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4)記憶のない宿題、理解できない授業


僕は、彼女の顔を見た。

彼女は前を向いたまま、動きを崩さずに踊り続けていた。


目の奥には何もなかった。

ただ、完璧に刻まれた振り付けの記憶だけが、彼女の身体を動かしていた。


(……戻れない?どこに?俺たち……どこにいるんだ?)


心臓が跳ねた。

戻れないという言葉に込められた、恐ろしい含み。


もし踊れなければ——

このままずっと、ここに?


この永遠の小学校に?

踊れないまま、朝が、昼が、夜が、繰り返されて?


音楽は、止まらなかった。


もう、何回目の朝の光かわからなかった。


何度目かの「朝の光」が終わると、

列の中から数人が、ふらりと僕の周りに寄ってきた。


表情は変わらない。

でもその目には、教えてあげるという意思がはっきりと宿っていた。


ユウマが、僕の右に立ち、

「ここは、こう。腕、こう振って」と淡々と動きを見せる。


サヤカが、僕の左手をそっと取って、

「ここで回す。1、2、3で、こう」と口調だけは優しく言う。


他の生徒も、声をかけるわけではないが、

それぞれの場所から見えるように、完璧なフォームを繰り返して見せてくれていた。


集団で教えることに、まったく違和感を抱いていない。


むしろ、それがこの世界のルールであるかのように、自然だった。


僕は覚えられなかった。


腕を同じように振っても、角度が違う。

足を上げても、リズムがずれる。

ステップを踏もうとしても、順番が飛ぶ。


何度やっても、何回真似しても、脳が拒絶しているような感覚。


「……うまくできないんだ、俺……」


声が震える。

でも、ユウマもサヤカも、微笑みもしなかった。


「大丈夫。何度でもやるから」


その言葉に、優しさはあったかもしれない。

でも同時に、終わらないことの宣告でもあった。


また、音楽が流れ始めた。


「青春の扉〜開く未来〜♪」


今度は、全員が僕の方を見ながら踊り出した。


僕は、とうとう腕を動かした。


振り付けをなぞる。

見よう見まねだったはずなのに、なぜか手足が滑らかに動いていく。


脳がじゃなく、身体が覚えていた。


「ハルくん、そうそう、その調子!」隣のユウマが小声で言った。僕はその声に励まされるように、さらに動きを合わせていく。


周囲に合わせて、タイミングを取り、ステップを踏む。

あのリズム。

この角度。

「こうだった、こうだったんだ……!」


そして、例の振り付け——

運動場に寝転がる部分がやってきた。


全員が一斉に、地面に倒れるように寝そべる。

僕も、流れのままに身を沈めた。


土の匂いが鼻を刺した。

懐かしいようで、嫌なようで、でも確かに、小学校のグラウンドそのもの。


手のひらに当たる、ザラザラとした砂の粒。

二の腕をかすめる、小石の角。

シャツの下に入り込む、地面の温度と乾いた感触。


「……いてっ」


思わず声が出る。

肘をすりむいた。ほんの少し、血の気配。


夢じゃない。これは現実だ。


全員が一呼吸だけ地面に沈んで——

また、同時に立ち上がる。

僕も、その動きに追いついた。


息が切れた。


音楽が終わる。

最後のポーズで全員が静止する。


風が吹いた。

汗が冷える。

土の匂いが、胸の奥に残っていた。


そして、先生が拍手をした。

一度だけ、乾いた音で。


キーンコーンカーンコーン。


チャイムが鳴った。

まるで、踊れたことに対して何のご褒美もなく。

ただ、時間が来たというだけの音。


先生が言った。


「体育はこれで終わりです。次の授業まで、10分間の休憩です。制服に着替えてください」


誰も疲れた顔をしない。

誰も水を飲まない。

全員が、無言で整列を解き、

運動場から、当然のように教室へ向かって歩き出した。


僕も、流れに乗って歩く。

足の裏にまだ土の感触が残っている。

肘にできたすり傷は、じんわりとヒリヒリしていた。


あの夜中に届いたユウマからのメッセージ。不思議な集会の招集。黒板に書かれた「出席者」のリスト。そして小学生に戻った自分の体。すべてが繋がっているはずなのに、まだ何も理解できない。


教室に戻り、自分のロッカーを開ける。

朝しまったはずの制服が、またきちんと折りたたまれていた。


血の跡も、汗のにおいもない。

まるで、何事もなかったように、最初からそこに用意されていたかのように。


僕は、体操服を脱ぎ、制服に袖を通す。


もう、この制服にも違和感はなかった。

ネクタイの締め方も、襟の合わせ方も、すべて当たり前のようにできてしまう。


窓の外では、空がまだ朝のまま。

でも時計は、確かに時間を刻み続けていた。


あと5分で、次の授業が始まる。


(……次は、なんの授業だ?)


チャイムが鳴った。


あの乾いた、金属のような音。

始まりでも終わりでも、感情を持たない、ただの「時間の機械音」。


「宿題、してきましたね」


先生は教壇に立ったまま、淡々と言った。

声に怒りはない。確認でもない。


それは、当然そうである前提の断定だった。


僕の心臓がドクンと跳ねる。


(……え?え、何?何の宿題?)


