つながらない~恋人を追いかけた先にいたのは——もうひとりの僕だった~
この物語は、「時間」が少しだけほころんでしまった一日の話です。
朝、突然世界が静止し、音も人も時計でさえも動かなくなる。そんな非日常に巻き込まれた主人公・祐樹は、大切な恋人るみを探すうちに、思いもよらない“もうひとりの自分”と出会います。
日常と非日常、現実と虚構、その境界が揺らぐなかで、彼は何を信じ、何を選ぶのか。読者のみなさんと一緒に、この一日の謎と切なさを追体験していただければ幸いです。
〈主要登場人物〉
◆祐樹
19歳・大学1年生。愛知県出身。内気で素直だが、心に迷いや不安を抱えやすい。将来の夢はまだ定まっていない。東京で一人暮らしを始めたばかりで少しホームシック気味。恋人るみを大切にしているが、自分に自信がない。物語中、“時間のほころび”に巻き込まれ、もうひとりの自分と対面する。
◆るみ
祐樹の恋人。愛知県在住で高校時代からの付き合い。大きな目と素直な性格が魅力。祐樹に会うため東京に来るが、時間のひずみの影響で“二つの時間線”に巻き込まれてしまう。当人は異変をほとんど自覚していない。
◆もうひとりの祐樹
時間のゆがみから現れた“別の時間の祐樹”。祐樹と同じ人物だが、異なる体験をしており、るみと行動していた姿を祐樹に目撃される。世界の修正力によって消えるように姿を失う。
〈ものがたり〉
◆第1章:止まった朝
ピッ、という電子音が鳴った気がして祐樹は目を覚ました。
天井の白さがぼんやり滲んで見える。昨日の夜更かしのせいだ。
――今日は絶対に寝坊できない日なのに。
スマホを手に取る。だが、画面の右上にあるアンテナマークは、無情にも×印をつけていた。
「……は?」
手の中のスマホを裏返したり、振ってみたりする。新品のスマホが壊れるなんてありえる?
しかも、LINEもメールも、まったく送れない。
「まいったなあ……」
祐樹は深いため息をついた。
今日は、愛知に置いてきたガールフレンド・るみが、連休を使って東京に来る日だ。
午前九時四十五分、東京駅十五番ホーム。“久しぶりだね”と笑いながら会うはずだった。
そのるみから、まだ連絡がない。
「新幹線、乗れたかな……?」
胸の奥がじわりと不安で熱くなる。スマホの画面を何度もスワイプするが、反応なし。
イライラしながらカーテンを開け、南側の大きな窓から外を見る。
……凍りついた。
誰も歩いていない。
車は信号の前で停止したまま。
街路樹の葉は一枚も揺れておらず、まるで写真の中のように動きがない。
「え……?」
耳をすませば、わずかな室内の音だけが聞こえる。冷蔵庫のモーター音も止まっている。
代わりに、自分の心臓の音がやたら大きく響いた。
思わずテレビのリモコンを押す。
先ほどまで流れていた土曜朝の情報番組の司会者・丸ちゃんが、満面の笑みのまま固まっていた。
「なんだよ……これ」
祐樹は時計に目を向けた。午前八時二十五分。
スマホも、目覚ましも、腕時計も、すべてこの時間でぴたりと止まっている。
――時間が止まった?
