26話 触れる華蕾
いつも夢を見る。暗闇の中、ひとりぼっち。寂しくて、どこに進めば救われるのかと考えている。
悲しみに暮れていると、黒い靄が現れる。救済ではなく、私を狙う何か。手を振り払えばいいのに、恐怖でできない。記憶にないが、体に刻まれたその存在が怖い。
黒は怖いと思う。けれど、今目の前にいる黒は怖くない。
ラジュネスは、ナディール令嬢を前にしても恐怖を抱かなかった。
(夢で見た同じ黒でも、こうも変わるのか。記憶にも、体にも残らない黒は怖くない)
ラジュネスは扇子で口元を隠す。それは口を利きたくないという意思表示。侮辱に当たる。ラジュネスは言った。
「見識が浅い上で問うが、私の令嬢らは礼節を弁えている。ナディール嬢は如何様に思うか?」
「!」
爵位において、宰相と公爵はほとんど同列であるため、挨拶を省くことも多い。しかし、それより下位の者が頭を下げぬことは侮辱に当たる。ナディール令嬢の取り巻きは急いで、礼をする。
「私の令嬢と仰っていましたが、その者らの失言は妃殿下の失態となりましょう。トゥ・エ・ベルに焦がれる令嬢は多い。その思いを踏みにじる発言は如何なものでしょうか?」
「令嬢を選ぶのは、フェルメオーナーの意思だ。レッドエメラルドを輝かす原石は誰であるかを考えたのだろう。外見だけではない。内面からの所作。着飾るだけでは判断しないと、フェルメオーナーは言っていた」
「つまり、私では分不相応だと…?」
「それは私の意志ではない。ただ、清い宝石には慎ましやかな令嬢が似合うと言っていたな」
怒りで震える手を鎮め、ナディール令嬢は戦い続行の判断を下す。
「妃殿下はヴォク・ラテクの英雄でございます。戦場を駆ける姿は雄々しく、見た者は震えあがるとか。以前、ご一緒した魔獣狩りでの剣の捌き…とても見事でしたわ。でも、それが同じく人類にも向けられていると考えると、悍ましい。
受難を受け入れられずにいた戦士らを差し置いて、このような晴れやかな舞台に足を置く。なんと不名誉なことをなさる。
それは英雄とかけ離れた鬼人とでも言いましょうか?」
彼女の言いたいことは、こうだ。
―人殺しが出しゃばるんじゃないわよ。大人しく死んでなさい。
この二言に収まる内容を長ったらしく言っているのだ。ナディール令嬢は、ラジュネスに近づいて、耳元で囁く。
「卿の甘さに溺れた卑しい人間。ここに踏み入った代償を教えてあげる」
毒素を吐くナディール令嬢は止まらない。
「愛し子とは神への誓い。それを裏切り、新たな漢を惑わす。なんと色欲に溢れた御方。淫らで、純真に欠ける。裏切りは信用を失いましてよ」
令嬢の悪意を押し出した言葉を聞いて、ラジュネスは肩を震わせて笑う。笑いの止まらぬ彼女を見て、ナディール令嬢は不快に思う。
「不敬ですわ」
「あら、ごめんなさい。おかしくって…ナディール嬢は愛というものを何度も経験しているはず。だというのに、純粋さを重んじすぎているわ。
あなたは妾の子ではないのですか?」
「は?」
「もしナディール嬢の言う通り、一途な愛を重んじるのでしたら、側室や妾というものはないでしょう。もし一途なだけならば、愛は神聖化されない。醜悪な愛があるからこそ、裏切りの愛があるからこそ強調される。私の在り方を否定すれば、ナディール嬢も否定することになる。
共に、土に塗れまようか?」
「…っ」
「代償など知っている。英雄になることにも、血を流す代償がいる。私は国力を守る。ナディール嬢は国の矜持を守る。私は英雄と称され、嬢は剣姫と称される。境を踏み出す代償を理解できんか?」
―温室育ちの世間知らずが、戦場を舐めんじゃないわよ。
雄弁に語るラジュネスの言葉には、そんな意図が込められている。卑しい身分だと罵ったナディール令嬢の出生を利用した返しに、ナディール令嬢は怒りを露わにする。彼女を見て、ラジュネスは勝ちを確信した。
「もう一つ訂正を。鬼人という比喩は適切だと思う。私の夫は鬼だから」
「!」
ざわりと会場にその言葉が響いた。ラジュネスは人間で、エテルネルは鬼。鬼人は両者の関係を示す言葉だと、ラジュネスは大衆の前で演説した。煽りを美談にした臨機応変な対応に、貴族らの印象は変わっていく。そして、ラジュネスとエテルネルの関係は明日にでも世界中に広まる。
「エテさん泣いてる…」
「しっかり、して」
「殴ってくれ」
「いいぜ」
「それはオレの役目だ」
「投薬でもなさいますか」
スィエルとヴェリテが驚く中で、エテルネルはラジュネスの甘えぶりに感動する。他の三人は幸せそうに号泣する彼を殴ろうと団結しているようだ。
呑気に戯れる大衆の一部が視界に入らないほどに、怒りが最高に達したナディール令嬢は、手を上げる。お得意の模擬戦を行おうとしているのだろうか。彼女の手が当たりそうになった直後に、広間で大きな物音が立つ。天井に吊るしてあったシャンデリアが落下したのだ。予想外の出来事に、会場は混乱に陥る。人類よりも被害が出たのは、楽団が連れてきた虎である。大きな音に驚いて、会場を駆けまわる。見境なく向けられる凶暴な牙を露呈させながら、さらに混乱を招く。牙は蕾を狙う。
