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街の人間に、魔法の火の玉を投げつけられていた頃。
熱いという感覚すら遠く、爆ぜる炎が自分の皮膚を焼くたびに、コウタはただ「これで終わりかな」とぼんやり考えていた。
彼の世界は、ただの白黒だった。
何をされても、何を感じても、自分の輪郭が霧のように薄れていく感覚。
追い詰められて、ただ楽になりたい、逃げ出したい。
いっそ、このまま死ねば楽になれるかな。
そう思って目を閉じた瞬間、あの「鉄の味」がすべてを塗り替えたのだ。
(……ああ。そうだ。あの日から、僕の世界は始まったんだ)
リアネが自分の肌を切り裂き、その血を僕に分け与えた瞬間。
モノクロだった視界に、鮮烈な「赤」が飛び込んできた。
ドクン、と心臓が跳ね、全身の細胞が「生きろ」と悲鳴を上げる。
リアネが、僕を色の付いた世界に引き上げてくれた。
コウタは暗いテントの中で、自分の拳を握りしめた。
彼女が自分に与えてくれたのは、単なる助けではない。
「自分を傷つける世界」の中に、たった一つだけ「自分を求めてくれる色彩」を植え付けてくれたのだ。
(僕が殴るのをやめたら、世界はまたあの白黒に戻ってしまう。……それだけは、耐えられない)
たとえ今のリアネが、自分を道具のように扱おうと。
たとえ彼女の言葉に、かつての慈愛が混じっていなかろうと。
コウタにとって、彼女は世界に唯一残された「光」であり「色彩」そのものだった。
彼女というフィルターを通さなければ、自分はまた、あの死んだほうがマシな灰色の霧に飲み込まれてしまう。
「……分かっているよ、リアネ。君が何を求めていても、僕はそれを『奇跡』に変えるだけだ」
コウタは、自らの血で赤く染まった拳を見つめ、恍惚とした表情を浮かべた。
この「痛み」こそが、自分が色の付いた世界に生きている証。
彼女に繋がれているという、絶対的な救いの証。
彼は、自ら選んで、その「鮮やかな地獄」の深淵へとさらに足を踏み入れた。
最前線基地の背後に広がる、荒涼とした断崖。
コウタは、夜空の頂に冷たく輝く「月」を見据えていた。
(一撃必殺……すべてを、出せ……!)
全身の細胞が、過負荷で焼き切れるような熱を帯びている。
脳内では、あの日リアネが自分を救い上げた「赤」が爆発し、色彩の濁流となって視界を埋め尽くしていた。
この一撃にすべてを込め、あの月を穿つことができれば、自分は本当の「奇跡」になれる。
リアネの隣に立つ資格を得られる。
(この一撃に、すべてを込めろ! 奇跡を、起こすんだ!)
足元から這い上がるような、鋭い「痛い」という感覚。
何度も砕け、歪に固まった拳の節々が、大気を打つたびに火花を散らすような幻覚を脳に見せる。
限界は、とうの昔に超えていた。
肺は焼けるように熱く、心臓は「辞めたい」と、リズムを乱して逃げ道を求めている。
(リアネ……が隣にいる)
背後、魔導ランプの淡い光の中に、彼女が座っている。
端末のレンズ越しに自分を見つめる、あの冷たくも美しい「色」。
それだけが、コウタをこの世に繋ぎ止める唯一の楔だった。
(逃げるな! 戦え!)
