5)制服はどこへ消えた?小学校の呪い?
「ごちそうさまでした!」
みんなが手を合わせて、声を揃える。
食器を片付け終えると、
ふと、前の席のサヤカがこちらを見た。
「ねえ、朝の光、もうちょっとだよ。あと少しで覚えられるから」
その声に、他の生徒たちも頷いた。
誰も責めていない。誰も怒っていない。
それどころか、みんな、本当に応援してくれている顔だった。
「午後の授業まで少しあるから、今のうちに練習しよ」
「寝転がるところのタイミングだけだね」
(……やめてくれ……それが一番キツい……)
でも、僕はうなずいていた。
再び体操服に着替えた。
もはや、その作業にも慣れてしまっていた。
短すぎるズボン。ピタリと合うシャツ。
まるで最初からこれを着るための身体になっていたかのように。
そして、校庭に出る。
また、音楽が流れた。
「朝の光を胸に抱いて♪」
今度は、サヤカが僕の前に立ち、
動きをゆっくりなぞってくれる。
ユウマが、後ろから腕の角度を整えてくれる。
皆が、当たり前のように、僕に寄り添ってくれる。
それが、もう怖かった。
「ここでは、覚えること以外に、選択肢がないんだ」
そんな事実が、汗と一緒に身体からにじみ出ていく。
昼休みも、もうすぐ終わる。
汗だくの体操服。
ひたすらに繰り返してきた、あの振り付け。
もう何十回目かなんて、わからなかった。
だけど、音楽が流れた瞬間——
身体が、自然に動いた。
迷いも、ずれも、なかった。
「朝の光を胸に抱いて♪」
「進め前へ明日のために!」
手の角度。ステップの速さ。
寝転がるタイミング、立ち上がりの呼吸。
全てが、合っていた。
(——踊れてる……!)
心の中で、思わず叫んだ。
その瞬間。
目の前が、フッと、暗くなった。
そして、気づけば——
僕は教室に座っていた。
元の席。
黒板の前。
窓から差し込む光は、傾きかけていた。
「あの運動場が現実だったのか」
「今が現実なのか」
その境界線すら、もうわからなかった。
だけど、一つだけはっきりしている。
僕は、踊れた。
静かだった。
気づけば、教室には僕ひとりしかいなかった。
いつの間に、誰が、どこへ行ったのか——全く分からない。
椅子の並びは整ったまま。
黒板には「算数」とだけ書かれたまま。
壁の時計は、午後4時を指していた。
でも音がなかった。
チャイムも、声も、風も、何も。
僕は立ち上がる。
足音だけが、異様に大きく響いた。
服装は、小学校の制服。
体操服は、さっきのまま、後ろのロッカーに畳まれていた。
(……帰ろう)
そう思った。
思ってしまった。
でも、その瞬間——冷たい感覚が背筋を走った。
来たときの服は、ない。
スマホも、ない。
バッグも、ない。
身ひとつで、ここにいたという記録すら、今の僕には存在しない。
(どうやって来た?どうやって帰る?)
窓の外を見ると、校庭が見える。
でもそこにはもう誰もいなかった。
朝だったはずの空は、今や妙に沈んだオレンジ色に染まりはじめている。
それでも、僕は歩き出した。
小学生の制服のまま、廊下を抜け、階段を降り、昇降口へ向かう。
靴箱は整っていた。
僕の名前の札がついた、あの頃の靴箱。
開けると——そこには白い外履きが一足、きれいに揃っていた。
(……これ、俺のだ)
外履きに履き替え、昇降口を出た。
扉がゆっくりと閉まる音が、妙に重く響いた。
空気が変わった。
風の匂いが、外の世界のそれだった。
道路のアスファルト。車の音。自転車のブレーキ音。
日常が、そこに広がっていた。
でも——
僕は、小学校の制服を着ていた。
深緑の半ズボン。白いシャツ。名札には「イチノセハル」。
子ども用のデザインのまま、サイズだけが僕に合っている。
それが、逆に異様だった。
歩道を歩く。
前から来た中学生くらいの女の子が、目を伏せてすれ違った。
公園でキャッチボールをしていた小学生たちが、ピタッと動きを止めて僕を見る。
(……やっぱ、変だよな……)
コンビニの前を通ると、店の中にいたサラリーマンがガラス越しにこちらを見た。
その視線は——冷たいというより、「関わりたくない」という拒絶の目だった。
車の運転手が、信号待ちの間、僕の姿を見て、眉をひそめた。
(俺、完全にやばいやつに見えてる……)
誰も声はかけてこない。
でも、確実に見られている。
高校生が、小学生の制服を着て一人で歩いている異様さ。
汗がにじむ。
手のひらにじっとりと冷たい感触。
制服を脱ぎたくても、着替える服はなかった。
家まで、あと15分。
でも、その距離が、永遠のように遠く感じた。
玄関の鍵を開ける音が、いつもより少しだけ重く感じられた。
靴を脱いでリビングに入ると、
母がキッチンから顔を出した。
「あら、おかえり。……え?」
一瞬、目を丸くして、僕を見た。
でもその表情は、驚きと、どこか冗談を言いたくなる余裕が混ざったようなものだった。
「その制服、どうしたの?