いや、そんなバカな。
考え込んでいたそのときだった。
ドンッ、と大きな縦揺れが床下から突き上げた。
「うわっ!」
昨日の夜、トイレに入った瞬間にも揺れを感じたが、それと似ている。
体がぐらりと揺れ、壁に手をつく。
だが、揺れが収まっても、外の世界は止まったままだ。
祐樹は窓を開け、大声で叫んでみた。
「おーい! 誰かいないのか!」
返事はなかった。
かわりに――動いた。
空気が。
祐樹が手を振ると、空気がゲルのようにまとわりつき、指の動いた軌跡を“筋”として残す。
「うそだろ……これ、なに……?」
喉がひりつく。背中を冷たい汗が伝っていった。
そのとき――テレビの丸ちゃんが突然動き出した。
「……え?」
画面が切り替わる。
スマホのアンテナマークが復活する。
時計も、秒針をカチカチと刻み始めた。
世界が――戻った。
祐樹は、固まった世界の中で体感した数分間を、必死で思い返した。しかし現実の時計は、動き出したばかりの“八時二十五分”を示したまま。
「……夢、じゃないよな」
気持ちを落ち着かせようと、パンを焼いてかじった。味が、まったくしない。
そのとき、LINEが震えた。
「るみ?」
画面を見ると、8:25に送られたメッセージ。
《今から新幹線に乗るよ! のぞみ86号、13号車ね!》
時刻が同じ。
――世界が再び動き出した時間と。
「……迎えに行かないと!」
ようやく我に返った祐樹は、慌てて着替え、マンションの玄関を飛び出した。
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【第2章:東京駅へ】
マンションを飛び出した祐樹は、まだどこか胸の奥がざわついているのを感じていた。
時間停止のことを考えないようにしても、頭のどこかでずっと何かが引っかかっている。
歩くと十五分かかる荻窪駅まで、今日は全力で走った。
息は上がり、喉は乾き、背中の汗がシャツに張りついた。それでも足を止める気にはなれない。
「間に合わない……かもしれない……!」
人影が増えてきた駅前の商店街を抜けたところで、ふと空を見上げた。
雲はゆっくり流れ、街路樹はちゃんと風に揺れている。
――外の世界の“普通”を確認して、少し安心する。
だが、胸のざわつきはまだ消えなかった。
ホームに滑り込むと、ちょうど出発前の電車が見えた。
「9時10分発、間に合った……!」
時間を確認しようとスマホを取り出した瞬間。
目の前を、オレンジ色の快速がものすごい速さで通過していった。
「え、ちょっ……なんで通過すんの!? これ快速じゃなかったよな!?」
掲示板には「まもなく9時16分発 東京行きが参ります」と表示されている。
「……一本飛ばされてる?」
9時10分発の電車は、来なかった。
走ってきたせいか、胸が妙にざわつく。
先ほどの“世界の停止”がまた頭をよぎった。
(いやいや、関係ないだろ。電車が遅れるのはよくあることだ。……多分。)
スマホの時計を見る。
9時11分。
「えっ……俺のスマホ、ズレてる?」
腕時計の針は、9時16分より少し前。
どう見ても、自分の時刻だけが何か狂っている。
「もう……わかんねぇ……」
結局、次に来た9時16分発に乗り込んだ。
電車は満員ではないが、吊革はほとんど埋まっている。
祐樹は窓際に立ち、外の流れていく景色をぼんやりと眺めた。
「……東京、来て二ヶ月か」
ふと思い出す。
深夜、寂しくなってホームシックに襲われるときのことを。
松ちゃんの番組に救われた夜のこと。
勉強ばかりだった高校生活。
父親の軽トラで上京したあの日、夜明け前の富士山を見て、
“俺もがんばるぞ”と気合を入れた自分の姿。
(何を頑張るのかは、今でもわかんないけど……)
気づけば東京駅に到着していた。
腕時計を見る。9時38分。
「よし……ギリいける!」
るみの到着まで七分。
余裕はないが、間に合うはずだ。
――そう思ったが、それは甘かった。
東京駅の構内に入ると、すぐ迷った。
入場券売り場の場所が何度来ても覚えられない。
「こっち? いや違う、丸の内行っちゃうか……!」
右往左往しているうちに、あっという間に時間が過ぎていく。
ようやく入場券を買って、コンコースに出たときには、時計の針は9時46分を指していた。
「やばい……!」
急いで十五番線へ向かう。
だが、ホームに着いた瞬間、景色が止まった気がした。
のぞみ86号はもう到着済み。
乗客はすでに降車し、車内清掃が始まっている。
13号車の扉は閉まっていた。
「……うそだろ。間に合わなかった……?」
人の流れの中で、祐樹は必死に周囲を探した。
るみの大きな目、黒髪、ふわっと首の後ろで揺れるクセ毛……。
だが、どこにも見えない。
そのときだった。
視界の端を、見覚えのある後ろ姿が横切った。
女の子。
黒いショルダーバッグ。
胸までの髪。
可愛い丸い肩。
――るみ、だ!
