【短編】死に戻り令嬢と顔のない執事
「金だけが取り柄の成金一族であるお前を役立ててやろうというのだ。俺の気遣いに感謝しろ」
傲慢で、相手が自分の思う通りに動くことを疑わない声。それを耳にした瞬間、まるで夢から醒めたようにリーシャの意識は突然その場に放り出された。
受け止めきれない量の色、音、匂い――いきなり切り替わった景色の情報を、五感のすべてが痛い程の刺激でリーシャに伝えてくる。
(今の声、間違いなくハロルド様のものだ。でも、どうして……? 一体、何が……)
圧倒的な情報量が処理しきれず、目は開いているのに目の前の状況が理解できない。
先程まで自分は、冷たい石の上で血を流して倒れていたはずだった。
骨が軋むような寒さと痛み。ガタガタ震えるたびに血が流れ出し、そしてさらに体温は失われていく。それはもはや骨が凍りついたかと思う程の苦しみで。
やがて意識が薄れていく中で柔らかな温かさとふわふわした浮遊感に包まれるようになり、これでようやく楽になれると安堵した……はずなのに。
「おい、聞いているのか!」
反応の悪い彼女に苛立ったように、目の前の男がガンと拳をテーブルに打ちつける。その行動までが、そっくり記憶の中の「彼」のものと同じだ。
(そんな……そんなはずはない。もしかして、これが走馬灯というものなの……?)
ずきりと目の奥が痛む。景色がぐるぐる回りはじめたようで、吐き気がする。
――何が起きたはわからなくても、今身を置いているこの時間はかつて自分が過ごしたものと同じ。
「いつまでも辛気くさい顔でうつむいているな、茶が不味くなるだろう」
立ち竦むリーシャを苦々しそうに一瞥し、ハロルドは顔をしかめた。
蜂蜜色のブロンドの髪とサファイアのような真っ青の瞳、抜けるような白い肌。高貴な人に相応しい美しい風貌のハロルド。
それなのに何処か崩れた印象を受けるのは、ひとえに本人の性格の所為だろう。滲み出る尊大さ、人を人とも思わぬ傲慢さがその視線、その口調から透けて見える。
「こんな女が、俺の婚約者だなんてまったく忌々しい。せいぜい成金自慢のその資産を使って、俺の役に立ってみせろ。そもそも……」
「失礼します、お嬢様。顔色がすぐれませんが、お身体の具合が良くないのでは?」
慇懃な口調ながらも、ハロルドの苦言を遮る声が響いた。
それと同時にがっしりとした体躯の男がハロルドの視線からリーシャを守るように立ち、彼女の手から脈を取りはじめる。
「貴方は……」
見覚えのない姿に戸惑いの声を上げるが、執事服に身を包んだその男は意に介さない。
「恐縮ですが、お嬢様の体調が悪いようですので本日の歓談はここまでとさせていただいてもよろしいでしょうか」
物腰は穏やかに、しかし断固とした口調でハロルドへ告げる声を、リーシャは他人事のように聞いていた。
「っ、誰が好き好んでこんな女と話がしたいと思うものか!」
怒りに身を任せて立ち上がったハロルドは、そんな彼女に指を突きつけて言い放つ。
「良いな。先程の挙げた素材、できるだけ早く用意をしておけ。お前と次に会うのは、それの手配が終わってからだ」
「……はい、承知いたしました」
頭を下げて恭順の意を示すと、もう興味はないとばかりにハロルドは彼女から背を向ける。
「おい、ティアラとの待ち合わせへ急ぐぞ。まったく、こんなところで時間を取られていたから、彼女と会う時間が減ってしまった……」
仮にも婚約者の屋敷に居るというのに、憚かることなく浮気相手の名を口にしながらその場を後にするハロルド。
その何処までも身勝手な姿を見送りながら、リーシャは複雑な想いを抱いていた。
(やはりそうだ、これはあの時と同じ光景……ということは、時が巻き戻っているの……?)
