戻らない過去
板橋での用事を終えて、十七号バイパスを大宮方面に進む。金曜日という事もあって道路は混雑しており、休日なら十五分程度の距離が四十分もかかってしまうだろう。
これではランチタイムに入る店が混雑してしまう。と僕は仕事で使うトラックの運転席で毒づいた。金曜日のランチタイム、大手チェーン店は客の回転が速いが、あまり混雑した状態で食事をするというのは、リフレッシュする気持ちが起こらない。せっかくの上手い料理も、雰囲気のせいで味が二割も落ちてしまうのだ。
尺取り虫が前進するようなリズムで前進し、秋ヶ瀬に向かう道路で左折する、川にかかる橋手前に味噌ラーメン店があったので、僕はそこで食事を取る事にした。味噌ラーメン店の駐車場は半分ほど埋まっており、多くの車が社用車だった。僕はバックでトラックを停め、降車してロックをかけて店内に向かう。緑豊かな秋ヶ瀬公園に近いせいか、空気に秋の匂いを強く感じた。
店内に入ると、中は脂と味噌、そして茹でた麺の匂いと熱気に満ちていた。暑い野外で肉体労働をするのと同じくらい、蒸し暑いラーメン店の店内での労働は過酷だろう。そんな風に思いを巡らせると〝職業に貴賤なし〟という偉大な言葉を思い出さずにはいられなかった。
「おひとり様ですか?」
食器を下げ終えたばかりの、アルバイトらしき若い女性店員が僕に声をかけた。
「はい」
僕は小声で答えた。
「少々お待ちください、今空いているお席にご案内いたします」
恭しい言葉で若い店員は答えて、空の丼が置かれたままのカウンター席に向かいプラスチック製のコップを空の丼に放り込んで、丼を手に取り使い捨て布巾でテーブルを拭いた。
「どうぞ」
僕は促されるまま簡単な清掃を終えたばかりの席に着いた。気難しい客なら文句か嫌味を言うだろうが、僕にそんな気持ちは無かった。
席に着きカウンター手前にあるメニューを見る。凝ったトッピングやサイドメニューを頼むつもりはなかったので、北海道味噌のネギ味噌ラーメンを頼む事にした。
「すみません」
僕は店員を呼んだ。やって来たのは、先程の店員だった。
「北海道味噌のネギ味噌ラーメンをお願いします」
二秒間開けて、店員がこう続ける。
「以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
「かしこまりました」
先ほどと同じ口調で若い店員は答えた。素直で勤務態度が良さそうだから、真面目な性格なのかもしれない。そういう素直さは何物にも代えられない物だろう。
僕は注文した品が届くまで、何もせずぼんやりすることにした。仕事場に帰れば、これから面倒を見ないといけない数台のバイク整備その他が待っている。最初に手を付けるべきはホンダのスクーターか、それとも午後部品の取り付けに来るBMWか。優先順位を付けなければならないが、考えている内に思考の液体が粘りを帯びて、最後はペースト状になって何も浮かばなくなった。こんな状態になるのを予見して、僕は味噌ラーメン店に入ったのかもしれない。
やがて僕が注文した北海道味噌のネギ味噌ラーメンが伝票と共にやって来た。運んできたのは先程とは別の、三十代らしき男性店員だった。
「お待たせいたしまし。北海道味噌のネギ味噌ラーメンになります」
店員は僕が注文したラーメンをフルネームで呼んだ。商品名を呼称して客に提供するだけなら、人間ではなくロボットにやらせろという意見が多いのも頷ける。だが便利さを追い求めて機械の指示に従うようになってしまったら、素直さも陰険さも必要のない世界が来るかもしれないだろうと思いながら、北海道味噌のネギ味噌ラーメンを食べた。
ラーメンを食べ終えて、伝票を持ち会計に行く。レジに立っていたのは、僕を案内した店員でも注文した品を持って来てくれた店員でもない、眼鏡をかけた三十代くらいの男性店員だった。
電子決済で会計を済ませて店の外に出る。駐車場はこのラーメン店で食事をしようという客を乗せた車が増えていた。僕は混む前に駐車場を出るべく、足早に仕事用のトラックに向かった。今から入ってくる客はどんな人間がいて、どんな言葉を店員に言うだろうか。少なくとも真面目に働く人間の純真さを踏みつけるような事はしない欲しいと僕は願った。
