ビート官がつなぐ記憶。
日曜日、私は仕事場の後輩である谷崎ユリと待ち合わせて、東雲にあるライコランドへと向かう事になった。向かった理由は、彼女がローンを組んで買ったカワサキのZX₋25Rに、注文していた車検対応のスリップオンマフラーを取り付けるから一緒に来て欲しいというのが理由だった。まだバイクのローンも完済していないというのに、自分のバイクに手を加える誘惑に負けてしまったらしい。それがバイクを駆って乗り回すという事の旨味でもあるから、止めておきなさいと言う事は出来なかった。
私は自分のハーレーダビッドソンのXL1200CXに跨って、待ち合わせ場所のJR巣鴨駅のアトレ側で合流した。
「おはようございます」
先に挨拶をしたのはユリだった。まだ完全に馴染んでいないウェアとブーツがまだビギナーという印象を強く持たせる。私はエンジンを切って、被ったフルフェイスヘルメット越しに「おはよう」と答えた。
「相変わらず、先輩のハーレーはかっこいいですね」
「ありがとう」
社交辞令ではないユリの言葉に、私ははにかみながら答えた。女とは言えハーレーダビッドソンに乗り、社外品のマフラーやエアクリーナー、ビキニカウルまで取り付けたバイクに乗っている人間が親しい先輩ともなれば、憧れの感情を抱くのも無理はないだろうと私は思った。
「東雲のお店って、安藤先輩は行ったことがあるんですか?」
「何回かね。高い買い物はした事は無いけれど」
「そうですか。じゃあそのお店で高い買い物をするのは私が先ですね」
意気揚々とした様子でユリは答えた。私はお世話になっているショップで、ほとんどがアメリカからの取り寄せになるハーレー用のパーツを購入してマシンに取り付けているのだが、こんな所で話す話題ではないと思い、口にしない事にした。
「行き方は判る?」
私は先輩風を吹かせるようにユリに訊いた。
「はい」
「それじゃあ、先導して。私は背後であなたを見守るから」
私が告げると、ユリは一瞬戸惑ったような様子を見せたが、決意を決めたように「はい」と頷いた。
他愛もないやり取りの後、私たちは巣鴨駅から東雲のライコランドに向かった。日曜日という事もあり、都内の道路は比較的交通量が少なく、初心者のユリにも比較的走りやすい環境だった。日比谷から晴海通りへと入り、月島を超えて晴海から東雲に向かう。都営バスの駐車場と海岸通りの間にある細道へ入り、東雲のライコランドへとたどり着いた。バイクを駐車スペースに停め、ヘルメットを脱いで店内に入ると、ユリは受付の店員に部品取り付けに来たことを告げた。そして所定の手続きが終わると、私たちは作業スペースが見える休憩室に入った。休憩室から見える作業スペースにはユリのZX‐25Rが停められ、トリミングを待つ中型犬のような感じで頭を私たちの方に向けていた。
「こうしてみると、ニンジャってかっこいいですよね」
ユリは窓ガラス越しに作業を待っている自分のバイクを見て、感想を漏らした。自分のバイクを見てかっこいいとか美しいなんて思う感情は、もう私には殆ど起こらなくなっていた感情だった。私は近くにあった瓶のコーラを二本買って、栓を抜いて一本をユリに手渡した。
「マフラーは、どこのメーカーをつけるの?」
「日本ビート工業のフルエキゾーストマフラーです」
「良い所のマフラーをつけたわね」
「自分が惚れて買ったバイクですから、いいものを着けたくて」
ユリの言葉に私は苦笑いを浮かべた。そしてコーラを一口飲むと、過去の記憶が炭酸の泡のように蘇って来た。私が自分からバイクに乗ろうと思っていなかった頃の、まだ単なる娘に過ぎなかったころの記憶が。