この饗宴で最も輝いている者を目印にしている。ラジュネスは咄嗟に、ナディール令嬢の手を引いて、後ろへと下がらせた。取り巻きに彼女を預け、一介とは無関係であることを一瞬で見せた。虎が目前に迫る。防御魔法を展開しようと思ったが、ここで下手に魔法を使うと、敵対行為とみなされない。
だからこそ、ラジュネスは何もしない。代わりにに動いてくれる者がいるから。
がしっと力強く、虎の腕を掴んで拘束するエテルネル。獰猛な獣を恐れることなく、果敢に止めた。呻いていた虎もエテルネルの怪力に敵わないと判断したのか、威勢を無くす。どちらかというと、エテルネルの放つ殺気に当てられて、理性を取り戻したみたいだ。楽団のダンサーが謝罪を口にして、近づいてくる。楽団に落ち度はない。会場の設備に問題を起こしてしまった賢者に落ち度がある。しかしながら、賢者にそれを指摘できるものがいない。
それを理解したエテルネルは、ラジュネスの手を取る。
「俺が妻を想う気持ちが強いばかりに、煌きを堕としてしまったようだ」
『!?』
会場が静寂に包まれる。エテルネルは自身に非があることを前提に、場を収める。その言葉を聞いて、賢者リュイヌ卿が立ち上がる。手をかざすと、落下したシャンデリアの残骸が宙に浮いて、その形を取り戻していく。
『煌きは鬼と人の祝福を祝ってのことだろう…しかし、行き過ぎた真似をしたことに変わりない…ここに謝罪を』
あくまでも煌きと愛が作用したハプニングで収拾し、立場を尊重した終わりを見せる。そして、何事もなかったように貴族はまた宴へと戻る。
事態を静観していた神人アンフィニは、エテルネルの対応に安堵する。
(…なぜ、シャンデリアが)
(これは調査した方がよさそうだな)
(了解)
ヴォヤージュが戸惑いを見せる。エクラが提案し、スィエルを連れて大広間の隅に移動する。ヴォヤージュにヴェリテを預けたレーヴは大広間を出る。迅速な対応を見た一部の貴族が目を光らせる。
「ラジュネス、大丈夫か?」
慌てふためきながら、何度もラジュネスの手を握るエテルネル。ラジュネスは微笑んで、大丈夫だと言った。事態は悪化していない。だが、一連を調べるために動いている者はいる。その黒幕を探している。
「失礼」
二人の背後に、フィルママン公爵が立っていた。その後ろには娘のナディール令嬢が控えている。彼女は顔色を悪くしている。
「妃殿下、娘を庇ってくださったこと感謝いたします」
「…令嬢は大丈夫か?」
「少し驚いたようで…休ませようかと」
「それがいい」
フィルママン公爵の発言に賛同する。公爵は令嬢を連れて、大広間を後にする。その姿を見続けたラジュネスは、エテルネルに言う。
「私も休んできていい?」
「俺も行く」
間髪入れずに返すエテルネルに苦笑する。ラジュネスは軽く指差す。その先にはヴォク・ラテクのカテドラル伯爵がいる。
「まだ仕事終わってないでしょう。待ってるから」
ぐぬぬと反論できないエテルネルは観念したように頷く。
「部屋から出ないように」
「分かったわ」
念を押すエテルネルの手を握り、席を外す。彼女のこととなると心配症になってしまうエテルネルは動揺を隠して、カテドラル伯爵に接触した。
「スィエル、どうだ?」
「何にも反応ないねぇ」
カーテンで仕切られた大広間の個室で、スィエルとエクラが動いていた。先程のシャンデリア落下事件を表面から探っている。
(魔法を使えば空間が歪む。空間に魔力の残穢もあるはず。スィエルが反応できないなら、これは魔法じゃないってことか?
となると、権能だけか?
いや、神人と賢者がこんな重要な場所で故意に問題を起こすわけがねえ。魔力を感じさせない手練れか…首謀者が分からねえ)
エクラが頭をひねっていると、カーテンが開いた。
「あら、先客がいたようね」
(セゾニエのウラガン・シャルール・ヴァン侯爵。きれぇ)
社交界の華ヴァン侯爵が二人のいる個室に入ってきた。彼女が冠っている王冠はきらきらと光を屈折している。破壊力のある美貌に目が霞む。侯爵は礼をする。
「まだお話ししていませんでしたよね? どうでしょう。少し話しませんか?」
にこりと妖艶な笑みを向けるヴァン侯爵の誘い。絶対的影響を持つ華を断るわけにはいかない。
レーヴが単独で動く中、彼女の後継者であるヴェリテは貴族との話に花を咲かせていた。緊張こそすれど、隣にヴォヤージュがいるため、失敗はない。
貴族らと離れて、情報を整理しているとブラウンのつぶらな瞳と目が合う。その瞳を持つ者が近づいてくる。
「ごきげんよう、ヴォヤージュ卿」
「ごきげんよう、ペナンシェル嬢。今宵は令嬢の可憐さが際立ちますね」
「まあっ!」
愛くるしい所作に目が留まる。ナディール令嬢は蛇で、ペナンシェル令嬢は栗鼠だ。守らなくてはいけないという庇護欲を煽っている。鬼の持つ一途な庇護欲とは違う。だが、感情を操るのがうまいと感じる。
ペナンシェル令嬢はヴェリテの手を握る。
「わたくし、妃殿下には畏れ多くも近づけず。けれど、ヴェリテ様は穏やかであられます。ぜひ、お話しませんか?」




