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深夜、月明かりすら届かない断崖の淵で、コウタは膝を突き、祈っていた。
ボロボロの拳は、もはや感覚を失い、冷たい夜気に晒されている。
(痛い……けれど、これが僕の誇りだ)
その時、脳裏に「音」ではない何かが響いた。
それは、幾千もの星々が擦れ合うような、巨大で無機質な響き。
コウタの狂信が、世界の天辺に座す「本物の神」の座を揺らし、その門を強引に開かせたのだ。
「……っ!?」
視界が真っ白に染まる。
あの日、リアネが自分を救い上げた時に見た「赤」よりも、さらに強烈で、絶対的な色彩。
神は、コウタの祈りに応えた。
だが、その啓示は慈愛に満ちたものではなく、コウタという「器」を破壊しかねない、冷徹な真理の奔流だった。
『――愛する者の、望むままに』
頭蓋を直接掴まれるような衝撃と共に、一つのビジョンが浮かぶ。
それは、リアネがいつも動画の裏で呟いている「もっと金が欲しい」「もっとチヤホヤされたい」という下俗な欲望が、神のフィルターによって「より多くの供物と、より広大な信仰の地」という聖なる目的へと翻訳されたものだった。
コウタは、溢れ出る涙を拭おうともせず、恍惚として天を仰いだ。
(ああ……そうか。リアネ様が僕にこの力を与え、この基地に留めたのは……僕を『試す』ためじゃなかったんだ)
彼女は、自分を待っていたのだ。
自分が、この狭い基地という箱庭を飛び出し、世界中の「敵」を殴り伏せ、すべての富と名声を彼女の足元に跪かせる、その日を。
「……分かりました。僕の神様……僕の、リアネ」
コウタは立ち上がり、静かに基地の方を振り返った。
そこには、自分を繋ぎ止めていた、ボロボロの枯れ木がある。
彼は迷うことなく、その幹に、一度も成功したことのない「一撃」を放った。
――音は、しなかった。
ただ、コウタの拳が触れた瞬間、巨木は微細な塵へと分解され、風に溶けて消えた。
神の啓示という「ガソリン」を注がれた彼の信仰が、ついに物理法則を無視する真の奇跡を具現化させたのだ。
翌朝、コウタは何も持たず、リアネのテントの前で深く頭を下げた。
「リアネ。……僕は、行くよ。君が本当に欲しがっている『世界』を、僕のこの拳で掴み取って、君に捧げるために」
リアネは寝ぼけ眼でテントから顔を出し、彼が何を言っているのか理解できずに眉をひそめた。
「は? 旅立つって……あんた、自分から私の『撮影機材』を辞めるっていうの? 逃げるつもり?」
「逃げるんじゃない。……君を、本当の神にするために戦いに行くんだ。……待っていて。必ず、君を満足させるだけの『供物』を抱えて戻るから」
コウタの瞳は、かつてないほど鮮やかな色彩で燃え上がっていた。
リアネはその瞳に宿る、自分ですら制御できない「本物の狂気」に一瞬だけ気圧され、止める言葉を失った。
コウタは一度も振り返ることなく、最前線のさらに先、魔獣が蠢く禁忌の地へと歩み出した。
その背中には、彼を色の付いた世界に引き上げたリアネへの、あまりに深く、歪んだ愛だけが背負われていた。
「さあ、可哀想な羊さん。私の光で、その傷を癒やしてあげるわ」
リアネは流れるような手つきで、兵士の裂傷に手をかざした。
彼女の脳内にあるのは、「この動画でどれだけスパチャが飛ぶか」という欲望だけ。
彼女はいつも通り、その不純な魔力を指先から放出した。
だが、その瞬間に起きたのは、いつもの「奇跡」ではなかった。
「あ、が……ぎゃあああああああああああああっ!?」
兵士が喉を引き裂くような悲鳴を上げた。
リアネの放った白光が傷口に触れた途端、そこからドロドロとした黒い液体が溢れ出し、健全な皮膚までもがボロボロと崩れ落ちていく。
「癒やし」などではない。
それは、触れたものを根こそぎ壊死させる、禍々しい「腐食」の呪いそのものだった。
「な、何よこれ! ちょっと、静かにしなさいよ!」
リアネは慌てて追加の魔力を流し込んだが、それが火に油を注いだ。
魔法をかければかけるほど、兵士の肉体はドス黒く変色し、腐臭がテントの中に立ち込める。
「聖女の魔法」という仮面が剥がれ落ち、彼女のドス黒い内面がそのまま物理現象となって現れたのだ。
(……なんで!? コウタの時は、これで治ったじゃない!)
リアネは震える手で、腐りゆく肉体を見つめた。
彼女は知らなかった。
これまでは、コウタの異常なまでの「愛」と「信仰」が、彼女の放つ腐食の毒を、無理やり回復魔法へとねじ曲げて受け取っていたのだということを。
彼という完璧なフィルターを失ったリアネの魔法は、ただの「悪意の奔流」へと成り下がっていた。
「ひ、人殺し……! 聖女なんかじゃない、あんたは魔女だっ!」
逃げ惑う兵士たちの罵声が、テントに響く。
配信画面には「放送事故」「グロすぎ」「詐欺師」という辛辣なコメントが滝のように流れ、視聴者という名の「神様」たちが、手のひらを返して彼女を嘲笑い始めた。
リアネは、一人残されたテントの中で、自分の右手を凝視した。
指先からは、今もなお、禍々しい黒い霧が立ち昇っている。
「……くそっ、あいつ……コウタがいないと、何もまともに撮れないじゃない……!」
彼女が真っ先に感じたのは、兵士への罪悪感ではなく、自分の「商品価値」が暴落したことへの苛立ちだった。
だが、その苛立ちの奥底で、かつてないほど冷たい「孤独」が彼女の胸を刺した。




