僕がカワサキ乗りになった理由。
僕がまだ少年だった頃、ほのかに意識していた女性がいる。
その女性は近所にある花屋に勤めていて、ショートヘアにした黒髪が美しい女性だった。名前は知らなかったが、白いブラウスとジーンズに身を包み、仕事用の茶色いエプロンという地味な服装でいたからこそ、商品として咲き誇る花のように、何気ない微笑みがすごく印象的だったのだ。
もう一つ印象に残っているのは、女性らしいデザインのスクーターではなく、ちゃんとしたバイクで仕事場に乗り付けていた事だ。バイクの事は当時バイクはガソリンエンジンで動くという事しか知らない純朴少年だったから、彼女のバイクが日本製であるのか外国製であるのかも分からなかった。
九月も終盤に差し掛かったある日の学校帰り、僕はまっすぐ家に帰らず商店街に立ち寄った。花屋に努めるその女性の顔を見たくなったから、というのが理由だった。
僕は花屋の前まで来て、店内を覗き見た。彼女は接客に追われているらしく、アレンジメントに相応しい花の種類について客と話しているようだった。声をかけそびれた僕は一歩引き下がり、店の傍らに停めてある彼女のバイクを見た。そのバイクはデザインこそクラシカルだったが、各部の金属パーツやシート表皮の張り具合を見る限り、比較的新しいバイクのようだった。
「どうかしたの?」
不意に僕の背後で声が聞こえた。先ほどまで客の応対をしていた彼女の声だった。あまりにも突然の出来事だったので、僕は驚いて狼狽えてしまった。
驚いた僕の反応を見ると、彼女は小さく微笑んでこう続けた。
「それはね、カワサキのエストレヤっていうバイクなの。ローンで買って、今お金を返すためにここで働いているわけ」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「あなた、バイクに興味があるの?」
「いや」
「いいわよバイクは、自分の力でどこでも行ける。自分が成長したんだって実感できるもの」
彼女は年上の人間が年下の人間を諭すように、僕に優しく語りかけた。すると背後から別の客がやってきて、彼女は応対の為に僕の前から離れた。呆気にとられた僕は、無言でその場から立ち去る事しかできなかった。
次の日、僕は再び例の花屋に向かった。理由は中途半端に終わってしまった彼女との会話を少しでも続けたいからだった。
僕は商店街に向かう大通りを歩いていた。その日はどんよりとした曇り空で、風が強かった。他人と会うには不向きな空模様だなと子ども心に感じていると、他の自動車とは違う、軽やかなエンジン音が聞こえてきた。
バイクの音?
そう思って振り向くと、そこには昨日花屋の傍らに停まっていたカワサキのエストレヤがあった。花屋の彼女が運転していると思って振り向いたが、乗っていたのは男で、彼女はその後ろに座っていた。
ハンドルを握る男は僕よりは一〇歳、彼女より二歳は年上の男だった。オープンフェイスタイプのヘルメット被った男は、エストレヤの後ろに座る彼女と何か楽しそうに話しているようだったが。風が強く、バイクも走っていたから何を話しているのかは分からなかったが、二人の仲に僕が入る余地がないのは明らかだった。
それから僕は小学校を卒業し、中学時代に不良たちとつるむようになった。その中で自分の能力を高めるには、高校の時にバイクの免許を取り、バイクで通うことだと知った。
高校に入ると、僕は工事現場のアルバイトを掛け持ちしてお金を貯め、一七歳でバイクの免許を取った。そしてアルバイトを続けて何とかお金を貯めて、カワサキのバリオスを買った。
高校を卒業したあと僕は就職して、バイク乗り続けるため必死に働いた。そこで行きつけの飲み屋でアルバイトしていた女の子と知り合い、彼女と結婚して所帯を設けた。バイクもバリオスからステップアップして、ZRXの四〇〇、大型二輪免許取得後のGPZ900Rと続いて、今はZX‐6Rと奥さんがメインで使うエリミネーター二五〇の二台持ちを果たした。免許取得以降、カワサキしか乗り続けていない。あのエストレヤに乗っていた彼女にはもう会えないが、自分が成長した成績は十分に残したと自負している。
(了)