どぼん
俺の名前は中村真治。どこにでもいる、何の変哲もないサラリーマンだ。働いている会社は中小企業で、いわゆるブラックといった職場環境だと思う。上司は威圧的だし、同僚は嫌味だ。そんな奴らの顔色を伺いながら会議資料の修正を繰り返しているとオフィスであるにもかかわらず時々叫び出しそうになることがある。もちろんそんなことができるわけないので俺はただただ無機質なモニターとにらめっこし、キーボードを叩き続ける。就業時間はとうに回っているのに、そこここからカタカタという音がひっきりなしに聞こえてきていた。
「中村、まだそれ終わんないのか? それ一つにどんだけ時間かけるつもりなの? 明日使うんだけど」
「……すみません、もう少しで」
「前から思ってたけどお前要領悪いよな。向いてないんじゃない? 別の奴に頼むか?」
「いえ、もうすぐ終わりますので、すみません」
資料が終わらないのはこうやって時々上司がわざわざ俺のデスクまで来て憂さ晴らしをするからだ。大体この仕事は元々俺のじゃなかったのに午後に突然差し込まれたせいで就業時間を越えてもやる羽目になっているというのに……。
「ねえ……、また言われてる」
「マジ遅いよね。あれなかったらうちらももうちょっと早く帰れたんじゃない……」
後ろで同僚たちがひそひそ声で俺の悪口を言っている。うるさいな。全部聞こえてるんだよ。陰口は陰でしろ、くそったれめ。
(ああ……おかしくなりそうだ)
なんとか終電前に資料を完成させることができ、俺はコンビニ弁当片手に帰路に就く。アパートに帰っても夜中で、これを食って寝て起きたらまた仕事。布団に入って眠りにつく時間が俺にとっての誰にも邪魔されない数少ない完全な休息の時間だ。
だと言うのに、最近俺は悪夢を見る。それは子供のころの夢、まだ俺が小学生で、ランドセルを背負って雨上がりの道を歩いている夢だ。その夢は三日前くらいから毎日同じ内容で繰り返されている。
夢の中の俺は小学生で、誰か友達と一緒に歩いている。ランドセルの中で筆箱ががちゃがちゃと鳴っている懐かしい感覚。一緒に歩いている友達は女の子だが顔はおぼろげでわからず、名前も思い出せない。だけどこの頃の俺が毎日会っていた子だという記憶だけが不思議としっかりあった。長靴を履いたその子が水たまりを踏むと、泥水がびしゃりと飛び散る。俺はその飛沫がかかるのを嫌って少し離れてそれを見ている。水たまりは雨上がりの空を映してキラキラと輝いていた。女の子は水たまりを次々と踏み散らしながら俺の方に近づいてくる。水面に映る空が汚く濁った。ばしゃ、ばしゃ、と飛び散る飛沫を俺にかけようとしているのだとわかって、夢の中の俺はやめてよ、と女の子に言う。しかしその子はやめない。俺の足元には小さな水たまりがひとつある。他の水たまりはキラキラと美しいのに、その水たまりだけは習字の時間の墨汁のように黒い。やめてよ、やめてよ。と俺は繰り返す。女の子は笑っている。顔がわからないのに、大人の歯が生え始めた口元だけがにたにたと笑っている。やめてよ。やめてよ。
「やぁめない」
そう言って女の子は、おれの足元の黒い水たまりに足を踏み入れる。ばしゃりと飛び散ってくることを覚悟した俺の目の前で、女の子の姿が消えた。
どぼん。
黒い水たまりは飛び散ることもなく、ゆったりと波打って女の子を飲み込んだ。女の子は声も上げなかった。カナカナカナ、とひぐらしが鳴いて、空が茜色に染まっていく。俺は目の前で女の子を飲みこんだ黒い水たまりを見つめている。やがてそれは小さくなって、アスファルトに吸い込まれるように消えた。