死にゆく間際の妄想だとしたら、あまりにも鮮明すぎる。そして走馬灯だとしたら、記憶と異なる会話をしている道理が通らない。
現実離れした発想だとしても、過去に戻ったと考えるのが一番納得感があった。
(でも、だとしたら……彼のこの依頼に応える訳にはいかない)
千々に乱れる思考に乱されながら、リーシャはそっと瞼を閉じる。
(だって私は……その依頼に応えたために、ハロルド様に殺されたのだから)
♢♦︎♢
「さっきはありがとう。実のところ少し気分が悪かったから、助かったわ」
ハロルドが帰ったのを確認して執事然した男に声を掛けると、男は安堵したように小さな笑みを浮かべた。
「あんな男のために無理をなさらないでください。あの男、結局お嬢様を心配するひと言すらなかったですね……」
「仕方ないわ、彼の言うとおり辛気くさい女だもの。気遣う必要も感じられないのでしょう」
溜め息をつきながら、部屋の壁に飾られた鏡へちらりと目を走らせた。記憶通りの姿がそこには映し出されている。
老人のような白い長髪は重くまっすぐに落ちていて、最近の流行りの柔らかな巻き毛風のセットはほぼ落ちているし、そもそも似合っていない。切れ長の薄い水色の瞳はキリリとしていて可愛さの欠片もなく、長身の身体は痩せて女性的な柔らかさからは程遠い。血管が透ける程に白い肌もそれだけ挙げれば長所だが、白い髪、水色の瞳と色素の薄いパーツが相まって、その佇まいはまるで亡霊のよう。
こうしてあらためて見ても、可愛さの欠片もない外見だ。可憐さに満ちたハロルドの浮気相手とは真逆の姿。
「辛気くさいなんて、とんでもない!」
彼女としては至極当然のことを口にしただけだったのに、男は憤ったようにその言葉を否定する。
「お嬢様のように美しい方など、他には居ないというのに。お嬢様の優美で綺麗な御姿は、流行などに左右されない、絶対のものです」
あまりに買いかぶった男の賛辞に苦笑を浮かべながらリーシャは立ち上がった。
「ありがとう、その言葉だけでも嬉しいわ。ひとまず、自室に下がらせてちょうだい」
「かしこまりました」
リーシャの言葉を聞いて、彼はテキパキとメイドに室内着の手配等を指示しはじめる。その手際は慣れたもので、彼がこの屋敷で長く働いていることを窺わせた。
(それなのに……どうして、私は彼のことを知らないのかしら……?)
過去に戻ったのだとしたら、知らない人物が居ることは不自然だ。
底知れぬ不安を覚えながら、リーシャはズキズキと痛みを訴えるこめかみを手のひらで押さえて自室へと向かった。
♢♦︎♢
「ハロルド様の要望された素材を確認しましたが……どれも稀少で一般には流通していないものばかりですね」
室内着に着替えてひと息ついたところで、リーシャの元に男は再び現れた。その姿を見るに、彼はどうやらリーシャ付きの執事らしい。
自分に執事など居ただろうか――そんな疑問をリーシャが抱えているうちに、男はひと呼吸置いて「お言葉ですが」と言葉を続ける。
「素材の中には、違法なものもいくつか含まれています。禁忌とされている呪いや、悪魔召喚に使われるもの……ハロルド様はそういった禁術に手を出そうとしているのかもしれません。手に入れること自体は可能ですが、いかがいたしましょう」
――悪魔召喚、という言葉にリーシャは心臓を鷲掴みされたような痛みを覚えた。
かつての彼女が手をつけたとされる禁術……悪魔召喚。
そのための素材を集めたことで、リーシャは罪に問われた。そして罪を裁かれる前に、口封じのために殺されてしまった。
利用されるだけされて殺されてしまったから結果はわからないけれど、リーシャに罪を押し付けたハロルドは結局、悪魔を召喚したのだろうか。そして、自身の望みを叶えたのだろうか――そんなことを考えながら、リーシャはゆっくりと首を振る。
「その件に関しては、すぐ動かなくても良いわ。少し考えさせてちょうだい」
