ニダボの記憶
僕の住む家から離れたイトーヨーカドーでは、サラダ用の早ゆでマカロニと三缶シュリンクのツナ缶が広告の品で安いという新聞の折り込みがあったので、夕食のポークソテーに添えるツナ入りマカロニサラダを作りたくなった僕は、自分用のバイクであるカワサキ・Z900に跨って、イトーヨーカドーに向かった。
国道と都道を十五分ほど走ってイトーヨーカドーにたどり着くと、僕は店舗脇に用意されている申し訳程度のバイク置き場にZ900を停めた。他に止まっているのは荷物用のケースを取り付けたスズキのボルティーと九〇CCのスーパーカブが一台だけで、大型バイクは僕だけ。こういう生活感の強い場所に鋭利なデザインの大型バイクで乗り付けるのは場違いで不格好な気がしたが、僕はこのZ900以外にバイクを持っていないので仕方なかった。
バイクを降りて被っていたフルフェイスヘルメットをヘルメットホルダーに掛けて、店舗内に向かおうとすると、二五〇CC四気筒のバイクのエンジン音と、小さい歯車が高速回転する時の高周波音が混じった独特の音が、僕の耳に入って来た。
「2ダボの音だ」
僕は小さく呟いて、その音の聞こえた方向に振り向く。振り向いた先には、イトーヨーカドー近くの交差点の赤信号で停車する、一台の黒いホンダ・CBR250RRがあった。跨っているライダーはバイクに合わせた黒いフルフェイスヘルメットを被っており、顔や年齢は判らなかったが性別は男のようだった。
その音とフルフェイスに隠されたライダーの姿が、僕にある事を思い出させる。
僕が中学二年の時、仲良くしていたガールフレンドの祐美子と一緒に、このイトーヨーカドーに初デートで来た事があった。丁度バレンタインデーに差し掛かる時期で、僕はガールフレンドである祐美子が、何かバレンタインデーの贈り物をしてくれるのではないかと淡い期待を抱きながら店舗に入った。
僕たちは一階フロアにある、洋菓子や贈呈用の品々が並ぶ場所を見て回った。彼女は何か食べ物を送るのだろうかと考えていると、祐美子はチョコレートやクッキーを扱う大手の洋菓子店のブース前で立ち止まった。
「木村君はさ、チョコレートとクッキーならどっちが好き?」
祐美子の素朴な質問に僕は考えた。当時の僕はまだ味覚が幼稚で、チョコレートとクッキーの味わいの甲乙をつける事が出来なかったのだ。
「クッキーとチョコレートなら、チョコレートかな。中にナッツやクランチとかが入っていないやつ」
僕は考えて思いついた言葉を口にした。僕の意見を訊いた祐美子は少し考えて「わかった」と呟いて、チョコレートの販売ブースに向かった。
「この八個入りの、チョコレート詰め合わせをください」
祐美子は落ち着いた口調で、販売員の女性に声を掛けた。販売員の女性は僕と祐美子の関係の初々しさに笑みがこぼれたのか、終始口元に笑みを浮かべていた。
会計が済むと、僕と祐美子は一階のフロアを離れて自動販売機コーナーに向かった。僕はペプシのペットボトルを買い、祐美子は暖かい缶のミルクティーを買った。
「今日買ったプレゼントは、誰に送るの?」
僕は単刀直入に祐美子に訊いた。躊躇せず質問したのは、変に弱い人間と見られない為にした、精一杯の見栄だった。
「バレンタインのプレゼント」
祐美子の言葉に僕の胸が弾んだその瞬間、彼女はこう続けた。
「それと納車祝い」
「納車祝い?」
心臓に針を刺され、張り詰めていた熱が一気に冷めて行く感覚を味わった僕は、祐美子の口元と眼差しを凝視した。
「知り合いの高校生の人がね、バイクの免許を取ったの。それで今度ローンを組んで買ったバイクの納車があるの」
「そう、なんていうバイク?」
コンクリートの壁を這う昆虫の足取りのような口調で、僕は祐美子に続けて訊いた。
「ホンダのニダボとか言うバイク。何でも高性能なバイクなんだって」
「そうなんだ」
僕は萎えた口調でそう続けた。そして僕たちは買った飲み物を飲み干し、家路についた。
帰宅した僕は、自分の部屋のパソコンを立ち上げて『ホンダ ニダボ』という言葉を検索した。ニダボと言うホンダのバイクは正式名称をCBR250RRと言い、カムギアトレーンと言う独特な機構により非常に高回転型なエンジンを搭載し、自主規制一杯の四十五馬力を発生すると説明されていた。
その丸目二灯のヘッドランプに、触覚のようなミラーが二つ付いたテントウムシのようなデザインのバイクは普通二輪の免許が取れない僕には手に負えない代物だったが、初めてバイクと言う乗り物を意識した瞬間でもあった。
それから僕と祐美子の関係は至って普通の物になり、現在ではフェイスブックで友達になっているだけの関係に過ぎない。やがて僕は高校に進級し、不良仲間とつるむ過程でバイクの免許とバイクを取得し、今は建設会社に就職して大型バイクを乗り回す事と料理を趣味にして生きている。祐美子の人生、バレンタインと納車祝いを同時に貰ったニダボの高校生とどうなったかは不明だが、知りたいとも思わなかった。
交差点の信号が青になり、黒いニダボが走り去って行く、僕はその後ろ姿を見送った後、傍らに停まっている自分のZ900を見た。
「あの頃の自分に比べたら、俺は成長しているから良いか」
僕は負け惜しみのような言葉を一言もらして、イトーヨーカドーに入った。
(了)