「ちょっマジふざけんなって! タンマタンマ! マジみなさん見ました!? 今のはなしでしょ!!」
「うわっ!!!」
若い男の声が突然聞こえてきて、俺は驚いて飛び起きる。隣の大学生が大音量で通話しながらゲームをやっているのだ。
「……うるさいな。マジふざけんなはこっちのセリフだよ……」
眠りから無理やり起こされた俺は台所で水を飲み、ため息をつく。隣の大学生はよくこうやって夜中に空騒ぎをする。以前大家から注意をしてもらったはずなのだが、一向に騒音は改善されなかった。
「みんな消えてしまえばいいのにな」
ため息とともに口から出た言葉は自分でも驚くほど投げやりだった。嫌な上司も、同僚も、迷惑な隣人もみんな消えてしまえばいいのにな。それはSNSなんかを開けばどこの誰でも呟いているようなありふれた言葉だ。実際に誰も消えることなんかないし、消えたら困る。
「こんな毎日を過ごしていたら変な夢見るのも当たり前だよ……」
俺はそう言うと、イヤホンを耳に突っ込んでまた布団に潜り込む。少しだけ聞こえづらくなった隣の騒音を聞いているうちに俺は眠りに落ちて行った。今度は夢は見なかった。
夢の内容は三日前から変わらないが、少しずつ変わっていることがある。三日前は一緒に居るのが女の子かどうかもわからなかったし、昨日は口元が見えなかった。夢の中の女の子はだんだんその輪郭を鮮明にしていっている。このまま夢を見続けたらいつかあの子の顔が見える日が来るのだろうか。あれは誰なのだろう。別に知りたくはないけど……。
朝起きて、会社に行く。昨日の資料はなんとか間に合ったが、あんなに煽ってきておいて、間に合わせた俺に礼をいう奴は一人もいない。別に数字が間違っていたわけでもないのに些細な誤字をつっついて、おしまい。そしてまた膨大な仕事が積み上げられ、今日の帰りも遅くなる。
(みんな消えてしまえばいいのにな)
取引先の電話の保留音を聞いていると、昨日口から飛び出したつぶやきをまた心の中で繰り返している自分に気が付く。みんな消えてしまえばいいのにな。みんな消えてしまえばいいのにな。どっこいしょの掛け声みたいなものだ。特に意味はない。ただ、疲れている。
「コーラのCMのサトリカがさあ、可愛くて。あんな子が娘だったらいいのになあ」
コーヒー片手に上司がくだらない話をしている。部下同士の雑談は厳しく禁じる癖に自分が気まぐれに部下に話しかけて、返事をしないと不機嫌になるのだ。話しかけられた同僚はあいまいに笑って「そうですねえ」を繰り返している。
(サトリカ……? なんか聞いたことある名前だな)
サトリカというアイドルだかなんだかは俺も電車の中やスマホの広告で見たことがある。どこにでもいる芸能人だ。若くて初々しくて可愛くて。他の芸能人と同じ。特に好きでも嫌いでもない。だけどサトリカという四文字は妙に耳に残った。おそらく、知り合い……別の誰かのあだ名だ。
(サトリカはたぶん真治のことが好きなんだよ)
誰の言葉だろう。仕事の邪魔になるから変な記憶がよみがえるのはやめてほしい。今日もきっと残業だ……。
「なあ、中村もサトリカ可愛いと思わないか?」
「え? あ、そ、そうですね。可愛いですね」
「まあサトリカはお前みたいなオッサン好きになんかならないだろうけどな! さっさと手動かせよ」
「はい……」
参加したくない話題で勝手に好きでもない芸能人を好きだと言うことにされて勝手に釣り合わないことにされる。本当に理不尽だ。だけど、これもいつものことだ……。
(真治くん)
その夜も夢を見た。ランドセルに長靴の女の子は今日もばしゃばしゃと水たまりを踏みながらこっちに近づいてくる。やめてよ、と口にしようとして、俺はその子に顔があることに気付いた。
