1)深夜のバイブ音、そして小学校への誘い
深夜、スマホのバイブ音で目が覚めた。
画面を確認すると、そこにはたった一言——
「小学校、今から来れる?」
送り主は、数年前に転校していったはずのユウマだった。
返信も考えず、すぐに着替えて家を飛び出した。寝静まった街を横切り、懐かしい校門をくぐる。夜の闇に包まれた校舎は、昼間とは違う表情を見せていた。
玄関のドアは、不思議なことに開いていた。
校内に足を踏み入れると、廊下はしんと静まり返っていた。壁の時計は午前2時を指している。
古びたスピーカーの下を通り過ぎ、曲がり角を曲がると、昇降口の外からも見えた、たったひとつの教室の明かりが目の前に現れた。
6年1組。
手が勝手に動いたみたいに、ドアを開けた。
蛍光灯の白い光の下、教室の空気はどこか懐かしく、でも異様だった。
黒板には白いチョークで大きく文字が書かれていた。
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「出席者」
1.タカミチ…一番後ろの窓際
2.サヤカ…教卓の真正面
3.ユウマ…廊下側の中央席
4.オマエ…黒板のすぐ前
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(「オマエ」って、俺のこと…?)
背筋に冷たいものが走る。
教室を見回すが、誰の姿も見えなかった。ただ、指定された席に近づくと、さらに異様なものが目に入った。
各席の上に、小学生の制服が畳まれて置かれている。
青い名札。昭和時代の男の子用と女の子用、それぞれ違いはあるが、どれもきちんとクリーニングされているかのように清潔だった。
俺の名前が書かれていた席の上にも、例外なく置かれていた。
それは、6年生のときに着ていた、あの制服だった。
胸ポケットの内側に、俺だけが知っている小さなインクの染みもある。
(……なんで、俺のが?しかも、こんな深夜に……誰が?)
イスの背もたれに手をかけたそのとき、後ろのドアがギィ……と音を立てて開いた。
振り向くと、そこには誰もいなかった。ただ冷たい夜風が廊下から吹き込んできただけ。
再び制服を見つめた。手を伸ばせば、きっと簡単に着られる。
けれど、着てしまったら、何かが戻れなくなる気がした。
昔の自分に。
あのとき止まった時間に。
あの日、ユウマが——
「……まさか、冗談だろ……」
声に出してみたけど、自分の声がやけに響いて、ますます不安になった。
でも不思議なことに、制服を見ているうちに、着なければいけないような気持ちが、じわじわと胸に湧いてくる。
それは理屈じゃなくて、命令でもない。
ただ——「決められていた」ような確信だけが、背中を押してくる。
突然、後ろの席で、シャツの擦れる音がした。
振り返ると、そこにサヤカがいた。
いつの間に教室に入ってきたのだろう。彼女は無表情で、無言で、自分の制服を手に取り、まるで毎朝の習慣のように、スカートを履き替え始めていた。
白いブラウスのボタンを一つ一つ外し、制服スカートを取り上げる。脱いだスカートは丁寧に畳まれ、その手さばきはまるで小学生の頃と変わらない。スカートにはプリーツの折り目がくっきりと付いていて、腰に合わせながら、彼女はベルトを締める。
その隣では、いつの間にかタカミチもすでにベルトを外し、きっちり折り目のついた半ズボンに脚を通している。
彼は素早く靴下を履き替え、短すぎるズボンのすそを正している。両手で襟元を整え、胸ポケットの位置を指で軽く確かめる仕草は、かつての彼そのものだった。
(……え、いつの間に?)
