3)「戻れないんだよ」
教室のドアを開けた瞬間、
そこはもう試験の空気に変わっていた。
机はすべて一列ずつ整然と並び直され、間隔がわずかに広がっている。
机の上には、鉛筆と消しゴム、そして名前が書かれた白い答案用紙が置かれていた。
「しずかにすわってください」
前のほうで、先生(あの長身の校長とは別人の、小学校にいた担任の顔)が静かに言った。
ユウマもサヤカも、当然のように席に着いていた。
視線は前を向いたまま。目を閉じている者すらいた。
僕も、おそるおそる1ページ目をめくる。
「えっ……」
1問目:
A地点からB地点へ向かうには、兄が分速60mで歩き、弟が兄より10分遅れて分速90mで追いかけた。弟が兄に追いつくのは何分後か?
(え、ちょ、これ……中学受験の問題じゃん……?)
2問目:
立方体の各面に1〜6の数字が書かれており、向かい合う面の和はすべて7。A〜Fの面のうち、Aの向かいはどれか?
(サイコロの構造問題!?図もなしで!?)
3問目:
次の文章を読んで、筆者の主張に対する反論を200字以内で書きなさい。ただし、反論に論拠を含めること。
(国語も記述!?しかも文章の量、原稿用紙2枚分あるし……)
視界の端では、ユウマもサヤカも、何の戸惑いもなくスラスラと答えを書いている。
教室の空気は、重く、異様なほど静かだった。
鉛筆の音だけが、まるで機械の作動音のように等間隔で響いている。
俺だけが、レベルに達していないという感覚。
汗が背中をつたう。時間だけが、恐ろしいほど早く流れていく。
チャイムが鳴ると同時に、先生が言った。
「答案を前に出して、静かに机を整えてください」
僕は白紙に近い答案を、申し訳なさそうに持っていった。
が、その視線を向けてくる者は誰もいない。
ユウマも、サヤカも、他の生徒たちも、何の感情もなく答案を出し、
すぐさま自分の荷物へと手を伸ばしていた。
「10分後、体育の授業が始まります。体操服に着替えて、校庭に集合してください」
(えっ……10分!?)
さっきまでの試験の疲労で、頭はぐらぐらしていた。
汗はまだ乾いていないし、息も浅い。
でも、誰も文句を言わない。誰も「短い」とすら感じていない様子で、
当たり前のように立ち上がり、後ろのロッカーへ向かっていく。
僕のロッカーにも、あの小学生サイズの体操服が、きちんと折りたたまれて待っていた。
(……これを着るのか)
体操服の短パンは、どう見ても常識的な長さではなかった。
シャツのサイズも、子ども用のぴったりフィット。
しかも、みんなはすでに着替え始めている。
驚くほど早く、無表情のまま、無駄な動きもなく、まるで訓練された兵士のように。
僕はしぶしぶ、また袖を通す。
でも今回は、すこし慣れてしまっている自分がいた。
それが、妙に悔しかった。
教室の後ろ、ロッカーの前で体操服を取り出す。
白地の縁は細く、首元はきゅっと詰まっている。
そして、あの——やけに短い白い短パン。
小学校のとき、毎日のように着せられていた、あの型のまま。
けれどこれは、僕が何年も前に卒業した子どもサイズのはずだった。
着替えながら、ふと手を止める。
(……おかしい、絶対おかしい)
でも——袖を通した瞬間、思わず息を飲んだ。
ピッタリだった。
胸、肩、腕、胴体、そしてあの短すぎるズボン。
きつくもゆるくもない。
完璧に身体に合っている。
鏡があったら、きっと当時の自分が映っているんじゃないか。
そんな錯覚すらした。
周りを見ると、みんなもう着替え終わって、教室から出始めている。
(……やっぱり、俺も……変わってる?)
運動場に出ると、朝礼のときとは違い、
空は完全に朝になっていた。
だけど、日差しは妙に白く、温度のない光が校庭に降り注いでいる。
まるで、現実世界の朝をただ模倣しただけのように。
先生の笛も、掛け声もない。
けれど、皆が一斉にスタートを切る。
何も言われなくても——
運動場を2周する
という決まりが、身体に染みついているようだった。
「……そういえば、小学校のとき……やってたな。朝ラン」
そう思った瞬間、自分の足も自然と動いていた。
皆、走っていく。
黙って。声もなく。
僕は、遅れないように走りながら、心の中でざわついていた。
なんで、忘れてたのに身体が覚えてるんだ?