しかし、女性は男と並んで歩いている。
「……まさか」
祐樹は、信じたくない思いを胸に押し込みながら、ふたりを追いかけた。
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【第3章:銀座の影を追う】
祐樹は、ホームを歩き出したふたりを必死で追った。
視界がぼやける。原因は眼鏡のかけ忘れだ。今日はドタバタしていて、部屋に置いてきてしまった。
だが、それでも“るみの後ろ姿”だけは間違えようがなかった。
あの肩の丸み。
歩くたびにふわっと揺れる黒髪。
自分がプレゼントしたショルダーバッグ。
「……るみ、だよな」
祐樹の胸に、重く沈む感情が広がっていく。
怖い。
でも、目をそらせない。
“隣にいる男”の存在が、祐樹の心を締めつける。
どんな顔をしてるんだ。
どんな声なんだ。
るみと、どういう関係なんだ。
見たいような、見たくないような――そんな気持ちの中、祐樹はひたすらふたりの後をつけた。
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◆八重洲口、そして銀座へ
ふたりは八重洲口へ向かい、タクシーを拾った。
「くそっ……!」
祐樹も慌てて後ろのタクシーに乗り込む。
「前のタクシーを追ってください!」
若い運転手は驚きつつも、「わかりました」と車を発進させた。
タクシーの窓に映る自分の顔が青ざめている。
呼吸が浅く、手のひらは汗でびっしょりだった。
(なんで……? なんで、るみが……見知らぬ男と……)
電車の遅延、時間のズレ、そしてこの異様な違和感。
すべてが頭の中でぐちゃぐちゃになっていく。
「大丈夫……大丈夫だ。たまたま似てただけかもしれないし……」
そう思い込もうとするたびに、心臓は逆に速く脈打つ。
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◆巨大なガラスの塔――GINZA SIX
十分ほどでタクシーは止まった。
銀座六丁目のユニクロ前。
12階まで吹き抜けのガラスの壁面が太陽光を反射し、まぶしいほど輝いている。
休日で人通りは多いが、ふたりの姿はすぐに見つかった。
るみ――そして男。
男は片手に大きな紙袋を持ち、るみは弾むような足取りで店内へと消えていく。
「……本当に、るみじゃん」
るみの横顔が一瞬、ガラスに映った。
大きな瞳、口元の小さなほくろ。
間違えるはずがない。
(じゃあ……隣の男は、誰なんだよ……)
祐樹はタクシーから降り、距離を保ちながら後を追った。
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◆ユニクロ店内で
店内は白い光で明るく、人の声と音楽が混じり合って騒がしい。
洋服が整然と並び、エスカレーターがゆっくりと上下している。
ふたりはあちこちのフロアを行ったり来たりし、試着したり手に取り合ったりしていた。
まるで――デートだった。
祐樹は柱の陰から覗き見ながら、奥歯を噛みしめた。
(俺との東京デートのために来たんだよな……?
