37話 鬼人の約束
空は暗く淀んで、星は輝いていない。代わりに朧月が見えている。エテルネルは大方の書類を片付け終わった。突拍子もない宣戦布告と事実関係の確認、貴族の召集、エクラの帰還直後の作戦会議。原料使用許可証の発布や陣形戦略。住民の避難誘導。レーヴとヴェリテの安否確認。アンフィニとヴォヤージュ奪還の交渉。肉弾戦を得意とし、魔物討伐などの防衛に特化する軍団を取り仕切るエテルネルからしたら地獄の作業である。
(海軍・陸軍・空軍合わせて百万の兵士。それにセゾニエのドラゴンまで出動している。空と海のスペシャリストを相手取るのは多少なりともきついな…セゾニエとメル・オセオンの共同軍の連携次第では被害を最小限に抑えられなくはないか? 医療国家と言っても治療師にも限界はある。戦場に連れていくのは多くて二十人だ。戦線離脱する兵士も多いだろう)
エテルネルは机の上に置いてある書類を見つめる。それは賢者リュイヌ卿に助けを求める書簡だ。この数日間で三つは天空に送っているのだが、返答がない。無視されているとは考えたくない。それよりもエテルネルは別の可能性を示唆している。
(カテドラル伯爵が怪しい動きを見せている。カテドラル家は代々、賢者の神域と地上を結ぶ”途”を守護する家系だ。精霊の高い魔力を兼ね備えている。膨大な魔力が集まっていてもなんら不思議ではないが、エムロード公爵が怪しいと文面上で綴っていた。ヴォク・ラテクの内部事情は公爵の方が詳しいし、鋭い勘を持っている。十分に警戒するようにしたいが、なにせ俺は明朝には城を発つしな…)
仕事ぶりに問題があるわけでもないし、あくまでも憶測にしかならない。ただ書簡を検査する仕事はカテドラル伯爵が担っている。表面上では怪しまれないようにしているが、伯爵もかなりの切れ者だ。中々うまく運ばない。最善を尽くしていても、次から次へと悪い報せを聞く。
(エクラは調べたいこと分かったみたいだが…気が散っている。仕事は完璧にしてくれるが、少し心配だな。
アルカンシエル公爵が最前線に立ってくれるのは頼もしい。隠密部隊の調査では百騎のドラゴンが確認できたらしい。天空国家セゾニエは野生のドラゴンを催眠魔法で操っている。自国の人間の航空兵器として扱い、催眠魔法を解けば意識の錯乱したドラゴンは虐殺行為を行う。敵ながら考えられた野良の兵器だ。褒められたものではないが…)
激務で精神的に疲弊しているエテルネルだが、戦争のことを考えると、自分でも想像できないほど頭が回る。普段気にならないことに敏感に反応してしまう。杞憂が多いとはわかっていても負けられない戦いゆえに、つい神経質になってしまう。
執務室の扉が開いて、トレーに茶器一式を乗せたラジュネスが入ってきた。薬膳のいい匂いがエテルネルの鼻にふんわりと漂う。彼女は手慣れた手つきで蒸らした紅茶をカップへと注ぐ。透き通る琥珀の紅茶。じんわりとした温もりを感じる。ラジュネスはカップを差し出す。
「…」
エテルネルは何も考えずに受け取った。余裕のなさが滲み出ることを本人も察していた。紅茶の優しい甘さに肩の荷が若干軽くなる。ラジュネスも隣に座る。
「書類、手伝ってもらって悪いな」
「いいよ、書類整理はよくやってたから」
膨大な書類の束に目を通すには、一週間は必要だった。しかし、ラジュネスが整理を手伝うと元々あった書類の山は綺麗に選別されて、必要なものだけを優先的に見ることができた。エムロード公爵が書類を持ってきた時も思ったが、ラジュネスは政務に関してはずば抜けた速さを誇っている。得意不得意の前提はあるが、あれだけの書類を光の速さで読解して選別できる能力は、一種の才能だと思っている。
ちょっと羨ましいと思っていると、ラジュネスが話しかけてきた。
「明日の朝には発つのよね…?」
「ああ、開戦は明日くらいだろうからな」
「…やっぱり私も行きたい」
「駄目だ」
戦場についていきたいというラジュネスの要望を却下する。
「治療師として、せめて何か守りたいの…エテルネルや皆は傷つくのに、私だけ安全地帯にいるのは、、、」
ラジュネスは不満げに言った。
「ラジュネス、戦争なんてもんに関わっちゃいけない。守りたい気持ちは嬉しいが、それでお前が苦しい思いをするのは嫌だからさ。それに子供を戦場に引き連れていくほど、大人は腐っちゃいないぜ?」
エテルネルの弁論に納得しつつも、力になりたいラジュネスは悲しい顔をする。見兼ねたエテルネルは彼女の手を取って、体を近づけさせる。
「ならよ、俺の帰りを待っててくれ…妻として」
「、でも」
「そんな心配すんな! 必ず帰ってくるから!」
「敵は強いでしょ…」
「俺はお前を助けた漢だ。そこいらの貴族なんて、俺の敵にもなれねえよ!」
エテルネルは彼女の手を握って、自身の頬に触れさせた。熱すぎる体温にラジュネスは思わず、笑う。
「ラジュネス、俺を信じてくれ」
「……うん、遅くなっても必ず帰ってきて。待ってるから」




