13
街外れの廃屋。
親に捨てられ、行くあてを失ったコウタは、埃まみれの床に座り込んでいた。
数日間、何も食べていない。
自分という存在が、このまま薄い霧のように消えてしまえばいい。
そう願う彼の前に、リアネは現れた。
彼女は震える手で、自分の持ってきた銀色のナイフを握りしめていた。
「……コウタ。私、怖いの。街の人たちはみんな、あなたを追い出せって私を責める。私があなたを助けていることがバレたら、私は聖女の資格を失うわ」
リアネは涙を零しながら、ナイフの刃を自分の手のひらに当てた。
コウタが止める間もなく、白い肌に赤い線が走り、鮮血が滴り落ちる。
「あ、ああ……! リアネ、何をして……っ」
驚愕で声を上げたコウタ。
しかし、リアネはその血に濡れた手で、コウタの頬を強く、包み込むように掴んだ。
「いい、コウタ。これは、私の覚悟。……私、あなたのために、すべてを捨てる準備ができているの。だから、あなたも私に誓って」
彼女の血が、コウタの肌を熱く汚していく。
死んでいたはずの彼の心臓が、その生々しい「熱」によって、暴力的に叩き起こされた。
「私とあなたは、この世界で二人きり。誰も私たちを助けてくれない。……でもね、あなたが私の言う通りに『奇跡』を起こしてくれたら……この傷も、私の流した血も、全部報われるの」
リアネは血に濡れた指を、コウタの唇に押し当てた。
鉄の味が広がる。
それは「ありがとうございます」という感謝を、一瞬で「共犯関係」への渇望へと変貌させた。
「もしあなたがやめたら、私の血は無駄になる。……私が死んでもいいって言うなら、ここから逃げなさい。でも、私を救ってくれるなら……その拳を、私のために捧げて」
コウタには、選択肢などなかった。
自分を見捨てた広い世界よりも、自分を「血の共犯」に選んでくれたこの少女の、狭くて暗い腕の中の方が、ずっと暖かくて、確かな居場所に思えたのだ。
「……誓うよ、リアネ。君の傷は、俺が全部埋める。……君を泣かせる世界なんて、俺が全部、殴り飛ばしてやるから」
コウタは、彼女の血に濡れた指を、まるで神聖な儀式のように吸い込んだ。
その時、リアネが彼の肩越しに、隠し持っていた魔石の「録画終了」ボタンを押したことに、彼は気づかない。
『聖女の秘められた献身――無能の少年に血の誓いを授ける』
その夜、d-tubeに投稿されたその動画は、史上最高の「いいね」と「寄付」を叩き出した。
血の誓いを交わした翌日から、二人の「奇跡への修行」は、より閉鎖的で、より異常なものへと加速していった。
リアネは廃屋の床に散らばる血の跡を、聖なる魔法で消すことはしなかった。
あえてそのまま残し、コウタがそれを見て、いつでも自分の「罪」と「負い目」を思い出せるようにしたのだ。
「……痛い? コウタ。でも、私の手のひらの傷に比べれば、その拳の痛みなんて大したことないわよね?」
リアネは、包帯を巻いた自分の手を愛おしそうに眺めながら、コウタに囁いた。
実際には、彼女は自己再生魔法でとっくに傷を癒していたが、コウタの前ではわざと治りの遅い「呪いの傷」を装うために、幻惑の魔法で痛々しい傷跡を見せ続けていた。
「……うん。ごめん、リアネ。俺、もっと頑張るよ。君が流してくれた血の分まで、俺の拳を捧げるから」
コウタは、廃屋の壁を殴り始めた。
一撃ごとに拳から鮮血が飛び散り、壁に赤黒い染みを作っていく。
リアネはそれを少し離れた場所から、魔石の端末を構えて撮影していた。
「……いいわ、コウタ。その音、その血。……世界中の人たちが、あなたのその姿に感動して、私たちに『祈り(ギフト)』を捧げてくれているのよ」
リアネは画面に流れる、コウタを憐れみ、自分を聖女と崇めるコメント欄を彼には見せない。
ただ、自分が受け取った莫大な寄付を「神様からの贈り物」と呼び、コウタにほんの少しのパンと、自分には最高級の香油を買い与えた。