北区にある仕事場に戻り、僕は作業場に入ってスリップオンマフラーの取り付けを頼まれていた中古のBMWの作業に取り掛かった。水平対向エンジンは普段扱う直列四気筒の国産バイクとは勝手が違うが、何回か経験があったからそれ程苦労は無かった。
作業を終えると、僕はオーナーのいる事務所に行って作業が終わった事を報告した。オーナーのまだ二十代の青年は「ありがとうございます」と簡単に答えた。
「フルエキゾーストほどじゃありませんけれど、トルクとレスポンスは良くなっているはずですよ」
僕は営業用の少し張りのある声で言ったが、オーナーの青年は何か考えているのか何も答えなかった。
「じゃあ、ありがとうございます」
青年は簡単な感謝の言葉を述べると、BMWのエンジンを掛けて走り去っていた。無味乾燥な言葉に僕は一抹の不安を感じつつも仕事に戻る事にした。
作業所に戻り、一仕事を終えた証として煙草を一本吸おうかと思っていると、ポケットに入れたスマートフォンが電話の着信を報せた。取り出して誰からの連絡なのか確認すると、心当たりのない電話番号だった。
「もしもし?」
僕は上ずった声で電話に出た。
「おお、辰已英司君かい?元気か。俺だよ、旗側小学校で同級生だった井沢由紀夫だよ」
電話の向こうの井沢は冷静な声で僕の苗字を呼んだ。小学校と中学校の頃によく会話した時の声の名残こそあったが、加齢と煙草の煙によって喉が燻されたのか、その声は重く苦みがあった。しかし、同じ小学校の同級生が急に連絡をよこすなど、どんな風の吹き回しだろうか。
「実は今日連絡があってさ、小学校の五年と六年で一緒だった有川美咲が死んだよ」
井沢はレストランで注文をするような様子で僕に告げた。言葉の内容は見えない野球ボールが胸にあったって、心臓の少し上に衝撃を与えたような感触があった。
「死んだ?」
「そう、今日。病気でね」
僕は何も答えられなかった。突然の衝撃の波紋が体中に広がって感情を言語化させなかったのだ。
「だから、連絡をくれたのかい?」
「そうだ、同じ時間を過ごした同級生だろ。お前はもう何年も地元に戻っていないけれど」
僕は続きの言葉を紡ぐことが出来なかった。しばらく沈黙の時間が流れると、僕は自分に平静をもたらすために口を開いた。
「どこでこの電話番号を?」
「中学に進学した時、初めてお互いの携帯電話番号を交換しただろ。お前の弟に連絡したら、中学の時から携帯の番号を変えていないっていうから、昔の携帯を引っ張りだして連絡をしたんだ」
井沢の言葉をきっかけにして、僕は再び驚いた。自分が今まで一度も携帯電話の番号を変えていなかった事よりも、初めて携帯電話の番号を交換した相手の事を覚えている事に驚いたのだ。
「それで葬式と通夜の予定なんだが、お前その前の弔問に来れるか?」
僕は押し黙って少し考えた。親族の忌引きなら何とかなるだろうが、友人となると分からなかった。
「とりあえず、仕事場に聞いてみるよ」
「大丈夫そうなら、また連絡をくれ。この番号にリダイヤルを頼むよ」
「わかった」
「突然の電話が、友人の不幸で済まないな」
「いいや、そんなことは。連絡をくれてありがとう」
僕はそう答えて電話を切った。見えない野球ボールを身体に受けた後の衝撃は言葉に出来ない感触を身体の中に伝えてきた。
電話のあと、僕は店長に友人が死んだ事を伝えた。店長は友達を弔ってやりなさいと優しい返事をしてくれて、忌引きがあれば事前申請するようにと言ってくれた。
僕は残った仕事を片付けたあと帰宅して、死んでしまった有川美咲の事を思い出した。
僕と有川が通っていた学校は栃木県の田沼にあり、近所に野山や小川などが立ち並ぶ、今住んでいる東京よりも空が広い環境にあった。クラスメイトの職業も偶然なのか、農業や林業、町工場や自動車販売店の経営などを行っている家庭の子どもが多かった。
有川は佐野市内で比較的規模の大きな中古車販売店を経営している家の娘で、下に二つ離れた弟がいた。小学校に入学した時は別のクラスという事もあり意識することは無かったが、五年生のクラス替えの時に同じ班になった。
