4話 深淵の神人
ぽちゃん、ぽたん…
水滴が間隔をあけて落ちる音。雑音だが、それが繰り返されると、どこからか軽い苛立ちが押し寄せる。次に感じたのは鼻を突く血生臭さ。遠くの方から喧騒と悲鳴が聞こえる。微かに、喜びの声が聞こえる。目をゆっくりと開く。壁や床は石造りで、赤色に染まっている。よくよく見ると、乾いた血だ。手を動かせば、じゃらりと金属同士がぶつかる音がした。
(枷…)
顔を上げ、凝視すると、鉄格子が見えた。
(なるほど、牢獄か)
こつん、こつん、こつん
ペタン、ペタン、ペタン
足音が二つ。そして、話し声。聞き耳を立てる。
「スィエル、気分は?」
「もう大丈夫〜。いやぁ、久しぶりに感情出したよお。やっぱ、体への負荷バカみたいだよ。感覚が鈍ってる気がする」
「魔力暴走みたいなものだからな。あまり感情を出すのはいけないんだが。でも、お前が無事ならいい」
「やっぱ、ラジュネスは優しいなあ」
「お前達だけだ」
足音は牢獄の前で止まり、鉄格子を鍵で開き、中へ入ってくる。スィエルは監視のため、格子の外で待機する。
「アンフィニ様、もうすぐデスティネ様がおいでになります。お目覚めになってください」
ラジュネスが目覚めの言葉をかける。そして、アンフィニの額に流れる汗を拭う。薬の副作用か、気分が優れない。
『か…』
声が出ない。これも副作用なのだろうか。そう思っていると、ラジュネスが腰のポケットから試験管のようなものを取り出す。それをアンフィニの口に運び、嚥下させる。
『…?』
薬のようなものだが、さっぱりしていて、するすると喉を通る。
「御心配なさらず、解毒薬のようなものです。声が出しづらいのは寝起きもあるかもしれませんが、薬の効き目が大きすぎたかもしれません。優れなければ、他の薬も処方します」
『いや…必要ないよ』
「アンフィニ様」
ラジュネスが膝をつき、小声で話しかけてきた。目線が同じくらいで、表情が読み取りやすい。苦悶の表情を浮かべるラジュネスは口ごもりながら、用件を話す。
「話してくださった取引…まだ有効でしょうか?」
取引とは、アンフィニが持ちかけたものだ。アバンチュールに来るならば、全ての行動を保証するという好待遇の提案。しかし、ラジュネスは取引の回答を有耶無耶にしている。思いがけない言葉に、アンフィニは無言でいる。すると、
『どうした?』
回答を得られぬまま、艶麗な声が呼び止めた。中性的な声は、アンフィニでも、ラジュネスでもない。
「神人を診察していました。毒の効果が予想よりも濃く、副作用もあるようです」
ラジュネスは立ち上がり、艶麗な声の主に返答する。アンフィニは顔を上げて、薄ら笑いを向ける。アクアマリンの髪と瞳。纏うオーラは違うが、その容姿はアンフィニ自身と酷似している。艶麗な声の主こそがヴォク・ラテクの神人デスティネであり、アンフィニの双子の兄だ。
『お前達は下がれ』
「承知いたしました。何かございましたらご連絡ください」
ラジュネスの顔から生気が消え、機械的に業務をこなす。デスティネはラジュネスの肩を優しく叩き、額にキスを落とす。二人が牢獄からいなくなると、デスティネは力任せにアンフィニの腹を蹴る。
『ガハッ!!』
重い衝撃が体を動かす。しかし、デスティネは何度も何度も蹴り続ける。抵抗しようとも鎖が邪魔をして思うように体を動かせない。繰り返される強烈な痛みに、いつのまにか悲鳴を出すことを止めた。すると、蹴りも止まる。
『ふむ』
苦しみもがいている様を、デスティネは舐めまわすように見つめる。
『権能を出さぬとは、舐め腐っているな』
『私と話が、したかったんじゃないのか?』
咳き込むアンフィニは苦しそうにしつつも、嘲笑を送る。デスティネは腕を組み、軽蔑の視線を落とす。
『こんな拷問を国民にやっているのか?』
『国民にはやっていない。奴隷だけだ。奴隷は国のモノであって、人ではない。貴様をここに連れてくるよう命じたのは、対話のためではない』
デスティネは、アンフィニの顎を力強く掴み、引き寄せる。顔と顔が近づき、鏡合わせのようだ。
『兄弟の好だ。挽回の機会をやろう。ともに賢者を造ろうぞ』
デスティネは変わらず艶麗な微笑みと犠牲を厭わぬ冷徹さを含め、そう言った。空気が揺らぐ。
『ただの兵器を作るために、子供を犠牲にしているなら、私は断固として拒否する』
デスティネの顔が歪む。
『あの御方の復活なんて、神人でも無理なんだよ』
バチンッ!!
アンフィニは強烈な平手打ちを食らう。デスティネは心底残念がり、哀れだと思っている。遠慮なくアンフィニの髪を掴み、強引に地面に倒す。そして、壁にかかっていた剣を手に取り、アンフィニの手を突き刺す。
『…っ』
痛みに言葉が詰まる。苦しむ弟を見てなお、デスティネは不機嫌そうな顔をして、軽蔑する。
『幻滅だ。お前は、あの方に育ててもらったのに、あの方の復活を望まないのか? 落ちぶれたものだ。神人に不可能はないのだ。それを分からぬ愚者なぞ、ここで殺してくれる!』
デスティネは冷酷な意思に従い、何度も何度も剣を振りかざし、アンフィニの体を突き刺す。そのたびに零れる悲痛な声。返り血が壁や床に付着し、新たなシミとなる。激痛が走る中で、アンフィニは言葉を紡ぐ。
『ラジュネスはお前の愛し子だろ』
『それが?』
『神人にとって愛し子は命を懸けて守り、笑顔にする。一生愛す誓い。なのに、ラジュネスは笑っていない。神人の欲を全うできぬ奴が、神人を笠に着る方がどうかしている!!』
アンフィニは目尻を上げて、睨む。抵抗と反論。それは一つの嘲笑で跳ね返される。
『愛しているとも。余の宿願は、ラジュネスにとっても宿願。余の求めることを命を懸けて遂行する。それが普通だろう? くだらぬことで時間を潰すのは惜しい。ああ、まだ始まっておらぬのだ。余自ら、躾けてやる。有難く思え、愚弟』
『ちゃんとやれよ、愚兄』
デスティネは剣を振りかざす。次の瞬間には、肉を抉る音が響いていた。