「見て、コウタ。神様が、私たちの絆を認めてくれたわ。……でも、まだ足りない。もっともっと、あなたの魂が削れるほどの輝きを見せないと、私の傷は永遠に消えないの」
リアネは、コウタのボロボロになった手を自分の頬に寄せ、そっと目を閉じる。
コウタはその温もりに、言いようのない至福を感じた。
世界から捨てられた自分に、これほど重い「期待」を背負わせてくれる。
その重みこそが、彼が初めて手に入れた「生きている実感」だった。
「……リアネ。俺、もっと高い場所へ行くよ。誰もが俺を無視できないくらい、圧倒的な奇跡を起こしてみせる」
コウタの瞳には、狂信的な光が宿っていた。
リアネは彼の背中に顔を埋め、カメラに映らないよう、口角を醜く吊り上げた。
(……そうよ。もっと狂いなさい、コウタ。あんたが壊れれば壊れるほど、私の聖女としての価値は跳ね上がるんだから)
街の広場は、祝祭の後のような残酷な静寂に包まれていた。
中央には、時計塔の鐘を叩きすぎて拳を壊したコウタが、うずくまっている。
その周囲を、かつての「友人」だった少年たちや、隣人たちが遠巻きに囲んでいた。
「……おい、いい加減にしろよ。お前のせいで、この街の評判はガタガタだ。不吉な無能が、毎日不気味な音を立てて……気味が悪いんだよ」
一人が口火を切ると、溜まっていた悪意が堰を切ったように溢れ出した。
投げられた石がコウタの額を割り、赤い筋を作る。
だが、彼にとって痛覚は遠い。
それよりも、彼を「隔離」したのは、群衆の背後にいた自分の両親の視線だった。
「……あんなのは、うちの子じゃありません。魔法も使えない、頭もおかしな……。リアネ様、どうか、あの不浄なものを処分してください」
実の母親が、震える声でリアネに縋り付く。
コウタの世界から、最後の「居場所」が音を立てて崩れ去った瞬間だった。
その時、リアネが群衆の前に進み出た。
彼女は悲しげに瞳を伏せ、コウタを守るようにその前に立つ。
だが、その立ち位置は絶妙だった。
群衆からは「狂った無能に慈悲をかける聖女」に見え、コウタからは「世界で唯一、自分を見捨てなかった背中」に見えるように。
「みなさん、落ち着いてください。……この子は確かに、人とは違う道を歩んでいるわ。でも、それはこの子にしかできない『奇跡』のためなの。……コウタ、こちらへ」
リアネはコウタの手を取り、誰もいない暗い聖堂の裏へと連れて行った。
光の射す広場には、もう彼の居場所はない。
背後で、街の人々が「聖女様にまで迷惑をかけるな!」「恥を知れ!」と罵声を浴びせ続ける。
「……聞こえる、コウタ? あれが、あなたの見ていた『世界』の正体よ。誰もあなたを理解しない。誰もあなたを愛さない。……彼らにとって、あなたはただの『ノイズ』でしかないの」
リアネはコウタを壁際に追い詰め、その両耳を優しく、だが力強く塞いだ。
罵声が遠のき、彼女の体温だけが伝わってくる。
「でも、安心して。……あの人たちがあなたを捨てるなら、私があなたを拾ってあげる。あなたが誰からも愛されないなら、私があなたを『特別』にしてあげる。……いい? もう、あんな人たちの声を聞く必要はないのよ」
リアネは、絶望で空っぽになったコウタの瞳に、自分の姿だけを焼き付けるように顔を近づけた。
「これから、あなたの世界には私だけがいればいい。私の声だけが正解で、私の言葉だけがあなたの光。……ねえ、コウタ。私以外のすべてを、捨てられる?」
コウタは、震えながら頷いた。
街の人々も、家族も、自分自身の尊厳すらも。
リアネという「隔離施設」の中に閉じ込められることが、彼にとって唯一の救いになったのだ。
彼は気づかない。
リアネが耳を塞いだその手のひらの中に、小型の魔石を仕込み、群衆の罵声をあえて「増幅」して彼に聞かせていたことに。
彼を社会から引き剥がし、自分の所有物にするための、完璧な隔離工作。
コウタは自ら街の門をくぐり、リアネという飼い主の引く見えない鎖に繋がれて、最前線という名の隔離病棟へと旅立った。