五年生にもなると、人間としての語彙力や経験も増えて、会話する内容が増えて長く続くようになった。時期を同じくして、僕たちはどんな人間になるのかという意識も生まれ始めていた。僕たちはどんな中学に進学し、何を学んでどんな大人になるのか。そういう事を考える時期でもあった。
ある日、授業の合間に僕と有川それに井沢の三人で〝これからどんな風になりたいか〟という会話をしたことがあった。
「辰已君は、小学校を卒業したらどうするの?」
有川は不意に僕に訊いてきた。深い思慮も何もない言葉だったから、僕の返事も軽いものになってしまった。
「一応、地元の中学に入って、公立高校を出てそのあとは専門学校に入るよ」
僕は自分の知識と、簡単な人生設計の路線図を組み合わせて答えた。有川の質問と同じくらい軽薄な返事だったが、その軽薄さを実感することは無かった。
「有川は予定あるの?」
「とりあえず大学に行く。そのあとから考える」
有川はほわんとした言葉で答えた。彼女も僕と同じように、漠然とした不安はあってもその正体を捉え切れていない状態だったのかもしれない。
「美咲ちゃん大学行くんだ」
同じ班の女子生徒である北本ゆきえが、意外そうな様子で呟いた。
「北本は行かないの?」
質問したのは井沢だった。
「わたし、実家がパン屋でしょ。それを継ぎたいの」
北本の言葉に僕は頷いた。そういう選択肢もあるなと思ってしまった。
それから一年後の六年生になった十月のある日、再び同じ班になった僕と有川は買い与えられた携帯電話の事について話していた。
「これからメアドとか交換する予定はあるの?」
僕は何気なく有川に質問した。まだLINEなどのメッセージアプリは無かったから、お互いの電話番号とメールアドレスを交換するしかなかった。
「あるよ。女子とは結構交換したけれど。まだ男子とはない」
ちょっと意外そうな表情で有川は答えた。僕に連絡手段の事で会話をするなど、想定していなかったのだろう。
「そうなんだ」
僕はちょっと動揺を押し殺すように答えた。
「辰已君はあれ、まだ女子と交換したことないの?」
「ないよ」
「じゃあ、私のアドレスと交換しようか」
僕の答えに、有川は臆することなく提案した。
「いいの?」
「いいよ。友達が多い方がいいじゃん」
有川は朗らかな言葉で答えてくれたので、僕も了承した。早速放課後、僕と有川は学校近くの川で落ち合って、お互いのメールアドレスを交換した。
「これでいろいろ連絡できるね」
「うん。よろしく」
僕は有川の言葉にそう答えた。山から吹く風が、冷たく硬質なものに変化してゆく季節だった。
それから僕と有川は十数回ほどメールのやり取りをしたが、深い関係に変化する内容は無かった。やがて別々の中学に進学したが、メールの回数はどんどん落ちて行って、アドレスを変更したのか連絡が付かなくなった。
そのあと僕は高校へと進学して前略プロフィールに自分を登録したが、有川の事を見つける事は出来なかった。
高校在学中、僕は大学で勉強する意欲が湧かずに、宇都宮にある技術系の専門学校に入った。そこでバイク関係の整備技術を学び、バーツメーカー勤務を経て小売店、そして今のバイクショップに就職した。バイク関係の仕事に就いたのは、十六才の時に不良の同級生たちが乗り回しているのを見て、自分に引け目を感じてしまったからだ。他人と比較するのは良くない。という事を聞かされて自分でも言い聞かせてきたつもりだったのだが、ある程度年齢を重ねると自分が劣っているような気がして、それを乗り越えたくてバイクに関わるようになったのだ。
僕は仕事場を転々としたが、働く業種は一つだった。機械を相手にし、その向こう側にいる人間も相手にする。基本的にはその構図の仕事が続いた。大人になって仕事こなし、収入を得るという事は自分の可能性を狭めて、平均化された人間になるという事だ。その中で透明な何かはくすんでしまうという事を、僕は社会人として学んだ。
有川の訃報を聞いた四日後、僕は店長に許可を貰ってバイクで地元に帰郷する事を決めた。実家に連絡すると、喪服は実家に僕用があるから、それを着ろという事らしい。