私がまだ十六歳だった頃、同じ足立区に住む二つ年上の拓也というボーイフレンドが居た。ボーイフレンドと形容したのは。同じ学校の先輩後輩でも、特別親密な関係だったからでもなかったからだ。友達以上恋人未満、と形容する人も居るかもしれないが、私と拓也の関係は友情とも愛情ともつかない不思議な関係で構築されていた。その関係性はお互いの心を束縛するほど強くなく、孤独や焦燥感を感じるほど希薄でもない、絶妙な距離感を保っていた。
十一月のある日、私の携帯に拓也からメールが来た。まだ多くの人間が折り畳み式の携帯電話を持ち歩き、やり取りはショートメールが殆どの時代だった。
「今度の日曜日、一緒に二人で海を見に行こうよ」
拓也からのメールは簡潔で分かりやすいものだった。拓也がバイクを買って、一人で乗り回していたのは知っていたが、免許を取って一年間は二人乗りが出来ないから、私は彼が運転しているのを眺める事しか出来なかった。その拓也が一緒にバイクに乗ろうと誘ってきたのは、もうバイクの二人乗りが解禁されたからに他ならなかった。
「いいよ。どこの海?」
私は直ぐに返信のメールを打った。海と行っても、足立から行くなら幕張か舞浜のどちらかだろうと私は思った。
「幕張。一応ディズニーランドの近くへいこう」
拓也から返ってきたメールは予想どおりの内容だった。私は厚手の冬服を来て、舞浜から葛西にかけての海を眺める自分を思い描いた。
「わかった。いいよ」
「寒いから防寒対策をしっかりとね」
私と拓也は声を出さない会話をした後、出発の準備に取り掛かった。
日曜日の朝、私はファー付きのダウンコートに黒いスキニーという格好で待ち合わせ場所に向かうと、黒のジャンパーに青のジーンズという格好の拓也が、愛車のXJR400RⅡと共に私を待っていた。拓也が軽く右手を上げて挨拶すると、私は小走りで彼の元に駆け寄った。
「お待たせ」
「お疲れ様」
私の言葉に拓也は小さく答えた。私は小走りで駆け寄ると、当時はまだ無垢な娘だった私は知らなかったが、拓也が跨っているバイクを改めて見た。彼のバイクは当時でも十数年落ちのオートバイで、不人気モデルという事もあり中古が安かった。それでも拓也にとっては、アルバイトで稼いだ年収の八割にも達する、大きな買い物であり資産だった。
「相変わらず、かっこいいバイクだよね」
「ありがとう」
私の言葉に、拓也は照れ臭そうに答えた。そして褒められた我が子を眺める親のような眼差しになって、タンクからハンドル周りを眺めた。
「このバイクに決めた理由って、何かあるの」
私は自分のバイクを見つめる拓也に何気なく質問した。
「これにした理由?映画の『ブラックレイン』に出て来るハーレーみたいだったからさ」
拓也はバイクを眺めながら答えた後、私を見た。私には拓也が言った『ブラックレイン』がどのような映画で、どのような場面でオートバイが登場するのかもわからなかったが、拓也が映画のワンシーンに憧れの思いを抱いて、それを実現できた喜びをかみしめているのがすぐに判った。
「その映画でさ、日曜日の朝にニューヨークのブルックリン橋を走ってマンハッタンへ行くシーンがあるんだ。そのシーンにあこがれて、きょうそれをしようと思ったんだ」
「映画の場面を再現するなら、一人でもいいじゃない」
私が答えると、拓也は少し考えたような表情をした後に、こう続けた。
「それもいいんだけれどさ、いつも一人じゃつまんないじゃん」
拓也の言葉を聞いて、私は思わず気持ちがほころんだ。特別な体験を他人にも理解してほしい。そういうのは、純粋な人間の裏返しであるような気がした。
「そうだね。いいよ」
私は小さく答えた。
拓也が用意してくれたクラシックスタイルのオープンフェイスヘルメットを被り、タンデムシートに跨る。ハーフキャップを前後逆に被り、フリース地のネックウォーマーを口元まで覆った拓也の表情は判らなかったが、私という女を乗せて緊張しているのが判った。私は拓也が緊張しすぎないように、身体を密着せずに少し距離を取って、リラックスして運転操作が出来るようにした。
