉄格子の向こうから聞こえるのは、自分を呪う兵士たちの罵声と、遠くで鳴り続ける警告音だけ。
湿った地下室の隅で、リアネは泥に汚れた自分の指先をじっと見つめていた。
指先からは、薄気味悪い黒い霧が、絶え間なく溢れ出している。
かつて「聖なる光」だと思い込ませていたそれは、今や触れた床をドロドロと腐らせ、壁の隙間に潜む虫さえも一瞬で塵に変えていく。
(……これが、私)
リアネは、鏡のない暗闇の中で、初めて「自分自身」と向き合っていた。
コウタという熱狂的な鏡がいなくなった今、彼女を照らす光はどこにもない。
これまで動画で見せていた慈愛に満ちた微笑みも、高慢な態度も、すべては彼という「受容体」があって初めて成立していた劇の一部に過ぎなかった。
「……ああ。そうか。私は。」
彼女は、自嘲気味に笑った。
魔法は嘘をつかない。
彼女の魔力が「腐食」であるということは、彼女の魂の根源が、他者を慈しむことなど露ほども持ち合わせていなかった証拠だ。
自分の欲望のために少年を騙し、血を流させ、その痛みを金に換えて笑っていた。
その醜悪な本質が、今、隠しきれずに溢れ出している。
これまでは、コウタがいた。
彼が、その真っ暗な毒を「光」だと信じ、飲み込み、その身を捧げて浄化してくれていた。
彼が「聖女様」と呼ぶたびに、リアネは自分が本当に清らかな存在であるかのような錯覚に浸ることができた。
「……ねえ、コウタ。あんた、よくこんな気持ち悪い魔力を……あんなに嬉しそうに受けていたわね」
コウタがいなければ、彼女は「聖女」になれない。
それどころか、ただの「人殺しの道具」でしかない。
独りでいる自分には、何の価値も、色彩も、救いもないことを、彼女は骨の髄まで理解した。
「コウタ……。勝手にいなくならないでよ……。」
鉄格子の隙間から差し込む、微かな月明かり。
泥のようにどろりとした黒い霧が、絶え間なく溢れ出し、触れた床をじくじくと溶かしていく、悍ましい「腐食」の権化だった。
「……うそ……なんで。なんで、こんなことに……」
リアネの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
涙が黒い霧に触れると、それさえも濁って消える。
彼女は狂ったように、何度も自分の手を自らの服で拭った。
けれど、拭えば拭うほど黒い染みは広がり、豪華だった聖女の法衣を無惨にボロボロにしていく。
「……いやっ! やめてよ……っ! 私は、私は本当は綺麗なはずなのに……! 私は選ばれた聖女なのよ……!?」
暗闇の中で、彼女の悲鳴が虚しく響く。
自分は特別で、清らかで、誰からも愛される光の象徴だったはずだ。
動画の向こう側の「神様」たちも、基地の兵士たちも、みんな私を崇めていた。
なのに、今の自分はどうだ。
触れるものすべてを腐らせ、不潔な地下室に閉じ込められ、自分自身の魔力で自分を汚している。
「……っ、う、あああああっ……!」
リアネは顔を覆って、子供のように泣きじゃくった。
認めたくなかった。
自分の魔法が、自分の魂の形そのものだなんて。
これまでコウタに浴びせていた魔法が、最初からこんな、救いようのない毒だったなんて。
(……コウタ。ねえ、コウタ……)
泣き崩れる彼女の脳裏に、あの少年の笑顔が浮かぶ。
どんなに黒い霧を浴びせても、どんなに冷たい言葉を投げても、彼は「リアネ様は温かい」と笑ってくれた。
あいつの狂ったような瞳だけが、この醜い腐食を「聖なる光」へと変えてくれていた。
「……あんたがいないと、私は……こんなに、汚い……」
リアネは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
今の自分は、独りでは自分を保つことすらできない、空っぽで醜い化け物だ。
絶望の果てに、彼女は震える手で、腐り落ちた鉄格子を掴んだ。
あいつがいない世界は、私に「真実」という名の地獄を突きつけてくる。
なら、地獄から逃げる方法はただ一つ。
自分を再び「聖女」にしてくれる、あの狂信者を捕まえ、一生私の隣でその瞳を曇らせずにいさせること。
「コウタ。」
リアネは、自分の醜さを燃料にするようにして、暗闇の中を歩き出した。
その背中には、もう慈愛の欠片もない。
ただ、自分を救うためだけに、一人の少年の人生を再び生贄に捧げようとする。