「体形は変わっていないよね?」
電話越しに弟の久夫は冗談めいたような言葉で訊いてきた。
「腕と手はゴツくなっているかもね」
僕も冗談交じりにそう答えた。弟は友人の知った僕を気遣って、少し砕けた表現をしたのかもしれない。おかげで少し心が解れたのが分かった。
「バイクで東京からこっちに来るんだよね?」
「そうだ。一応替えの下着とかは持ってゆく」
「道中気を付けてね。通夜は今日の午後五時半からだから」
「ありがとう。また連絡するよ」
僕はそこで弟との通話を切った。楽しくも悲しくもない、中庸な会話だった。
次の日、僕は朝八時に目覚めた。身支度を整え、外にカバーをかけて停めてあるハーレーダビッドソンのXL1200Rの元に向かった。カバーを外し、取り付けてあるサイドバックに必要な荷物を入れる。オープンフェイスタイプのヘルメットを被るとグローブをはめてバイクに跨り、エンジンに火を入れた。
アパートを後にして、栃木へと続く国道へと走り出す。空はどんよりとした鉛色で気分が沈んで弔いにはぴったりの空模様だった。
都内を抜けて埼玉、栃木へと向かう国道に入る。こういう地方に向かう道路はアメリカの幹線道路に似ているから、ハーレーには似合うだろう。
埼玉スタジアムが見える交差点に差し掛かると、赤信号で止まった。この先の浦和料金所から東北道自動車道に乗れば、田沼まで一時間半の道のりだ。
「さすらいのライダー、ブロンソン!」
不意にしわがれた男の声が聞こえた。何だろうと思って周囲を見回すと、土建屋のトラックの運転席に座る初老の男が、笑顔で僕を見ていた。
「君だよ。放浪の旅かい?」
「里帰りです」
僕が素っ気なく答えると、信号が青に変わった。僕はその土建屋のトラックを無視するようにして走り出し、高速道路の入り口へと向かった。
高速に入って、表示されている道路情報を確認する。僕が降りる予定の佐野スマートインターまで、大きな渋滞は無いらしい。時速百キロ程度で走れば、予定より早く実家に着くだろう。
途中の休憩を挟まずに、ひたすら目的の佐野スマートインターに向かって進む。途中、制限速度が一一〇キロになる区間を走ったが、ハーレーダビッドソンに乗り換えてから速度を上げて走ろうという気分になった事は無い。国産の大型バイクに乗っていた頃は、とにかく早く、早くという気持ちがあってスピードを上げていたが、ハーレーではゆっくり走るのが合っているような気がした。
佐野スマートインターから高速道路を降りて、下道を走って実家に向かう。久々に帰ってきた故郷の町並みは、大型の量販店や飲食店の新規店舗がオープンしているくらいで大きな変化は無かった。その変化の少なさに、僕は小さな安心感と虚しさを覚えた。自分や周囲の人間は子どもを授かり、あるいは有川のように命の灯を消してしまう人間もいるように、様々な変化が起きているのに、変化の少ない場所に来てしまうと、自分は本当に変化しているのだろうかと考えてしまった。
僕は国道を離れて、実家に向かうための県道に入った。実家に向かう二車線の県道の傍には、刈り取りを待つ稲穂たちが黄金色の実をつけて風に揺れている。この街に住んでいた時は単なる光景の一部としか見ていなかったのに、今となっては郷愁を僕に訴えてくる具体的な物になっていた。
稲穂を付けた水田と民家が転々と存在する地域を走り抜けると、僕が通っていた小学校に向かう道路を走っている事に気づいた。僕は通っていた小学校が今どうなっているのか確かめたくて、僕は軽く心を弾ませながらバイクを走らせた。
しばらくすると、反対車線側に僕が通った小学校の校舎が見えてきた。地方都市の中心部から外れた小学校だからだろうか、外壁の手入れがされておらず薄汚れていた。もう少し綺麗にしてくれてもいいのに。と思って近づくと、平日であるにも関わらず校門が閉じられ、その向こう側には支柱が建てられ緑色のネットで入り口が閉ざされているのが見えた。
僕は校門の前でバイクを停め、校名が掲げられていたはずの場所を見た。だがそこに僕が通った小学校の校名は掲げられていなかった。
「閉校したのか」
