43話 空白が失ったモノ
―がしゃっん!!
邸宅に破裂音が響く。大きな物音の次には、家具が倒れる破壊音が聞こえ、邸宅全体に重々しい空気を与えている。広大な邸宅の外、庭園に咲き誇っていた花々は萎れ、輝きを失っている。邸宅の主人に仕える執事やメイドは重苦しい威圧に耐えている。
邸宅の奥深く。書斎に続く廊下。その壁にかかる絵画は無惨に引き裂かれ、花瓶は床に割れ落ち、踏みつけられている。奥に進むにつれ、強圧に拍車がかかる。まるで来る者を拒んでいるようだ。
がしゃりと扉の先で、また破裂音が聞こえてきた。
「虫けらが…」
邸宅の主人は抑えきれない怒りを物にぶつける。持っている剣を薙ぎ払って、壁を傷つける。耽美な装飾は見るも無残な光景を残す。美を軽蔑する圧倒的な憤怒を、久方ぶりに味わう邸宅の主人カルム貴は、長命で会得した感情の制御が不可能であるほど、怒り狂っていた。感情の箍が壊れ、温厚な人格が崩れている。吐き出せば、終わることのない怨嗟の苦情。荒く息を立てて、アヴニール卿の話を思い出す。
『守りたかった者を殺さねばならぬとは…長寿も皮肉じゃな』
がぎぃんん!?
カルム貴は剣を叩きつける。刀身が綺麗に折れた剣を投げ捨てる。
別れ際の吐き捨てられた言葉が、ずっと頭の中を占領している。
「誰のせいでっ…こうなったと、思っているんだ!?」
計画では、アバンチュールの戦力を欠いた後、攻め入り、今の秩序を崩壊させるつもりだった。予想通り、戦争に負けてしまったが、戦力は欠けていた。すぐにでも、神帝教の戦力を陸地に走らせ、空に進軍するつもりだった。陸地で賢者の住まう空の経路を守る一族を皆殺しにして、踏ん反り返るリュイヌ卿を捕縛し、娘が長年味わった苦痛の何倍もを与える予定だった。
「エムロード!…運でのし上がっただけの、小童がっ…私の孫を駒に…全部謀っていたな!!」
カルム貴は、ラジュネスの復帰を、裏で画策したエムロード公爵に憎悪をぶつける。そして、今回の戦争で敵となった面子を思い出す。
「お前達の家門は昔からリュイヌに肩入れしていたな…娘の追放を、積極的に進言していた。ああ、ああ、お前達もか…憎ったらしい!」
増幅する憤怒。
『酷い有り様ではないか』
衝動に駆られて、悲しみに嘆くカルム貴の下に客が訪れた。極採色の赫は全身を覆い、節々が黒で染められている。
「嘲りに来たのですか…ファタール」
『お前が荒ぶる姿は、セクアナと餞別して以来か、カルム』
神帝教の頂点である元賢者ファタール卿の弄りに、カルム貴は多少平静を取り戻していく。それでも呼吸は乱れている。ファタール卿は書斎の扉のすぐ近くに立っているだけだ。近づく気配がない。
「来てくださらないのですか?」
『我に指図するつもりか?』
「……………失敬」
飲み込んだ意志が一言で表された。
「戯言と受け取ってくださっていいです。愚痴は、もうあなたしか聞いてくれない」
『申せ』
「私ともあろう者が、まんまと策略に嵌められました。アンフィニを引き渡し、それから…作戦を実行します。大陸に仕掛けた魔力が明日結ばれ、大爆発を引き起こします。国土を吹き飛ばし、目障りな存在を一蹴します…その過程で、姫が…ラジュネスが立ちはだかる予想です。いえ、確定しています。避けては通れない攻略対象です。ラジュネスに謀略は通用しません…正面から痛めつけるしかありません」
カルム貴は唇を噛みしめて、現状を何度も後悔する。孫娘が相手と知って、カルム貴から戦闘意欲が削がれていることに、ファタール卿は鼻で笑った。
『今になって、殺意を喪失したか…』
ファタール卿は散乱した部屋を歩いて、カルム貴に近づく。そして、彼の顎を持ち上げて叱責する。
『娘の願いを叶えると、全てを壊すと、力を貸せと、先に言ったのはお前だ。孫がどうしたと言うのか。そんなもの、我が解決してやろう。ラジュネスは、偉大なる我と共鳴した稀有ゆえに必要なのだ。ラジュネスが望んだとて、苦しむとて、お前がやらねば報われぬ。
敵を完膚なきまでに叩きのめせ。空洞に我が嵌ればいい。過去に縋るならば、過去を忘れる快楽を我が与える。ラジュネスに平穏を与えられるのは我であると…享受したのはお前だ。
空白の大英雄カルム・ベル・タン!!』
叱責で、我に返るカルム貴は一度目を閉じた。愛娘であるセクアナを脳裏に浮かべる。ブルージルコンの髪は風に愛され、透き通った琥珀の瞳は太陽を凌駕する光彩を放つ。彼女が笑えば、世界が笑う。世界に愛された天女のような娘が、老体にまで朽ち果て、最後の最後に投げかけた望み。
全部壊して―。
それが、カルム貴の生きる物差し。原点に戻り、気づかされた娘の願いと世界への復讐。そして、家族の平和。
(今度こそ、もう失望させません)
決意したカルム貴の野心に満ちる眼差しに、ファタール卿は調子を取り戻す。
『ラジュネスの相手は我だ。お前の蓄積した下劣な憎しみと、卑劣な手段で全て壊せ。子を守るため、大英雄の気概を見せよ』