一切、記憶にない。

昨日、誰かに聞いたわけでもない。

なにより、この学校がいつ始まったかすら、曖昧なのに。


でも——

周囲の生徒たちは、無言でカバンからノートやプリントを取り出していた。


前の席のサヤカが、ページを開いて見せる。

そこには、びっしりときれいな字で、文章が書かれていた。


横のユウマは、図が描かれたプリントを無言で机に出している。


(……うそだろ……全員……やってきてるのか?)


僕の手元には、何もない。


かばんの中を探しても、プリントはない。

ノートも白紙。書いた記憶もない。


先生が、少しだけ顔を動かした。

でも、それは僕を見たわけではなかった。

あくまで確認済みという雰囲気の視線の流し方だった。


「では、提出してください」


全員が一斉に立ち上がり、整然と列を作って、前へ歩き始めた。


僕は、座ったまま動けなかった。


宿題をしてこなかったというより、存在すら知らなかったという異常。


そして、それを誰も責めていない。

でも、誰も助けてもこない。


この空気の中で、できていないのは僕だけという事実が、

静かに、でも確実に僕を囲んでいた。


僕は、ゆっくりと手を挙げた。


声が震えていないように、必死に整えて。


「……す、すみません。

宿題、あの……忘れました」


教室の空気が、一瞬止まった気がした。

でも、ざわめきも、驚きの声もない。


先生は、穏やかな目で僕を見た。


「……明日、持ってきてくださいね」


その言葉は、あまりにも優しかった。

本当に、怒りの欠片もない。

まるで、約束を一つ追加されたような感覚だけが、残った。


僕は小さく頷いた。

それ以上、何も言えなかった。


でも——


(……何の宿題だ?)


誰も教えてくれない。

前の席の子も、隣の子も、プリントをもうしまっていた。


「どんな内容だったの?」

そう聞く勇気は出なかった。


「宿題の内容がわからないまま、明日持ってこい」と言われた。


ただそれだけが、事実として残っていた。


そして、授業は再開した。

先生が黒板に書いた文字も、図も、

見えてはいるのに、意味を結ばない。


書き写そうとしても、手が止まる。

言葉が、音のまま流れていくだけだった。


先生が書いた数式を見た瞬間——

その小さな希望は粉々に砕けた。


∫(x^2+3x-1)dx=?

⊿n=lim(f(x+n)-f(x))/n

∀x∈N,∃y∈Z,P(x,y)=true


(……なにこれ……こんなの、算数じゃない……!)


微分?極限?

記号すら、初めて見るものが混ざっている。


周囲を見ると、

クラスメイトたちは迷いなくノートに書き写し、

スラスラと計算を進めていた。


ナカジマのサエは、前から三番目の席で美しい筆跡で解答を書いている。イシカワのタクヤは、窓際の席で黒板を見つめながら計算をしている。みんな、小学校の卒業式以来会っていなかったはずなのに、なぜここにいるのか。


先生は、それを当たり前のこととして進めていく。


「この関数を座標に変換すると、どうなりますか?」

「右辺が時間軸になるとき、このグラフの面積を出しなさい」


それ、本当に小学生がやる内容か?


でも、誰も疑っていない。

誰も困っていない。

僕だけが、取り残されている。


手を挙げて「わかりません」と言う勇気もなかった。

それが、この教室では許されていないことのように思えた。


ただ、ノートに文字のマネを書いていく。

意味のない数字、記号、線。

理解も納得もない。

でも、手は動かす。動かすしかない。


黒板の文字は、最後まで理解できなかった。


筆算も、計算も、グラフも、

僕の中ではただの「図形と記号の羅列」でしかなかった。


時計の針だけが、確実に45分を刻んでいく。

その間、何も身についていないことが、自分でわかった。


でも——


それでも授業は進んだ。

そして、終わった。


「これで算数の授業を終わります」


先生はそう言って、静かに教室を出ていった。


また、何もわからないままの時間が終わった。



チャイムが鳴った。



給食の時間——誰もが顔を輝かせる瞬間だった。


「じゃあ、配膳係、お願いします」


先生のその声で、数人の生徒たちが立ち上がり、

廊下を挟んだ向こうにある給食室へと歩いていった。


僕も、つられるように立ち上がる。


給食室の扉を開けると、そこには記憶と寸分違わぬあの銀のバットとコンテナが並んでいた。


白米、味噌汁、焼き魚、牛乳、デザートにみかんゼリー。


懐かしいと同時に、あまりに忠実すぎるという違和感が胸を刺した。


みんなでバットを持って教室に戻り、手際よく配膳が始まる。

誰も取りすぎない。こぼさない。

分量は完璧に平等。


「いっただきまーす!」


全員の声がそろう。笑顔。談笑。

さっきまでの恐ろしいような授業が嘘のように、

そこにはごく普通の、楽しい給食の風景が広がっていた。


僕も、食べた。

ご飯はあたたかく、魚はちょっと焦げていて、それが逆に懐かしかった。

牛乳の紙パックを開ける手の感覚。

ゼリーをスプーンで削る音。


(……楽しいな。いや、違う……

楽しいはずだ。

でも俺だけ、どこか冷めてる。

何かがおかしいって、ずっと思ってる)


でも、誰の顔にも影はなかった。

本当に、この時間を心から楽しんでいるように見えた。


それが一番、こわかった。



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