僕は力なく呟いた。同級生の訃報を受けて少年時代が遠くに行ってしまった気がしていたが、また一つ、立て続けに少年時代が遠ざかってしまった気分だ。
敗北感にも似た感触をかみしめながら、僕は実家に向かうため再び走り出した。太陽はまだ高い位置にあり、雲の切れ目から針で指すような日差しを僕に当ててくる。地元の学校に通っていた時はもうすぐ秋だと思っていたはずの空気や感触が、今となっては自分の心に痛みを伴わせるような感覚になっている。
僕の生まれ育った実家は、僕が上京した時の姿そのままで残っていた。家の前に停めてある車は、僕が上京した時より色あせていて、玄関前にあった鉢植えなどは、もう家族が手入れをしなくなったのか、多くが撤去されて少し寂しい感じになっていた。
僕は玄関近くにバイクを停めて、エンジンを切る。家の中で人が蠢く気配がすると、上下黒のスウェットという格好の弟が玄関から出てきた。
「ああ、お帰り」
「ただいま」
僕は力なく答えた。いつも思うのだが、もう居住しておらず生活の基盤が東京にある人間が実家に戻った時、「ただいま」と答えるのは正しいのだろうか。家族はこの街で生活しているが、自分の本当の居場所、立ち位置ではないような気がする。
「バイクを乗り換えたんだ」
「ああ、ハーレーだよ」
「前はなんだったっけ?」
「国産の大型バイクさ」
ヘルメットを脱ぎながら先ほどと同じ声のトーンで、僕は弟の会話を受け流した。声に力がなかったのはバイクで疲れているからではない。いろいろな感傷や違和感が僕の心から張りと輝きを奪っていたからだ。
「中に入りなよ。親父とお袋が待っているよ」
僕は無言で弟に促されるまま家に入った。家の中に入ると、少年時代にこの家で過ごしていた時の記憶が蘇って来たが、僕は三十代の独身男であったから、過去に戻ることはできなかった。
リビングに入ると、父がソファーに座ってお茶を飲みながら午後のワイドショーを観ていた。内容は昨今の中東情勢に関するものだったが、六十五歳になった地方都市の老人が国際社会に対してできる事などないと諦めているのか、ほとんど内容を聞き流している様子だった。父の傍らでは赤柴犬の賢太郎が寄り添い、ありのままでいいのですよと無言で訴えているようにも思えた。
「ただいま」
「おう、帰ったか」
父は力なく答えた。僕の少年時代、父は止まっているのが苦手な人間であったはずなのに、今は引退した競走馬のように覇気がない。
「風呂を沸かしてあるから、入って休め。通夜の時間は聞いているのか?」
「夕方の五時半から、佐野の斎場で」
僕は同級生からのグループLINEで知った時間を答えた。二時間は実家でのんびりできる計算だった。
「母さんは?」
「道の駅に買い出しに行っている。あと五分くらいで戻るはずだよ」
父はそう答えると、テレビを消して傍らにいる賢太郎と遊び始めた。
父の言葉通り、母は五分後に帰宅した。僕は家族が沸かしてくれた風呂に入り、汗を流して強張った筋肉をほぐした後、喪服のズボンとワイシャツを着た。ワイシャツはすんなり入ったが、ズボンはベルトを少し緩めなければいけなくなってしまった。
「待ち合わせとか、しているのかい?」
僕の湯飲みに母が緑茶を注ぎながら訊いてきた。
「午後五時に斎場に行くことになっているよ」
僕は先程と同じ言葉を母に返して、スマートフォンのグループLINEを開いた。トーク画面を確認すると、同級生たちの『準備完了』や『直接会場に向かいます』等の言葉が並んでいた。メッセージの向こう側にいる同級生たちの表情を想像した。ほぼ毎日顔を合わせていた頃ならば、悲しみに暮れて、顔をくしゃくしゃにして泣き心に修復不可能な折り目が付いてしまっただろう。だが今の僕達はもう三十代も半ばに差し掛かり、所帯や様々な社会的地位を手に入れているのだ。都合の悪い時だけ小学生に戻ることは許されなかったし、出来なかった。この僕でさえ、通っていた小学校が閉校になっても涙一つ流せなかったのだから。
「斎場までは、俺が送るよ」
僕の傍らでテレビを見ていた弟が何気なく呟いた。弟をタクシー替わりに使うのは、普段実家に貢献していない僕からすれば申し訳ない気がしたが、ありがたく弟に甘える事にした。