歩幅も、呼吸も、昔とまったく同じ感覚。
しかも、周囲を走る子どもたち——いや、クラスメイトたちは、
顔つきも、表情も、小学生の頃そのまま。
(俺、今、本当に高校生……なのか?)
走りながら、自分の影を見た。
そこには——明らかに小さな子どもの姿の影が映っていた。
運動場を2周し終えると、誰に言われるでもなく、
皆は自然と中央の白線に向かって歩き出した。
列ごとに順序を崩さず、
前後左右の間隔も完璧に揃えて、
当たり前のように整列していく。
僕も、流れに従って足を止めた。
なぜだか、この整列位置さえ、覚えていた。
自分の立ち位置。身長順。前の誰がいて、隣が誰だったか——
それが、頭じゃなく身体でわかる。
立ち止まり、姿勢を正す。
左右の目線を感じる。
誰も話さない。
でも、全員がぴたりと同じ方向を向いている。
風が、静かに吹いた。
体操服のすそのあたりがそよいで、肌に冷たい空気が触れる。
あの朝礼の時と同じ、完璧すぎる沈黙。
まるでこの整列こそが、この学校での正しい存在証明のように思えてくる。
僕の心臓だけが、不規則に鳴っていた。
(……やっぱり、これ……おかしいよな?)
でも、その思いを声にすることも、
一歩列からはみ出すことも——できなかった。
整列が完了したそのとき、
グラウンドの隅から、担任の先生が歩いてきた。
小学校時代にいた、あの先生。
笑顔だけど、決して温かくはない。
むしろ、あの頃から変わらない管理者の笑顔。
そして、先生は何の前触れもなく、はっきりと言った。
「今日の全国朝礼で、朝の光を踊れなかった人がいます」
運動場に、ひときわ大きな沈黙が落ちた。
誰も振り返らない。
でも、分かっている。
それが誰のことか——皆が。
僕の喉が、カラカラに乾いていた。
先生は、穏やかに、楽しげに続ける。
「ですので、今日は朝の光の練習を行います」
「全員で、丁寧に。笑顔で。元気よく。
できるようになるまで、何度でも、がんばりましょうね」
言葉のひとつひとつに、脅しも怒気もないのに、逃げられない圧力があった。
また、あのイントロだ。
空に広がる、記憶の音。
でも、僕にとっては初めて聴く曲。
前列の生徒たちが、同時に腕を広げ、
リズムに合わせて、機械のように踊り始める。
僕の身体は、まだ動かない。
でも列の中に立っている。
逃げられない。
音楽が鳴り響く。
「朝の光を胸に抱いて〜♪」
「進め前へ明日のために〜!」
「朝の光」の鼓笛隊のようなリズムが、広がる青空の下に染み渡っていく。
でも——
僕の中には何も浮かんでこなかった。
歌詞も、振り付けも、リズムも。
「たしかに踊ったことがあるはず」と頭ではわかってる。
でも、身体がまったく動かない。
目の前では、クラスメイトたちが完璧に踊っている。
腕の角度。タイミング。ステップ。
何のズレもない。全員が、振り付けを完全に記憶している。
その中で僕だけが——動けない。
汗が首筋をつたう。
視線が、突き刺さる。
誰も見ていないふりをしている。
僕が踊れていないことを理解している。
そして、それを間違いだとも、問題だとも言わない。
ただ、そこにあるべき姿ではない異物として認識している。
「……すみません……踊り方、忘れました……」
誰に言うでもなく、呟いた。
声は風に消えた。
でも——先生が言った。
「じゃあ、思い出せるまでやりましょうね」
その声に、感情はなかった。
優しくも、冷たくもない。
ただ、決定事項を述べただけの声だった。
音楽は、もう一度最初から流れ始めた。
「朝の光を胸に抱いて〜♪」
2回目、3回目と繰り返す。
僕はもう、音楽が始まる前から汗だくで、呼吸が浅くなっていた。
動こうとしても、身体がついてこない。
手足はなんとか真似をしようとするけど、ズレて、違って、気持ち悪い。
周囲との狂ったリズムが、音よりも重くのしかかってくる。
そのとき——
僕の隣、サヤカが小さな声で、呟いた。
「朝の光を、完璧に踊らないと……戻れないんだよ」
声に、恨みも、苛立ちもなかった。
ただ、事実を言っただけのような、静かなトーンだった。