なにしろその素材を集め終えたら、ハロルドに殺されてしまうのだ。これからどうすべきか、先に考えをまとめたい。
「……承知いたしました」
リーシャの答えが意外だったのだろう。少しだけ目を見開いてから、男は静かに一礼した。
(まぁ今までの私だったら、少しでも早くハロルドの依頼に応えようとしていたものね……彼に、そしてお父様に認められるために)
彼の反応に苦い納得感を覚えつつ、リーシャは目の前の見覚えのない男にそっと目を向ける。
リーシャの傍らに控え、彼女の次の言葉を待つ執事。
黒い髪は短く切り揃えられ、薄暗い室内でも光を反射してサラサラとこぼれている。うつむき加減でもわかる、すっと通った鼻梁と綺麗な首筋。背は長身のリーシャでも見上げる程に高い。黒い短髪とがっしりとした体躯は、執事というよりは護衛騎士の方が似合いそうな姿である。
年の頃は二十を少し過ぎたくらいだろうか。今年十八を迎えたリーシャより上には見えるが、その落ち着いた物腰のわりにはまだ年若い青年だ。
けれど不思議なことに、そうして個々のパーツがととのっていることは分かるのに、彼の外見は何処か漠然としていて記憶に残らない。目を凝らせば凝らす程正体が見えなくなるその感覚は、まるで夢の中で書を読もうとしている時のようだった。
ただひとつ確実に言えることは、いくら過去を浚っても彼に関する記憶は何もないということだけ。それは些か、不自然過ぎる程に。
「ねぇ」
声を掛けると、男はゆっくりとこちらを向く。そしてその瞳があらわになった途端、リーシャは思わず息を呑んだ。
今まで目にしたことのない、灰緑の瞳。ふたつの色が混じり合うような不思議な色調の瞳は、見ていて吸い込まれそうな程に深くて底が見えなかった。夜明けの空のような、黄昏時の影のような揺らめきでリーシャをその奥へと誘い込んでいく。
印象に残らない彼の姿の中で、その双眸だけはやけに鮮明にリーシャの記憶に刻み込まれる。
「貴方のその目……すごく、綺麗ね」
思わず言葉がこぼれ出した。その賛辞に、男は驚いたように顔を上げる。彼の表情に一瞬だけ歓喜と辛さのない混ぜになったやるせない感情が浮かび、そしてたちまちのうちに消えていった。
あまりに刹那の感情に、リーシャはその意味を読み解くことができない。
「貴方、名前は何というの」
「ツルギ、と申します」
突然名を問われたにも関わらず、答える声は落ち着いている。
「……そう。変わった名前ね」
「ロマの出身ですので。お嬢様に拾っていただき、この屋敷に置いていただけるようになりましたが」
「ロマの……」
ロマとは、定住せずに各地を渡り歩く民族のことだ。
音楽や踊り、占術などに秀でた者が多く、その実力は王城や貴族の館にも招かれる程に高い。そこで評価されて貴族の家に取り立てられるという話すら、珍しいものではなかった。
実際、婚約者であるハロルドの母親もかつてはロマの踊り子だった。
そこまで考えたリーシャは、ハロルドのことへと思考が誘導されて小さく息をついた。とにかく今は、落ち着いて考える時間が欲しい。
「今日はもう休むことにするわ」
「お薬、お持ちしましょうか」
「いえ、いいわ。疲れが出ただけだと思うから。貴方も下がってちょうだい」
「承知しました」
やがて足音が遠ざかっていく。
離れていく気配を耳で追いながら、リーシャはつい眉を顰めた。
――今去って行ったばかりの彼の顔が、上手く思い出せなかったのだ。
♢♦︎♢
――政略によって決められたハロルドとの婚姻。しかし、彼女にとってこの婚姻は幸せなものとは言いがたいものであった。
婚約者であるハロルドが彼女を尊重することはなく、リーシャは疎んじられる一方。そのくせ彼は自由に使えるリーシャの家の財産だけはアテにするのだから、タチが悪い。
(まぁ王族である彼がたかが伯爵家、しかも新興貴族のウチと婚約するなんて……不満を覚えるのも無理はないけれど)