なんで、なんで知らない男と……)
胸の奥がギュッと締めつけられる。
喉が熱くなり、視界のピントがうまく合わない。
男の顔をはっきり確認できないのは眼鏡のせいだが、
なにより“見るのが怖い”自分がいた。
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◆不二家レストランの窓辺で
ふたりは店を出ると、数寄屋橋の交差点の方へ歩き出した。
太陽は高く、風は暖かい。
観光客が多いせいか、どこもかしこも話し声でにぎやかだ。
祐樹は店の外壁沿いの位置から、気づかれないように追跡を続けた。
交差点の向かいにある不二家レストラン。
ふたりはその二階へ上がっていった。
祐樹は向かいの電柱の陰から、窓に映る二人の姿を凝視する。
るみは楽しそうに笑っていた。
男は手振りを交えて話し、るみが何度も頷いている。
ハンバーグランチの湯気。
るみの笑顔。
男の落ち着いた仕草。
――最悪の光景だった。
「なんだよ……」
呟いた声が震えていた。
胸が痛い。こんな感情は初めてだった。
祐樹は近くの自販機で買ったクリームソーダを手に、ベンチに座っていた。
視界の中で、窓のふたりがぼんやり揺れて見える。
ソーダの甘さは何ひとつ感じなかった。
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◆原宿へ、そして竹下通りへ
食事を終えたふたりは、日比谷駅から地下鉄へ。
祐樹も同じ車両に飛び乗った。
車内ではるみと男が近くに立っている。
距離にして数メートル。
それなのに、二人の間に透明な壁があるように感じられる。
原宿駅で降りると、人の波が押し寄せてきた。
休日の竹下通りは相変わらずの混雑で、視界が人混みに埋め尽くされている。
その中を、るみと男は迷いなく進んでいく。
店に入り、グッズを買い、また歩く。
男はるみの背中に手を回した。
「……ふ、ざけんなよ……」
怒りがこみ上げてくる。
だが、祐樹は叫べなかった。
立ち止まっていると、人がどんどん肩にぶつかってくる。
喉の奥が熱くなり、視界が波のように揺れた。
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◆表参道へ
けやき並木の間から降り注ぐ光が、石畳を白く照らす。
原宿よりは落ち着いているが、それでも連休初日の表参道は人で溢れていた。
ふたりの姿を見失いかけたそのとき、
横道に入っていくふたりが見えた。
つないだ手がゆらゆら揺れ、仲の良さを周囲に見せつけるみたいだった。
「……もう、我慢できねぇ」
祐樹は、怒りと混乱で息を荒げながら、ふたりを追った。
その横道の先に――
絵本専門店「クレヨンハウス」があった。
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【第4章:地下カフェの対面】
表参道の喧騒から一本外れた細い道に入ると、
さっきまでの雑踏が嘘のように静かになった。
その静けさの中で、るみと男は並んで歩き、
やがて 絵本専門店「クレヨンハウス」 にたどり着いた。
色あざやかな絵本が並ぶショーウィンドウ。
子どもたちの笑い声が似合いそうな店構え。
だが今は、祐樹の胸が重く沈むばかりだった。
ふたりは階段を降り、地下にあるカフェへ入っていく。
木製のテーブル、やわらかなオレンジ色の灯り、
コーヒーの香りが薄く漂い、外の喧騒とは別世界のような落ち着きがあった。
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◆るみが席を立つ
店の隅の小さなテーブルに座ったふたり。
しばらく談笑したあと、るみが立ち上がった。
バッグを椅子に置く仕草。
おそらくトイレだろう。
祐樹は、心臓がドクンと高鳴るのを感じた。
(……今しかない。)
怒り。
嫉妬。
混乱。
焦り。
すべてが一気に胸に押し寄せてくる。
理由なんて、もうどうでもよかった。
祐樹は足が震えるのを押さえながら、男の背後へと近づいていった。
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◆「おい」
声が震えないように、祐樹は必死に喉を押さえつける。
喉の奥はカラカラに乾いていた。
そして――
「おい」
男が振り向いた。
その瞬間、
祐樹の思考は真っ白になった。
「……え」
男は驚いたように目を見開いた。
祐樹もまた、固まった。
その顔が――自分とまったく同じだった。
黒目の形。
眉のライン。
額の出方。
口の端のほくろの位置まで。
まるで鏡に映った自分が、そこに座っているかのようだった。
「なんだ……これ……?」
言葉が出てこない。
“もう一人の祐樹”も同じように、口をぽかんと開けている。
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◆空間が……歪む
そのときだった。
カフェの空気が、
“ビリッ”と裂けるように震えた。
照明がゆらぎ、コーヒーカップがわずかに揺れた。
音が吸い込まれ、数秒間だけ完全な無音になる。
祐樹は両耳を手で押さえた。
頭の奥がきしむように痛い。
世界が、ひずむ。
視界の端が波打ち、光が遅れて届くような感覚。
空気がゲルのように粘り、身体にまとわりつく。
まるで、
二人の祐樹が同時に存在してはいけない
と言わんばかりに、空間そのものが拒絶しているようだった。
“もう一人の祐樹”も、苦しそうに身をかがめていた。
「う、うわ……!」
祐樹の視界が、白くはじけた。
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◆そして――ひとりになった
世界が元に戻ったとき。
そこには、祐樹だけがいた。
椅子は一つだけ。
コーヒーカップも一つ。
男――もうひとりの自分――は、
影も形も残さず消えていた。
祐樹は膝をつき、両手で頭を抱えた。
「嘘だ……なんだったんだよ、今の……」
心臓がドクドクと激しく鳴る。
こみ上げる吐き気をこらえる。
頭の芯が焼け付くように熱い。
(俺、気が狂ったのか……?)
