39話 賢者と竜
「ひぐっ、ぇ、ぐ…」
暗闇の空間に座り込んで、俯いた顔からは酷く続く嗚咽。手で覆った瞳から、とめどなく流れる涙。ヴェリテは絶望の淵を歩いている。一人で泣き続けるヴェリテに、一人の人物が歩み寄る。
『泣くな』
その者はヴェリテに言った。だが、止まるはずもない涙は大粒となって落ちる。嗚咽を聴いた人物はしゃがんで、ヴェリテの頬を優しく包み込んだ。ふわりと香る花の匂いに、ヴェリテは顔を上げた。涙は一線を引いている。
「アヴニール…」
『泣くな。お主は笑っている方が、よく似合っておる』
「…笑える、わけない…私、無事に帰るって、約束したの…に、だめだったの…レーヴさんが苦しんでるの…アヴニールが貸してくれた魔力、取られちゃったの…ごめん、ごめんなさい…なにをしても、迷惑をかけて…」
『…』
「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんっ」
謝り続けるヴェリテの顔を持ち上げて、アヴニールは彼女の唇を奪った。突然の甘い味にヴェリテは泣き止んだ。
『奪われたのなら取り戻せばよい。お主はようやった。朕がいる場所を守るため、地獄を生き延びた。なればこそ、今回は朕が往かねばあるまい』
「アヴニール!」
『さあ、よお眠っておれ』
「!」
腕の中で眠っていたヴェリテが目を開いた。安心も束の間、彼女の容貌の変化にレーヴは言葉を失う。ターコイズブルーの髪は桃色に、桃色の瞳はターコイズブルーに移り変わる。大きな瞳が更に大きくなる。
「ヴェリテ…?」
衝撃を受けるレーヴはヴェリテが別人だと思った。少女は胸の中から立ち上がり、大きく伸びをした。元々、高身長のヴェリテだが、いつもより堂々とした立ち振舞いのために上背があって見える。
『ん~~~、はあ…何千年ぶりか。下界の空気は温いのぅ』
口調もがらりと変わり、はきはきとしている。少女は部屋を囲っている水膜を見ると、憂鬱そうな目線を送った。
『煩わしい。朕の行く先を邪魔する愚者が。
|殲滅魔法ラクスィオン・デクラ《輝かしい業績》』
水膜は破裂して、飛沫を立てた。神人が施した監獄が破られた瞬間に響く城の崩壊音。レーヴは驚きを隠せず、沈黙を貫いた。
(ヴェリテの固有魔法…こいつ本当に誰だ?)
『そこの』
疑心暗鬼になっていると少女が指名する。
『ヴェリテの居場所まで案内せい』
「…あんたは誰だ、何をしに来た」
鋭い眼光でレーヴは少女に問いかけた。少女はとぼけたような仕草をした後、包み隠さず真実を言った。
『蓬莱の賢者アヴニール。ヴェリテを守る者じゃ』
「あんたが…」
信じられないと言わんばかりに、レーヴは口元を隠した。どちらかと言えば困惑に近い。彼女はエテルネル程、子供を一番に愛してるわけではないが、子供が健やかな未来を送れるように尽くしている。一番近くで見ていたヴェリテに宿っていたとは思えない高慢で、自信に満ち溢れた高貴な賢者。
『いつでも世界の情勢は歪んでおる。その歪みを直せるのは誰じゃろうなあ』
「何をする気だ?」
『ふぅむ、何をか…決まっておろう。ヴェリテが笑える居場所を守るだけのこと。多少の犠牲を朕は気にしておらぬ』
「犠牲…?」
アヴニールは傲慢な悪意を張り付けて、一人の少女を脳裏に浮かべる。ぽつりと呟いた。
『夢から覚めねばならんぞ。人殺しの英雄―』
──────
ル・モン山脈で過熱するアバンチュールの衛士と、セゾニエとメル・オセオンの共同軍。セゾニエの空戦隊が空を飛び回り、上空から攻撃する。魔法特務隊が頭上の敵を殲滅し、軍団は陸上の兵士を相手にする。一ヶ月が経つ戦場では死骸が腐り、吐き気を催す悪臭を放っている。仲間か敵かも分からない死骸の転がる地面を駆ける。肉片を踏む感触は想像を絶する苦行。
今日も誰かが死んでしまう。
「ふぅ」
共同戦線の砦のチェス盤を見ながら、溜息をつくカルム宰相。
(アヴニールが目覚めましたか。想定内ですが、どう動くかで変わってくる。ああ、忌々しい。賢者が邪魔をする。
まあ、今更、目覚めたところで貴様にできることはない。この一ヶ月でアバンチュールの大幅な戦力を削ぐことができた。ソレイユ様も秘匿部隊殲滅の片が付くと教えてくださいました)
傍に置いていた駒が三つほど独りでに動き、盤上に降りる。それは段々と動いて、エテルネルの駒に近づいていく。
「エムロード公爵か。エテルネル卿は準備が早いですね。その思考も私には筒抜けですが…これで手間が省けますね」
カルム宰相はもう一つ盤外の不動の駒を見た。
「ラジュネスは動いていない。やはり、あなたは子供です。とても可愛らしい…故に、救ってやらねば」
カルム宰相は椅子から立ち上がる。ゆっくりと、失敗を許さないと、何千年とかかった計画に王手がかかる。
「私の娘を苦しめた挙句、栄華を極める…貴族も。契りを破り、他者に関心を向ける賢者も。崩壊の鐘を鳴らす。私も、賢者の側近を務めましょう」