戸惑う俺の横を、すっとユウマが通り過ぎていった。
彼は振り向きもせずに、あのころと同じ動きで制服に腕を通していく。
半袖のシャツをたくし上げ、ボタンを留めながら、肩をすくめて生地を体に馴染ませていく。あの頃と同じように、彼は最初に襟を正し、それから袖口を整える。そして最後に名札を胸に留める。すべての動作が記憶の中のままだった。
全員が無言。
まるでプログラムされたように、機械的に、でも確かな意思を持って——まるで、ここに来るとわかっていたかのように。
俺だけが、まだ立ち尽くしている。
制服に袖を通した彼らは、もう高校生には見えなかった。
どこからどう見ても、小学生だった。
タカミチの腕は露出し、くるぶし丈の白ソックスが小さなスニーカーにちょうどよく収まっている。
ズボンは異様なほど短く、まるで昔の体育の授業みたいだ。
サヤカは深い藍色の吊りスカートを、きゅっと腰に締め、胸にはリボン、丸襟のブラウスはアイロンがけされたように整っている。
誰も笑わない。
誰も恥ずかしがらない。
むしろ、これが正しい格好だと言わんばかりに、当たり前の動作で座っていく。
「おい、……冗談、だろ?」
震える声が教室に溶けて消える。
誰も返事はしない。ユウマですら、こちらを見ようとしなかった。
それどころか——彼は自分の席に座ったまま、すっと、黒板を見つめて微笑んだ。
着替え終わった彼らは、無言のまま後ろのロッカーへと向かった。
それぞれが自分の今まで着ていた制服やバッグ、スマホまでも丁寧に畳み、まるでもう二度と使わないものを扱うように、一つずつロッカーの奥へと納めていく。
パタン、とロッカーの扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
記憶の奥にある風景と同じだった。
自分が小学6年生だったときの、あの教室と、あのロッカー。
今、彼らが使っているそれは、形も大きさもまるで記憶そのまま。
ユウマは最後に自分のスマホをロッカーに入れ、しばらく手を離せずにいたが、やがて諦めたように扉を閉めた。
そして席に戻ると、また何事もなかったように、机に手を組んだ。
(おい……ほんとに、これ……何なんだよ……)
ただの夢?ドッキリ?
そんな言葉はもう、頭の中で力を失っていた。
誰かが決めたわけじゃない。
強制されたわけでもない。
でも気づいたときには、俺は立ち上がっていた。
席の上に置かれた、小さな制服。
胸元に名札——「イチノセハル」
それは間違いなく、俺の名前だった。小学校の頃に使っていた、カタカナの名札。
(……これ、俺のだ)
震える手で制服を取り上げる。まず白いシャツを手に取り、現在の服を脱ぎ始める。ボタンを外す指先が微かに震えている。シャツを肩からすべらせ、制服のシャツを広げる。
袖に手を通すと、少しだけきつい感じがした。
肩幅が広くなっている今の体には、少し窮屈だ。それでも、驚くほど自然に着られてしまう。
ボタンを留めながら、昔と同じ順番を思い出す。まず襟元、それから胸元へと下がっていく。最後に名札を胸ポケットに留める。
ズボンを脱ぎ、制服の短い半ズボンに足を通す。腰まで引き上げながら、昔の感覚が一気に蘇ってくる。ベルトを通し、きっちりと締める。
シャツの裾をズボンに入れ、全体を整える。白い靴下に履き替え、制服姿が完成する。
シャツの匂い、肌に触れる薄い生地、そして、あの短すぎる半ズボン。
シャツのボタンを留め終え、ズボンのゴムを腰に合わせたその瞬間、ふと、違和感に気づいた。
「あれ……?」
確かに、さっきまで着ていた高校の制服よりもずっと小さいはずなのに——
袖も丈も、ぴたりと身体に合っている。
まるでこの体のサイズに合わせて、最初から仕立てられていたかのような感覚。
足元を見る。ズボンの裾から伸びる脚が……妙に細く、幼い。
胸に触れると、肩幅も狭くなっている気がする。
息を呑んで、下着のラインに手を当てた。
——それは、明らかに小学生の頃に履いていた布の感触だった。
こんなもの、着替えた覚えはない。
誰かに着替えさせられた記憶もない。
でも、確かに……自分の身体は、もう高校生のそれではなかった。
自分でも信じられないが、着替え終わったその瞬間——
「これが正しい姿だ」と思ってしまった。
俺は、黙って立ち上がり、ロッカーへと歩く。
制服、バッグ、スマホ。すべてを奥に押し込んだ。
そして、扉を閉めたとき、不思議な感覚がした。
高校生の自分が、ロッカーの中に封じられたような感覚。
振り返ると、他の皆が静かに座っていた。
俺の席だけが空いていて、椅子はまるで「おかえり」とでも言うようにそこにあった。
俺は座った。
ふと、不安に駆られて後ろを振り向いた。
さっき自分の制服やスマホを入れた、あのロッカー。
そっと扉を開けると——
中は空っぽだった。
あれほどきちんと畳んで入れた制服も、スマホも、バッグも、すべて消えていた。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
代わりに、そこに収まっていたのは——
小学校の体操服。
白地のシャツと、信じられないほど短い白色の短パン。
それは確かに、昔着ていたものだった。名前のゼッケンすら、同じ字で縫い付けられている。
(……いや、こんなはず、ない……)
でも、他のロッカーも、気づけば全て同じように中身が入れ替えられていた。
帰るための服は、もうどこにもなかった。