震える手で机の縁をつかんだそのとき――
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◆「祐樹? 大丈夫?」
背後からやわらかな声がした。
振り返ると、るみが心配そうに眉を寄せて立っていた。
「え、あ……るみ……?」
その大きな目は、なにも知らないというように澄んでいる。
数分前まで、違う男と楽しそうに歩いていた者と同一人物とは思えない、自然な表情。
るみはそっと祐樹の腕に触れた。
「顔色、悪いよ? どうしたの?」
「あ……いや……大丈夫……」
大丈夫なんかじゃない。
でも説明なんかできるはずがなかった。
るみは手に絵本の袋を持っていた。
「どうしても欲しかったやつなんだ」と嬉しそうに話す。
その無邪気な笑顔が、逆に祐樹の胸を締めつけた。
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◆名古屋へ帰る時間が迫る
るみの帰りの新幹線まで、もうあまり時間がないらしい。
父親が厳しくて、夜七時までには帰宅しないといけないと言っていた。
祐樹は心配と混乱でまだ頭がボーッとしていたが、
それでも話すべきことはある。
今日起きたこと。
時間の停止。
銀座で見たるみ。
そして……“もうひとりの自分”。
――けれど、結局なにも話せなかった。
るみの笑顔があまりに自然で、日常的で、
とてもじゃないが“異常な出来事”を持ち込める空気ではなかった。
ふたりは表参道駅へ向かい、地下鉄を乗り継いで東京駅へ向かった。
やがて、ホームへ続く階段の前にたどり着く。
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【第5章:二度目の時間停止】
東京駅の構内は、連休初日ということもあって信じられないほど混雑していた。
ベビーカーを押す家族連れ、キャリーケースを引く観光客、カップル、学生……
祭りのような喧騒が、天井に反響している。
祐樹は、横を歩くるみの表情を何度も盗み見た。
さっきまでの原宿デートの出来事――あれはなんだったのか。
胸の奥ではまだ、信じたくない混乱と恐怖が渦を巻いている。
(話すべきだったのか……
いや、あれを説明したところで信じてもらえるわけがない……)
そんな思考の渦の中、
ふたりは新幹線ホームへ向かう階段の前に着いた。
るみが笑顔で言う。
「祐樹くん、今日はありがとね。あの……またすぐ会えるよね?」
その自然な笑顔に、祐樹は胸が締めつけられた。
「……もちろん」
力なく答える。
本当はもっと色々言いたいのに、言葉にならなかった。
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◆そして――あの“揺れ”が。
階段を上りかけた、そのとき。
ドンッ……!
