7)みんなが小学生になる日
黙々と足を進める。
頭の中では、あのダンスの振り付けが繰り返される。
「朝の光を胸に抱いて♪」
「進め前へ明日のために!」
あの曲。あの動き。
サヤカが前で踊る姿。
ユウマが横で教えてくれた足の運び方。
みんなは知らない。
このダンスが、ただのダンスじゃないこと。
この制服が、ただの衣装じゃないこと。
朝の光が手のひらに落ちる。
僕はその光を見つめながら、静かに歩き出した。
文化祭の舞台へ。
そして、もしかしたら——
あの世界へ。
教室の扉を開けると、まだ数人しか来ていなかった。
そのほとんどが、いつも通りの制服姿。
僕は自分の席についた。
小学校の制服を着て、名札をつけて、
黙って窓の外を見ていた。
しばらくすると——
ひとり、またひとりと、
小学校の制服に着替えたクラスメイトたちが入ってきた。
「おー、俺のもちょうどピッタリだったわ」
「吊りスカートって意外とキツイなw」
「名札の位置って右だっけ?左だっけ?」
自然な会話。笑い声。
違和感が、少しずつなじんでいく。
最初はちらほらだったあの服装が、
5人、10人と増えていき——
ホームルームが始まる頃には、
教室中があの頃の姿になっていた。
シャツの白。短パンの緑。
吊りスカートの緑色。名札の刺繍。
あの世界とまったく同じ景色が、
いま、ここで当たり前のように再現されている。
担任が入ってくる。
見回して、小さく笑って言った。
「あら、みんな、ちゃんと揃ってるね。
……じゃあ、今日も元気よくいこうか」
その口調に、どこか聞き覚えのあるあの先生の声が重なった気がした。
僕は、机の下で手を握りしめた。
(……もう、戻れないかもしれない)
文化祭が始まった。
廊下にはポスターが貼られ、教室には飾り付け。
ポップコーンの香り、焼きそばの湯気、
スマホで記念写真を撮る音——騒がしくて、楽しくて、にぎやかだった。
僕たちのクラスは
全員小学校の制服を着て楽しんだ。
吊りスカートにおさげ髪。
短パンに上履き。名札はカタカナ。
小学生が昭和を再現している、という奇妙すぎる光景。
みんなも楽しそうだった。
誰も「変だ」とは言わなかった。
全員がなりきってる……じゃない、
もう、そこに戻ってるようにしか見えなかった。
僕も笑った。
でも——
心のどこかで、ずっと問いが響いていた。
(……俺たち、今、
高校生の文化祭をしてるんだよな?)
そして、出し物のため午後は体育館である。
クラスメイト全員も僕も教室で小学生の体操服に着替えだす。
白いシャツ。
白の短パン。
名札。
僕も、その流れに逆らわず、
無言でシャツを着て、短パンを履いた。
みんなサイズは完璧だった。
もう驚くこともない。
着替え終わった教室は、あの日とまったく同じ空気だった。
体育館で出し物が順番に披露されていく。
「次の出し物、3年B組の発表です。体育館に移動してください」
放送が流れた瞬間、
教室にいた全員が、一斉に立ち上がった。
「よっしゃ、ついに本番〜!」
「緊張してきた〜!」
「ちゃんと踊れっかな?w」
皆、笑っていた。
リラックスした空気だった。
何年も前に通っていたはずの小学校の、
春の運動会のリハーサル前——
そう言われても、何の違和感もないような風景。
クラス全員が並んで、舞台へと歩いていく。
まるで、小学生たちが今から本物の朝の光を踊りに行く空気。
(……始まるんだ)
僕の心臓は、ゆっくりと早鐘を打ち始めていた。
体育館の幕が上がる。
観客席には保護者、他の生徒、先生たちの姿。
熱気と期待に満ちた空気のなかで、
僕たちは整列していた。
小学生の体操服を着て、名札をつけて、
ぴたりと揃った姿で。
音楽が流れ出す。
「朝の光を胸に抱いて〜♪」
全員が、完璧に動き始めた。
ステップのタイミングも、
腕の角度も、
回転の瞬間も、
あの日、あの運動場で覚えたとおりに。
僕は、一歩も間違えなかった。
誰も、間違えなかった。
観客が、笑顔だった。
拍手が鳴り響いていた。
歓声が上がっていた。
僕は、踊りながら、心のどこかで思っていた。
(——あのとき、俺ひとりだけが踊れなかった。
でも今、俺は……)
完璧に踊れていた。
そして、全員が踊れていた。
「進め前へ明日のために〜!」
音楽が終わり、ポーズが決まり、
一瞬の静寂のあと、
体育館は大きな拍手に包まれた。
担任が笑いながら拍手する。
先生たちも、他の生徒たちも、皆、拍手していた。
文化祭が終わった。
拍手と笑い声が残る廊下。
片づけを始めるクラスメイトたちの背中。
「おつかれー!」「最高だったね!」
「マジで成功だったな」「もう制服脱ぐの名残惜しい〜!」
皆が、笑いながら
高校の制服に戻っていく。
教室の隅で、僕も着替えを始めた。
でも——
僕が着たのは、小学校の制服だった。
白いシャツ。
深緑の短パン。
名札。「イチノセハル」
カタカナで。
その服を着ることが、いちばん自然だった。
誰もそれを不思議に思わなかった。
誰もツッコまなかった。
まるで——最初から、そうであるべきだったかのように。
窓の外は、夕焼けだった。
翌週。
文化祭の熱気も落ち着いた日。
僕は、
何も考えずに、いつものように
小学校の制服を着て登校していた。
誰にも止められなかった。
通学路で会ったクラスメイトも、苦笑しながら言った。
「……まだそれ着てんの?
でも、なんかお前には似合ってるよな。
てかアリじゃない?」
笑いながらそう言って、
彼は高校の制服で歩いていった。
教室に入っても、誰も何も言わなかった。
先生さえも、出席を取りながらちらっと僕を見て——
「うん、いちのせくんは……そうだね、
その服も似合ってるから、そのままでいいよ」
それだけだった。
机の並び。
チャイムの音。
全部がいつも通りなのに、
僕だけが、制服の中であの場所の空気をまとっていた。
誰も変だと思わない。
僕も、もう脱がない。
たぶん、もう——
「高校生に戻る」という感覚自体を、どこかに置いてきてしまったんだ。
外では風が吹いていた。
窓の外、校庭に出る準備をしているクラスの姿が見えた。
学校から帰ると、
いつものように、家には夕飯の匂いが漂っていた。
「おかえり」
母は振り返りもせずに言った。
僕は、ランドセルのようなバッグを置いて、
部屋に戻る。
ふと、部屋の隅に目をやると——
替えの小学校の制服が、綺麗に洗濯されて、畳まれて置かれていた。
体操服も、白くて柔らかくなっていた。
名札の糸は、補強されていた。
「イチノセハル」——カタカナで。
洗剤の匂いが、
優しさと現実の境界を曖昧にしていく。
母が部屋のドアから顔を出した。
「今日使った体操服と制服洗濯かごに入れときなさい。」
それだけ言って、微笑んだ。
「……うん、ありがとう」