第八話 喉元の熱さ
人間は経験したことしか分からない。
成功した感動も、怪我をした痛みも、授業中に腹痛に襲われた恐怖も。
想像で補うことはできるかもしれないが、やはり、その気持ちを知っているかいないかでは雲泥の差が出るだろう。
だから俺には分からなかった。
いつも通りの時間に登校をし教室に入った俺は、クラスの一角で集まっているギャル三人衆に目を向ける。
一つの机を囲みながらお菓子を広げ楽しそうに会話をしているその光景はいつもと変わらず、恋伊瑞小和も驚くくらいに普通に笑っていた。
笑顔で楽しそうに「学校だるいよー」とか言っている。
「なんでそんな普通なんだよ」
自分の席に鞄を置きながら小声で呟いてしまう。
先日の映画の後、俺は帰宅するなり恋伊瑞へチャットを送った。「大丈夫か?」という簡単なものだったが、今にして思えば無責任な言葉だったのかもしれない。
泣いて帰った恋伊瑞が大丈夫な訳がないし、むしろ心配させてしまっていると思わせてしまった可能性もある。
なんでそんなにチャットへの心配をしているのかというと、彼女からの返信が今に至るまで音沙汰内がないからだ。しかも既読無視。
恋伊瑞が傷ついているのは分かっていたし、別に返信が欲しかったわけではないが、さすがに教室でスマホを操作している恋伊瑞を見たら思うところがある。
まぁ俺と恋伊瑞の関係も深いものじゃないし、気にしすぎるのも変なのか? いやでも、うーん……。
「相馬君おはよ!」
「あ、うん。おはよ。椎名さん」
「……?」
教室に入ってきた椎名さんに挨拶を返すと、なぜか不思議な顔で見つめられた。
え、なんだ? 俺変なことしたか?
「椎名さん?」
「あ、ううん何でもない!」
そう言うと、森川さんの元に向かっていった。
なんだったんだ?
そんな時ふと視線を感じた。
振り返って見ると、恋伊瑞と目が合う。しかし目が合ったのは一瞬で、その後は明らかに背を向けて座り直してしまった。
勘違いだったら心底恥ずかしい自意識過剰だが、それならそれで顔を赤くするのは俺だけで済む。
だから意を決してスマホにチャットを打ち込んだ。
『お昼一緒に食べないか?』
恥ずかしい思いも、過干渉と言われても、あんな顔で帰った恋伊瑞を心配しない方が無理だった。
前は俺が励まされたんだ。既読無視されるかもしれないし、断られるかもしれないが、それでも。
そんなことを思っていると、ピコンとスマホが鳴る。
『いいよ』
たった一言のチャットに、不思議と笑みが零れる。
そんな俺は、此方を見つめていた椎名さんに気付くことはなかった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
いつもの寂れたベンチ。お弁当袋を片手に持ちながらやって来た恋伊瑞は無言でベンチに座った。
隣に座っている俺のことが見えてないんじゃないかと錯覚するほど目線が合わなかったが、ここまであからさまにそっぽを向かれると逆に意識しているのと変わらない。
「これ」
ここに来るまでに買っておいた紅茶を彼女へ向ける。
恋伊瑞はそれを見ると。
「いいの?」
「いらないなら俺が飲むから」
「貰うわよ。ありがと」
正直、最初の話題作りのために買ってきたりしたのだが、もう会話が終わってしまった。
俺が何を言っていいのか悩んでいると、それを察したのか。
「大丈夫だから」
紅茶を両手で握りながら、悠々たる面持ちで恋伊瑞はそう言った。
「もう振られちゃってるし、いくら悩んでも後の祭りだしね。そういう風に見られちゃった私も悪いから」
「それは違うだろ。恋伊瑞が悪いことなんて何も――」
「それでいいの」
「は?」
「もうそれでいいのよ」
俺は言葉を失ってしまう。恋伊瑞が何を言っているのかまるで分らなかった。
「いいわけないだろ……。お前は何も悪くない」
「勘違いさせたのは私でしょ? だったら私の責任よ。だから私はもう大丈夫」
俺は今日、恋伊瑞を励ましたくて呼び出した。あの日俺が励まされたように。
だからこんな話は望んでいない。してもいいことは何もない。
わかっているのに、なぜこんなにも苛立ってしまうのだろうか。溢れ出た感情はもう止まらなかった。
「大丈夫ならこっち見て言え。お前はそれで辛くないのかよ!」
「辛いに決まってるでしょ!」
室外なのによく通る声は、体の芯まで震えるように悲痛に響いた。
勢いよく振り返った恋伊瑞は、このベンチで泣きあった日のように涙を流しながら俺を睨む。
「好きだった人に……! 大好きだった人に最悪な勘違いされて振られたのよ!? 大丈夫な訳ない! でももうどうしようもないじゃない……」
ペットボトルはラベルが寄れるほど強く握られ、涙がアスファルトで作られた地面を濡らす。
そんな姿を見ても、俺の中では苛立ちがより一層強くなるだけだった。
「佐久間のところに行って誤解を解いてくる」
「やめて」
「二人が付き合ってたって知らないていで上手く話すから」
「やめてよ」
「だから明日からは――」
「やめてって言ってるでしょ!」
怒りを含んでいる叫びだったが、それでも頭に上った血は下がることを知らない。
お互い向かい合って立っているのに、違う方向を向いている。
「もう心配しなくて平気だから」
恋伊瑞の髪がなびくのを横目で見ると、後ろで扉の閉まった音がした。
ベンチには未開封の紅茶のペットボトルが置かれている。
「何やってんだ俺……」
傲慢な考えだった。
俺の個人的な感情で恋伊瑞を呼び出しただけで、あいつの気持ちなんて考えていない。
恋伊瑞が何を考えていて、何を大事にしていて、何に対して怒るのかなんて、何も知らなかった。
当たり前だ。だって。
俺と恋伊瑞はこのベンチでたまたま出会っただけで、友達じゃないんだから。
ずっと誤解されたままでも、何も言えないままでも、心に傷を負ったとしても、俺には関係ない。
頭の中でついさっきの言葉がフラッシュバックする。
『もう心配しなくて平気だから』
「くそ……」
優しい言葉で突き放された俺は、残された紅茶をゴミ箱に投げ捨てた。
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