テレビを観てお茶と煎餅を口にして時間をつぶすと、僕は喪服のジャケットを着て黒いネクタイを締め、弟が運転する車に乗り込んだ。すでに日は傾き、外灯の少ない地域と相まって周囲には闇が深くなり始めている。東京に住んで時間が経ったせいだろうか、子ども時代には感じなかった地元の闇が、明確な恐怖となって僕に伸し掛かってくる。遠くに見える山のシルエットも、山のような形をした恐怖の集積物になってしまったような気がした。
「なあ」
苦しみから逃れるような気持ちで、僕は運転席の弟に声をかけた。
「なんだい?」
「お前の方は、何か変化があったとか無かったか。友達が引っ越したとか、新しい仕事を始めたとか」
僕の質問に弟は少し訝ったような表情をした。その表情は僕がよく知っていた少年時代のチャーミングな弟の表情ではなく、自分より下の世代に質問されて考える大人の表情だった。
「最近だと、同級生二人がマッチングアプリを使って結婚したことくらいかな。俺より冴えない奴らだったけれど、文明の利器を使ったら先に嫁を貰われたよ」
「そうか」
僕は闇に言霊が消えてしまうくらい、つまらなく答えた。この闇に対する僕の印象のように、世界は変わっている様子だった。
斎場にはそれからに十分ほどで付いた。整った服装で同級生たちと再会するなんて、ちょっとしたイベントだから、以前の少年時代の僕だったら心が弾んだだろう。だが入り口に筆で『故 有川美咲様告別式』という言葉が書かれた看板を目にして、僕を冴えない三十代の男に引き戻した。
入り口近くに弟が車を止めると、僕は「ありがとう」と弟に告げて、香典を持って車を降りた。
会場の入り口に並び、僕は参列者に知っている顔の人間がいないか探した。有川の職場の同僚か、あるいは高校、大学の友人だろうか。知らない顔の人間を何人か除外すると、見覚えのある女子生徒の顔を見つけた。同級生の訃報を聞いて神妙な面持ちになっていたが、愛嬌のある目元の形には変化が無かった。
「北本ゆきえさん?」
僕が記憶にある女子生徒の名前をつぶやくと、名前を呼ばれた北本は声をかけた僕に気づき、「辰已君?」と訊き返してきた。
「そうだよ。久しぶり」
「こちらこそ久しぶり、地元に帰って来たんだね」
北本は懐かしい顔を見つけたせいか、水がしみ込んだ後の乾いた土のように表情が少し明るくなった。数珠を持った左手を見ると、薬指に指輪がはめられているのに気が付いた。
「今は何をしているの?」
「今は苗字が変わって二児の母よ。実家のパン屋を継ごうと思ったんだけれど、去年店じまいしたの。今は給食センターで働いている」
「そうなんだ」
僕はまた力なく答えた。僕がまだ少年だった時、彼女は実家のパン屋を継いで精力的に働く姿を想像した物だったが、現実は残酷で、光や熱意を奪うものらしかった。
「辰已君は?」
「バイクの整備士。中古車の販売とか改造とかやるお店に勤めているよ。店内じゃナンバー2の地位」
「すごいじゃん」
北本は意外そうな顔をした。その小さな驚きの反応が、闇の中で人家の明りを見つけたような安らぎを僕に与えてくれた。
短い会話のあと、僕と北本は続々とやってくる同級生を出迎えた。本当なら久しぶりの再会を喜ぶべきなのに、ただ社交辞令のような挨拶や会話を繰り返すしかない。通夜だから仕方ないのだが。
葬儀場に呼ばれた僧侶が経を上げ始める。やがて葬儀会社の人に促され、焼香が始まった。僕も葬列の一員として、焼香台に向かう。焼香と線香の匂いに満たされた部屋に入ると、目の前に有川が収められた棺と遺影が目に入った。遺影はまだ健康だった二十代後半に、どこかのテーマパークで撮られた写真らしかった。
僕は遺族に一礼し、さらに有川の遺影に一礼して焼香をする。有川の遺族は涙を浮かべていたが、僕は悲しい気持ちにすらなれなかった。時間という残酷な存在が、僕と有川を友達から他人へと変化させてしまったのだろうか。
僕は焼香を終えて、また遺族に一礼して下がった。通夜の席では何を話すだろうか想像してみたが、自分たちの変化に関する身の上話になりそうだった。
(了)