まさか、小学生に戻ったの?」
僕は、言葉に詰まった。
何か答えなきゃいけないと思った。
でも何を話せばいいのか、わからなかった。
「……ちょっと……学校で、いろいろあって」
母は、僕の顔をじっと見た。
その目は、少し困惑しているようにも、ほんのり面白がっているようにも見えた。
「まぁ、似合ってるけどね。なんだか、あの頃に戻ったみたい。
今日の晩ごはん、カレーよ。お風呂沸いてるから先に入る?」
(……何も聞かないのか……?
こんな格好して、スマホも持ってなくて、
高校のかばんもなくて、
それでも……普通で済むのか?)
部屋に戻る。
制服を脱ごうとして、ふと、手が止まった。
シャツのタグには、あの頃と同じように、マジックで書かれた自分の名前があった。
「イチノセハル」——カタカナで。
(……俺、本当に、戻ったのか……?)
晩ごはんは、カレーだった。
テレビからはニュースの音。
父は風呂上がりにビールを飲みながらスポーツ番組を見て、
母は食器を洗いながら鼻歌を歌っていた。
何もおかしくない。
本当に、普段通りだった。
僕はいつものパジャマに着替え、リビングでストレッチをし、
自分の部屋に戻った。
ベッドの横のフックには、高校のジャージがかかっていた。
机には、課題プリントとシャープペンシル。
カレンダーの日付も、今日と合っている。
(……さっきまで、あんな場所にいたのに)
視線を移すと、
部屋の片隅、床に畳まれて置かれているそれがあった。
あの小学校の制服。
白いシャツ。深緑の半ズボン。
名札。「イチノセハル」
カタカナで、丁寧に書かれている。
母が畳んでくれたのか!?
(どうして……持ち帰ってきた?
というか、どうして持ち帰れたんだ?)
あの運動場の砂の感触、土の匂い、振り付けのリズムがよみがえってくる。
「朝の光を~胸に抱いて~……」
脳裏に、また音楽が流れ出す。
思わず頭を振った。
ベッドに潜り込む。
目を閉じる。
でも、眠気より先に、制服の存在が気になって仕方がなかった。
朝、目が覚めると、
窓の外にはいつもの通学風景が広がっていた。
制服姿の中学生、自転車を押す高校生、
登校班の小学生たち。
(……今日は高校に行く。
もう、普通の生活に戻るんだ)
そう自分に言い聞かせて、クローゼットを開けた。
……制服がなかった。
いつもかけてあるはずの、ブレザーとネクタイが消えていた。
代わりに、昨日見たままの、
小学校の制服がベッドの横にきちんと畳まれて置いてある。
そして、その横に——
高校のジャージが、無言の救済のように転がっていた。
(……さすがに、この格好で高校はないだろ。
ジャージでいい……今日は、それでいい)
シャツを着て、ジャージのズボンに足を通す。
靴下を履きながら、
視界の隅で、あの小学生の制服が静かにたたずんでいた。
(おまえ、まさか……これを着て高校に行けって言ってたんじゃないだろうな)
玄関に向かうと、母が声をかけた。
「あら、制服どうしたの?今日はジャージ?」
(……あれ、やっぱりあったはずだったんだ)
「ちょっと……見当たらなくて」
「ふぅん、そう……気をつけてね」
それ以上、何も言われなかった。
いつもと同じ、見送りの声。
でも、背中には——
「制服がなかったことを誰も不思議に思っていない」という
ねじれた現実が重くのしかかっていた。
高校の昇降口を抜けて、教室へ向かう。
すれ違う生徒たちは、当然ながら全員、高校の制服姿。
その中で僕は——
ジャージ。
空気はまだ冷たい4月の朝。
でも、視線は妙に熱かった。
教室のドアを開けると、数人の友達がこっちを見た。
「……おまえ、今日どうしたの?寝坊?」
「体育だけの日?」
「ってか、マジで制服どうしたんだよw」
声には笑いが混じっていた。
誰も悪意はない。
でも、その普通のツッコミが一番刺さる。
(……いや、俺だって制服で来たかったよ)
「ちょっと……見つからなくて。どっか行った」
「どっか行ったって……服が?消えたの?www」
皆が笑った。
でも僕は、笑えなかった。
その笑いの音の向こう側に、
昨日の静かな教室と運動場のリズムが、じっとりと貼りついていた。
先生が教室に入ってきて、一瞬だけ僕を見た。
「……制服、どうした?」
「……洗濯中です」
そう答えると、先生は小さくため息をついて、
「次からはちゃんと着てこいよ」と言って、出席簿を開いた。
(……俺だけが、まだ昨日から帰ってこれてない)