私を乗せた拓也が運転するバイクは住んでいる住宅街を抜けて、環状七号線を葛西方面に向かった。進む先にマグロの水槽で有名な葛西臨海公園があるのかと思いながら道路を見渡すと、平日とは違い、千葉方面に向かう一般車の群れが多い事に気づいた。これが平日なら、高速道路や千葉、幕張方面に向かう車や大型トラックで混雑し、圧迫感だけでなく恐怖を感じるだろうと、私は初めて交通情勢についての感想を抱いた。
葛西方面に向かって進むにつれ、海から吹いてくる風がより一層冷たく感じられる。家を出てきた時は少し厚着をしすぎたかと思ったが、今となっては丁度良いと思える服装だった。
環七通りと海岸通りが交差する場所に来ると、拓也はバイクを左折させるために左車線により、左ウィンカーを出した。道路案内を見ると、「浦安」という文字が青い標識の中に白文字で書かれていた。
「浦安って、ディズニーランドの方だよね?」
私はバイクの後ろに乗って、私は初めて運転する拓也に声を掛けた。
「そう、今日は中に入らないで回りを一周して、その先にある場所を目指す」
ネックウォーマーで口元を覆った拓也はそう答えた。ディズニーランドのはずれに何があるのか、私は見当も付かなかったが、ディズニーランドかディズニーシーに入って、遊ぶことになるよりはましだった。
信号が変わり環状七号線を左折して海岸通りに入る。舞浜大橋を越えて川を渡ると「千葉県」と書かれた標識が視界に入った。地図上で距離が近いのは知っていたが、電車や自動車でしかその境界を越えた事が無かったから、身体を晒して境界線を越えるのは奇妙な感覚があった。
私を乗せた拓也のバイクはディズニーランドに向かう道路へと入った。道路は多くの家族連れを乗せた自家用車で混雑しており、バイクに乗っているのは私たちだけのようだった。周囲の車からは私たちはどのように見えるだろうか思うと、赤信号で止まった拓也がこう呟いた。
「寒くなくなったら、二人で来たいね」
「ディズニーランドに?」
「そう。今日は無理だけれど」
拓也はネックウォーマー越しに答えたが、その声が恥ずかしさを隠している事にすぐに気づいて、私は少しくすぐったい気持ちになった。
私たちは東京ディズニーリゾートのある地域を抜けて、浦安のクリーンセンターから千鳥海岸の遊歩道デッキに繋がる場所に向かった。殺風景で、水平線と空以外に何もない場所だったが、その何もないという事実が、私と拓也が特別な場所にいるという気分を強くさせた。
クリーンセンター近くの駐車場にバイクが止まると、拓也は私にバイクから降りるように促した。右側からバイクを降りると、右側面に取り付けられたマフラーが、黒い車体とは異なり、鈍い銀色に輝いているのに気づいた。細部に目を凝らすと私が右足を下ろしていたサイレンサーの部分に『NASSERT R』と書かれたロゴが付いているのが判った。
「これ、なんか意味があるの?」
私の言葉が自分のバイクに取り付けられたマフラーを指している事に気づいた拓也はエンジンを切ってバイクを降りながらこう答えた。
「ああ、そのマフラーはネットオークションで買ったビートのナサート官だよ。自分で取りつけたんだ」
拓也は少し得意げに答えた。私は彼がレンチやスパナを使って、オイルにまみれながら部品を取り付ける姿を思い浮かべた。その姿は自分が知っている少年に近い拓也ではなく、より成長した、一人の人間として自立しつつある拓也に思えた。
「そう、すごいじゃん」
「いろいろ苦労したけれどね」
自信と恥ずかしさが混じったような面持ちで拓也は答えると、ヘルメットをバイクのミラーに掛けて、海が見える遊歩道へと向かった。