(……佐藤梨花だ)
佐藤梨花は小学校の時の同級生で、俺の隣の席の女の子で、家も近くて、親同士も仲が良くて。俺は毎日梨花と登下校をしていた。梨花は明るくて元気が良くて先生に好かれていて友達が多くて。だけど登下校は俺とだけしていた。同級生には羨ましがられたりからかわれたりしたけど、俺は別に嬉しくもなんともなかった。
「やめてよ、梨花ちゃん」
「やぁめない」
思い出した。夢の中だと言うのに右の人差し指がじくじくと痛む。俺はこの夏、アシナガバチに刺されたのだ。蜂が巣を作っているパイプの中に指を突っ込んだから。親にはどうしてそんなことをしたのかとなじられたが、俺は本当のことを言うことができない。
「誰にも言ってないよね?」
「言ってないよ。だって……」
俺は梨花にいじめられていた。梨花のスマホには下半身を裸にされた俺の写真が入っている。脱がないと俺の家で飼っているインコを殺すと言われた。そして次は蜂の巣に指を入れないとその写真を拡散すると脅されたのだ。梨花の恐ろしいニヤニヤ笑いがばしゃばしゃという音と共に近づいてくる……。
消えてしまえばいいのに。俺はかつて毎日そう願っていた。みんなに愛されている梨花が俺をいじめているなんてきっと誰も信じない。スマホを持ったまま梨花が行方不明にでもなれば俺のこの地獄は終わる。
「真治くん!」
満面の笑みで梨花が近づいてくる。大人も子供もみんな梨花のことを可愛いと言うけれど、俺は梨花の顔を見ても恐怖しか感じない。その笑顔から今日は一体どんな理不尽な要求が飛び出してくるのか。とにかく怖かった。
今日の夢でも梨花は俺の足元の黒い水たまりを踏んで。
どぼん。
ひぐらしの声。夕暮れ。夢の中の俺は驚き。そして安堵する。
「馬鹿馬鹿馬鹿そっちじゃないって! あーっ!! マジありえねえわ!!」
「……はあっ……はあっ……」
俺はまた隣人の大声で覚醒する。びっしょりと汗で濡れた顔を着ていたシャツで拭って体を起こした。
(佐藤梨花……。夢に出てくる女の子は佐藤梨花だ)
佐藤梨花にいじめられていた毎日を、俺はずっと忘れていた。中学生に上がった時に梨花はどうしていただろう。全く思い出せなかった。あんなに毎日いじめられていたのに覚えていないだなんて。辛い経験過ぎて記憶の奥に押し込めていたとでも言うのだろうか。
次の日、久しぶりに仕事が休みだったので俺は実家の母親に電話をかけた。あまり連絡をしない俺の電話に母親はうるさいほどに喜び、ちゃんと食べているのか、病気はしていないか、彼女はできたのかなどと矢継ぎ早に質問してくる。それを適当にいなした後、俺は気になっていたことを話題に出してみた。
「あのさ、小学生の時に梨花ちゃんていたよね。佐藤梨花」
「ええ? 佐藤……、あ、あーあー。梨花ちゃんね。佐藤さんちの。あんたが三年生の時に仲良くしてた」
頭の後ろがちくりと痛んだ。母親は俺が梨花にいじめられていたことを知らない。
「いや、別に理由はないんだけどその、ちょっと夢に出てきたから今どうしてるんだろうって思って?」
「今? うーん。あの子夏に引越して行っちゃったじゃない? そのあと疎遠になっちゃったから知らないわ」
「あ、引っ越しちゃったんだっけ。行方不明になったとかじゃなくて?」
「何言ってんの? 引っ越しちゃったのよ。あんた梨花ちゃんと離れたくないって泣いてさあ。ちょっとぉ。子供の時にちょっと仲良くしてたって今連絡してもきっともう結婚しちゃってるわよ!」
「そういうんじゃないよ……いいや」