床下から突き上げるような、低く重い揺れが襲ってきた。
「わっ……!」
るみが一瞬よろめき、祐樹は咄嗟に腕を伸ばす。
同時に——
祐樹には、見覚えがあった。
この揺れは――あの朝、自分の部屋で感じたものと同じだ。
その瞬間、耳の奥に“キィィン……”という金属音のような高い共鳴音が広がった。
そして。
世界が……止まった。
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◆音が消える
さっきまで押し寄せていた人々のざわめきが、
まるでスイッチを切られたように消える。
階段を上っていた人々は、
足を上げたままの姿勢で固まり……
天井のLED掲示板は動かず……
隣で泣いていた赤ん坊は、
口を開けたまま無音のまま。
祐樹の呼吸音だけが、鼓膜を震わせていた。
「また……だ……!」
胸が締めつけられる。
空気は前回と同じ、ゼリーのように粘っている。
祐樹が手を動かすと、その“空気の筋”が目に見えて残った。
世界が止まったのではない。
祐樹だけが、動けている。
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◆るみが……いない
「……るみ?」
さっきまで隣にいたはずなのに。
どこにもいない。
階段の中腹。
ホームの入口。
人の隙間。
どこを探しても、るみの姿だけが“抜け落ちて”いた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
「嘘だろ……」
祐樹は階段を駆け上がった。
時間停止の空気は粘りつき、足が思うように上がらない。
まるで深い水の中を歩いているようだ。
ホームにたどり着いたとき、
時間停止の世界は完全な静寂に満たされていた。
遠くのホームに停車中の新幹線。
車体に映る蛍光灯の光。
止まったままの乗客たち。
祐樹は、力なくその場に立ち尽くした。
「なんなんだよ……これ……」
頭が痛い。
心臓が苦しい。
呼吸が浅くなる。
世界中のすべてが止まっているのに、
るみだけがいない。
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◆世界が“動き出す”
次の瞬間。
耳の奥で、音の渦が逆流するように響いた。
“ゴォォォォオオン!!”
積み上げられていた無音が、一気に崩れ落ちたように音が戻ってくる。
ホームの喧騒。
電車のアナウンス。
人々の足音。
祐樹の腕時計の秒針が、カチッ……カチッ……と動き出す。
世界が、再び動き始めた。
だが。
るみは、いない。
祐樹は、その場に膝をついた。
「なんだよ……なんなんだよ……!」
声が震え、涙がにじむ。
胸がぐしゃぐしゃで、思考がまったくまとまらなかった。
そのとき――
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◆「誰だ……?」
ふいに、祐樹の背後から気配を感じた。
振り返ると。
祐樹にそっくりな青年がホームに立っていた。
息を切らし、額に汗をにじませ、
まるでついさっき走ってきたばかりという表情。
目が合った瞬間、
青年は驚き、震えた声を漏らした。
「……俺?」
祐樹は固まった。
――そうだ。
この青年は、クレヨンハウスで自分が見た“もうひとりの祐樹”と同じ顔だ。
その青年が言葉を続ける。
「……るみは……どこだ……?」
その言葉は、まるで自分の心の奥をそのまま読み上げられたようで――
祐樹は、返事ができなかった。
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【第6章(最終章):巻き戻された午前九時四十五分】
ホームに響く電車のアナウンス。
せわしなく行き交う人々の足音。
観光客の笑い声。
つい一瞬前まで、世界は止まっていたはずなのに——
その痕跡はどこにもない。
だが、それ以上の異常が、祐樹の目の前に立っていた。
もうひとりの祐樹。
青年は祐樹と同じ顔、同じ身長、同じ髪質。
だが、表情だけが違った。
苦しげで、迷いを抱えたような目。
互いに数メートル離れた場所で、まるで鏡と向き合うように固まる。
「……なんで、お前……」
祐樹が声を絞り出すと、
青年は唇を震わせながら言った。
「……俺も……わからない。
気づいたときには、気づいたときには……るみと……」
そこまで言ったところで、青年の目が大きく揺れた。
ホームの時計を見たのだ。
そこには、午前九時四十五分。
「……おかしいだろ……俺、昼過ぎまで……銀座や原宿を……」
青年は頭を抱えた。
祐樹の胸も、激しく波打った。
昼下がりに見た“るみと男”の姿。
追い続けた先で出会った“もうひとりの自分”。
全部——時計では説明がつかない。
「なぁ……お前、どっから来たんだよ」
祐樹は震えながら問う。
問いながら、自分自身に問うているようでもあった。
青年はゆっくり顔を上げ、かすれた声で言った。
「……わからない。
本当に、わからないんだよ……気がついたら……るみの隣にいて……
まるで“そこにいるのが当たり前”みたいで……」
青年は言葉を失い、膝に手をついた。
(まるで……時間が……二つに分かれてたみたいだ……)
祐樹の脳裏に、あの瞬間の光景がよみがえる。
部屋で起きた最初の時間停止。
クレヨンハウスの地下で起きた世界のひずみ。
階段を上った瞬間に訪れた無音の空間。
すべてが——何か一つの線で繋がっている。
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◆そして、“彼女”が現れる
背後から突然——
「しゅうーきっ!」
両手で目隠しされる。
「うわっ!?」
祐樹は飛び上がり、振り返った。
そこには、
くりくりした目をした“るみ”が立っていた。
朝と同じ、東京に着いてすぐのような、
無垢な笑顔を浮かべたるみ。
「祐樹〜〜、探したよ!