沖合からの風が吹き付ける、海が見える場所に出ると、幕張から木更津までの千葉県沿岸部が一望することが出来た。沖合に見えたヨットの帆のような物は、東京湾アクアラインの海底トンネルに溜まった排気ガスを抜くための施設だった。上空を見上げると、羽田空港に着陸しようする飛行機が一機飛んでいるのが見えた。
「ここは、初めて来たの?」
私は拓也に訊いた。寒くて広い景色以外何もない場所だったが、彼には特別な場所である事なのは容易に想像できた。
「一人では何回かあるよ、でも誰かを連れてきて、同じ景色を見て欲しいって思ったのは初めて」
拓也は一つ一つ、言葉を噛みしめるようにして答えた。私は彼の言葉を同じように一つ一つ噛みしめて、ゆっくりと咀嚼した。
「そうなんだ」
私は冷え切った身体の中に、弱いが心地よい熱を生む感覚を覚えた。私は海の方を眺めながら、こう呟いた。
「ここは、朝日も見れるの?」
「見れるよ、早い時間に来ればね」
何気なく呟いた私の言葉に、拓也はこたえてくれた。
「今度、時間を合わせて見に来ようよ」
「ディズニーランドに行くのと、どっちが先が良い?」
拓也の言葉に、私は少し考え込んでこう答えた。
「朝日を見てから、その後ディズニーランドに行こうよ」
私の言葉に、拓也は嬉しそうな笑みを漏らした。しかし、その欲張りな私の約束が叶う事は無かった。
拓也と二人乗りで舞浜に行った二週間後、彼はバイクで死んだ。舞浜からも地元の足立からも離れた栃木の田舎道で、仲間たちと走っている時に運転操作を誤って転倒してしまったのだ。それだけならバイクを駄目にするだけで済んだのだが、カッコつけてハーフキャップで走っていたから、〝頭などを強く打って〟死んでしまったのだ。棺に納められた拓也の健やかなものだったが、それは拓也に似せて作られた偽物の表情で、本当の拓也はもういないのだと強く認識させた。
喪失感に苛まれた私は、拓也が見たかった光景、体験したかった感動は何だろうか。という疑問を抱き、自分で確かめるためにバイクの免許を取った。両親は知り合いが死んだのに、お前も同じことをする必要はないと言われてしまったが、私と拓也は違うし、全ての費用を自分で賄うと答えて、納得させた。そして普通二輪免許を取得し、大学在学中に大型二輪免許を取得して、就職してから今の愛車であるハーレーダビッドソンを手に入れている。拓也の後ろに座っていた私は、何時の間にか拓也よりも上等なバイクに跨り、拓也よりも長い距離を走って様々な場所に出かけている。拓也が欲しかったであろう女性のバイク仲間も、ユリという仕事の後輩が今はいる。
私は待合スペースで二本目に選んだブラックの缶コーヒーを飲みながら、ユリとバイク談義をしていると、マフラーの取り付け作業が終わったというアナウンスが入った。私はユリと共に受付カウンターに行き、代金と作業完了の確認を行うと、表に出て虹色の輝きを放つフルエキゾーストマフラーが取り付けられたユリのZX‐25Rと対面した。店員さんがエンジンをつけてくれると、カーボンをあしらったサイレンサー部から勇ましい排気音が出てきた。そのサイレンサー部を見ると、『NASSART』の文字があった。この場に拓也が居たら、「俺も初めてのバイクに付けたマフラーはビートだったよ」と答えただろうか。
アクセルを軽く煽って空ぶかしすると、ユリはエンジンを切ったあと、作業をしてくれたスタッフにありがとうございますと答えた。すべての予定が終わり、私とユリだけの関係に戻ると、私はこう訊いた。
「どうする、折角だから少し試し乗りする?」
「はい、どこかテスト走行にいいルートとかあるんですか?」
ユリは意気揚々と私に質問してきた。
「ここから海岸通りを通って、舞浜に行くの。海を一緒に見に行きましょう」
私の提案に、ユリは笑顔で応えてくれた。
(了)