俺は適当に電話を切り上げた。買い出しに行けていないから外出しなくてはならないのだ。サンダルをつっかけて外に出るともう夕方だった。昼間は雨が降っていたようで、あちらこちらに水たまりができていた。
(夢と同じだ。気持ち悪いな……。まあでも、佐藤梨花は引っ越していったんだ。黒い水たまりに落ちていなくなったんじゃなくて。よかった。ちょっとほっとした)
近くのスーパーに向かって歩いていった。むわっとした湿気がアスファルトから立ち上る。ふと違和感を感じて俺は振り返った。肩越しに見える道路にたくさんの水たまり。そのうちの一個が、気のせいだろうか。あの夢のように真っ黒に見えた。
「……」
俺は前を向いて走り出した。そんなことあるわけない。スーパーで買い物を済ませ、帰りは別の道を通って帰った。
(寝不足だ……あんな夢を毎日見て、夜中に騒音で起こされて。だからあんな幻覚を見るんだ)
休日に疲れを癒すことができないまま俺はまた忙しい仕事の日々に戻る。上司は変わらずに理不尽で、同僚は嫌味だ。
(みんな消えてしまえばいいのにな)
消えてしまえばいいのに。佐藤梨花みたいに。そう思った瞬間目の前がくらっとした。がくんと首を垂れそうになってあわてて持ち直した俺を目ざとく見つけた上司が近づいてきた。
「おい中村、うつらうつらしてんじゃねえよ。寝てる間の給料は払えねえんだよ。給料泥棒がよ」
「あ、すいません……」
「すいませんじゃねえよ。こっちはお前みたいな使えない部下のせいで残業続きだってのによ」
「……」
「あ? なんだその目は。本当お前は人をイライラさせるのばっかり上手だよな。お前みたいのがいるからこの部署は結果出せねえんだよ、お前がこの部署全体の効率下げてんの、わかってる?」
「また始まった……あれやってる間仕事止まるから勘弁してほしいよね」
「まあまあ、中村さんがタゲられてる間うちら平和だからいいじゃん」
「言えてる~。お茶飲んじゃお」
イライラする。イライラは別にお前の専売特許じゃないんだよ。俺だってめちゃくちゃイライラしてるってのに。うるせえな。中身のないことをべちゃくちゃべちゃくちゃ……お前ががなってる間に他の奴らがサボってるんだよ、くそ。消えちまえばいいのに。消えちまえ。
上司の後ろの壁に真っ黒な染みのような何かが現れ、じわっと広がる。それはすうっと流れるように床に向かって落ち、俺の近くに向かってくる。
「何よそ見してんだ、指導されてる間くらいこっち見ろよ、そんなだからお前は……」
真っ黒い染みは上司の足元まで近づいてきて、そのまま小さい水たまりの形でわだかまった。そして。
どぼん。
「あ……っ」
俺の目の前で、上司の身体は黒い水たまりに落ちて行った。俺は目の前で起きたことが信じられずに同僚の方を見る。しかし同僚は今の瞬間を見ていなかったようだった。周りを何度見渡しても、誰も今起こったことに気が付かなかったようだった。
(消えちゃえ、梨花ちゃん。消えちゃえっ!!)
(あっ……)
消える瞬間の佐藤梨花の表情をその時俺は思い出した。目も口もまんまるに大きく開けて、どぼんと落ちていくランドセルの女の子。俺は跡形もなくなった黒い水たまりを覗き込んで、そして……。
「あはは」
乾いた笑いがひとつ口から出た。空気の悪いオフィスの中でキーボードを叩く音と電話だけが聞こえている。俺が上司を消したことは誰も気が付かない。俺が人を消せることに、誰も気づかないのだ。
「俺は化け物だ。あはは」
俺は人が消せる。上司を吞み込んだ後、黒い水たまりが嫌味な同僚の足元にじわじわ向かっていくのを俺はただ笑いながら目で追っていた。
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