LINEも繋がらないし、電話も出ないし、もう〜〜!」
言葉も、表情も、仕草も、
まるで“何も起きていない”朝のままだった。
そして彼女の腕には、
絵本の紙袋はない。
はっきりと違う。
(なんだ……? どういうことだ……?)
祐樹は混乱のあまり、返事が遅れた。
「しゅうーき、どうしたの? 顔色悪いよ?」
「……いや、ちょっと……」
ふらつく足を踏みしめながら、祐樹は腕時計を見た。
午前九時四十五分。
——巻き戻っている。
間違いない。
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◆もうひとりの“祐樹”は
祐樹はるみの背越しに、さっきの青年がいるはずの場所を見た。
そこには——
誰もいなかった。
青年は、影ひとつ残さず消えていた。
まるで最初から、存在しなかったかのように。
だが、祐樹の胸には確かに残っている。
彼はいた。
目の前で苦しそうに息をしていた。
同じるみを探していた。
そして——時間の狭間から現れた自分自身だった。
祐樹の頭に、あの“世界がひずむ音”が微かに残っている。
(俺たちは……どっちが本物なんだ?
いや……そもそも俺は……“どの時間の俺”なんだ?)
考えた瞬間、めまいがした。
しかし、るみが腕をとる。
「行こ? お昼に食べるところ、予約してあるんだよね?」
祐樹は息を呑んだ。
(……この“午前九時四十五分”は、俺に与えられた……やり直し?
それとも……)
結論は出なかった。
だが、今そばにいるるみの温度は、本物だった。
祐樹はそっとるみの背に手を回した。
「……うん。行こ」
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◆最後に見えた“影”
ふたりがホームを歩き出したとき——
改札の向こう、雑踏の中に“それ”が見えた。
一瞬だけ、
祐樹と同じ顔をした青年が、
こちらを振り返るように立っていた。
汗ばんだ前髪。
息を切らした肩の上下。
その姿は、ついさっきまでホームにいた彼そのものだった。
だが——祐樹が目をもう一度こすったとき、影は消えていた。
ひと粒の泡のように。
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◆祐樹は少しだけ笑った
るみが振り返り、にこっと笑う。
「祐樹? どうしたの?」
「……いや。なんでもないよ」
祐樹は、ほんの少しだけ笑い返した。
「さあ、行こうか。るみ」
ホームの雑踏にまぎれながら、
二人は新しい“今日”へと歩いていく。
その背中を、
誰かが見つめているような気がしたが——
祐樹は、もう振り返らなかった。
—了-
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「時間がほころぶ瞬間」に人は何を見るのか——そんな発想からこの物語は生まれました。恋人を失いかけ、同時に自分自身を見失いかける祐樹の姿には、誰もが抱える“揺らぎ”を少しだけ映したつもりです。
説明されない余白や、時間の謎そのものは、読者の想像に預けています。祐樹とるみの“今日”が、あなたの記憶にも残る一日となれば嬉しく思います。