魂の最後の一滴まで絞り出す。
コウタは天を仰ぎ、届くはずのない天体へ向かって、全力の右拳を突き出した。
「……おおおおおおおおっ!!」
一撃必殺。
空気が爆ぜ、激しい風切り音が夜の静寂を切り裂く。
客観的には、何も起きていない。
一人の少年が深夜に絶叫し、ボロボロの手を虚空に突き出しているだけ。
兵士たちは遠くでそれを見て「また馬鹿が踊ってる」と鼻で笑い、リアネは端末のスパチャ額を眺めて退屈そうにあくびをした。
だが。
コウタの祈りだけは、この世界の理の外側にいる「何か」へと、確かに届いていた。
突き出された拳の延長線上。
数万キロ先の虚空、月の表面が、ほんのわずかに――髪の毛一本分にも満たない微細な震えで――歪んだ。
魔力でも、物理現象でもない。
「届くはずがない」という世界の法則そのものが、彼の狂信的なまでの純愛によって、一瞬だけ悲鳴を上げたのだ。
コウタは前のめりに崩れ落ち、肩で荒い息を吐きながら、血の滲む拳を見つめた。
彼には、確かな手応えがあった。
世界中の誰が「無意味だ」と否定しても、自分の拳が「リアネの神」に触れた感覚。
「……はぁ、っ、はぁ……リアネ……今の……届いた、かな……?」
血と泥で汚れた顔を、縋るように後ろへ向ける。
リアネは画面から目を離さず、冷たく言い放った。
「……そうね。今のは少し『軌道』がズレていたかしら。……もっと、私への信仰を込めてくれないと。月が笑っているわよ、コウタ?」
「……っ、ごめん……! すぐ、次を……次はもっと、深く……っ!」
コウタは震える膝を叩き、再び月に向き直った。
リアネは知らない自らの信仰の対象の神にその祈りは届いているということを。
基地の救護テント。
リアネは、怪我をした兵士の腕に手をかざし、苛立ちを隠さずに白光を放った。
「……ぐわぁっ!? 熱い、熱いです聖女様! これ、本当に癒えてるんですか……っ!?」
兵士が悲鳴を上げ、のたうち回る。
リアネの魔力は、彼女の強欲さと傲慢さを反映し、受ける者の肉体を拒絶し、焼くような痛みを伴う。
彼女にとって他者は「数字」や「道具」でしかなく、その心が編み出す魔法には「慈愛」の欠片も含まれていないからだ。
(……チッ、使えないわね。こんなに拒絶反応が出るんじゃ、最高級のポーションを売る口実にならないじゃない)
リアネは不機嫌そうに兵士を追い出し、テントの隅でボロボロの拳を握りしめているコウタを呼んだ。
彼の拳は、先ほどの「月殴り」で骨が砕け、肉が裂け、見るに耐えない惨状だった。
「コウタ、こっちへ。……あんたのその汚い手、早く治しちゃうわよ」
「……ああ。ありがとう、リアネ。君の魔法は、いつも僕を救ってくれる……」
コウタがその崩れた手を差し出す。
リアネは検証するように、先ほどと同じ、冷たく傲慢な魔力をそのまま流し込んだ。
その瞬間。
兵士があれほど拒絶した彼女の毒々しい魔力が、コウタの肉体に触れた途端、まるで真水が砂に染み込むように吸い込まれていった。
傷口は一瞬で塞がり、砕けた骨が吸い付くように結合していく。
それは「回復」というより、神が世界を「書き換える」ような、絶対的な整合性を持っていた。
(……なんなのよ、これ)
リアネは、自分の指先に伝わる異常な感覚に、言葉を失った。
彼女は知らない。
コウタが「リアネこそが僕の神だ」と魂の底から信じ抜き、彼女の放つどんな汚れた魔力も、至高の福音として全肯定して受け入れていることを。
そして、コウタのその狂信的な「祈り」は、リアネが金のために見上げている虚飾の空を突き抜け、本物の天へと届いていた。
コウタにとって、リアネの言葉は神託だ。
彼女が「もっと魂を込めろ」と言えば、彼の拳は世界の法則をねじ曲げてでもその通りに動く。
彼女が「奇跡を見せなさい」と言えば、コウタの祈りを受けた本物の神が、リアネの望む「派手な結果」を現実として降臨させる。
「……っ、はぁ。……やっぱり、リアネの魔法は温かいな。……全身に、君の光が満ちていくよ……」
恍惚とした表情で、完治した拳を見つめるコウタ。
リアネは、自分の魔力が彼を「癒やしている」のではなく、彼の中にある「何か」が、自分の汚れた魔力を強引に聖なる力へ変換しているのではないかという恐怖に駆られた。
(……私の魔力が、こいつにだけは『完璧な聖女の力』として機能している……?)
理由は単純だ。
コウタの信仰が、リアネを本物の聖女へと「仕立て上げ」てしまっているのだ。
リアネが「もっと稼ぎたい」と私欲で振るう手が、コウタの祈りというフィルターを通るだけで、世界を救う神の御手へと変質する。
「……ふん。あんたが私の魔力に一番合ってるってだけよ。さあ、治ったならさっさと次の修行に戻りなさい」
リアネは不気味さを振り払うように突き放したが、コウタは嬉しそうに頷き、再び月に向かって駆け出していった。
その背中を見送りながら、リアネは自分の右手を、震える指で握りしめる。
自分の意志とは無関係に、一人の狂信者の祈りによって、自分自身が「本物の怪物」に作り替えられていく。
その底知れない恐怖に、リアネはまだ気づいていなかった。