人間性こそ問題があるものの、ハロルドは紛れもない第一王子。伯爵家に入らなければならないなんて、彼にとっては屈辱でしかないだろう。
王家と伯爵家……本来であれば不釣り合いな婚姻だ。しかし、この婚姻にはやむにやまれぬ事情が隠されていた。
実のところハロルドは第一王子でこそあるものの、王位継承権をほとんど有していない。王太子は第二王子であり、王位継承権としてはその次に王弟、従兄弟……と続いていく。彼の継承権は七番目だ。
その理由は、彼の出自にある。彼の母親は、踊り子なのだ。それも貴族籍どころか市民権すら持たない、ロマの一族の。それが王に見初められて後宮へと入り、ハロルドを産んだのである。
もちろん後宮に入るに当たって彼女は侯爵家の養子となり、戸籍上は貴族の一員となっている。しかし、その経緯は皆が知るところ。後ろ盾もろくに持たないその息子が王になるとは、誰も考えていない。
とはいえ、彼は第一王子だ。何の手も打たなければ、王位を争う火種となりかねない。
ということで、王家はハロルドがまだ幼い頃からその受け容れ先を探したのであった。……王族としてハロルドを尊重し、いずれは彼を(名目上でも良いから)家督に祀り上げてくれる都合の良い家を。
(……それが、我が家ってわけ。この話は、両家にとって都合の良い話だった)
バートン家は、三世代前に爵位が認められたばかりの新興貴族だ。精力的に流通事業に取り組み、事業を発展させてきた商家。そのため歴史の浅いバートン家を「成金バートン」と嘲笑う貴族は未だに多い。
だからこその、この婚姻なのだ。
王家は資産的に大きな力を持つバートン家を取り込むことができ、いずれは当主に王子を置くことができる。国の血流ともいえる流通を担うバートン家を味方につけることの利点は大きい。
そしてバートン家も王家とつながりを持つことが可能となり、王子を迎え入れることで箔がつく。どちらにとっても、都合が良い話。
そして、ハロルドは王太子教育から徹底的に排除されたのであった。
下手に才覚を示されたら、せっかく落ち着いた後継者問題が再燃してしまう。王位継承権を持たない彼は、愚かなぐらいが丁度良い――そんな王家の思惑通り、彼はすくすくと育った。それはもう、目を覆いたくなる程に我が儘かつ傲慢で無能な男に。
一方のリーシャはその逆だ。元よりその夫となるハロルドに、家を切り盛りする能力は求められていない。その分のしわ寄せが、すべてリーシャの肩にのしかかったのである。
そうして重圧に耐え、婚約者に疎んじられながらもリーシャはひたすらに努力を重ねてきた。その結果が……あのザマだ。
(だからもう、私はかつてのような我慢なんてしてやらない。この人生では、自分のやりたいように過ごすんだ……!)
ぎゅっと唇を引き結び、リーシャは顔を上げる。
せっかく手に入れた人生をやり直すチャンス。好きなことをして自分の人生を貫いてやる――!
♢♦︎♢
「ねぇ貴方。お祖父様に面会の約束を取り付けてもらえるかしら」
――翌日。もう名前も忘れた執事に短く告げると、彼は僅かに首を傾げた。
「大旦那様に、ですか。お言葉ですが、旦那様には……」
「当然、内密で。……頼めるかしら?」
はっきりと答えれば、執事は少しだけ驚きを見せるように眉を上げる。しかし、その端正な顔は少し視界から外しただけで、昨日と同様にリーシャの記憶からあっさりと滑り落ちていった。
声も顔も髪もととのっているというのに、それはまるで顔がない人間を相手にしているようだ。唯一ゆらめく灰緑の瞳だけが、リーシャの脳裏にしっかりと焼きつく。
「お父様に逆らえない、というのであれば無理は言わないわ。今の話は忘れてちょうだい」
その感覚が薄気味悪くてリーシャが話を切り上げようとしたところで、執事は慇懃な仕草で頭を下げた。
「いいえ、私の主人はお嬢様です。お嬢様のお望みとあらば、全力で応えてみせましょう。私は、貴女の忠実なる下僕ですから」
「…………」
その言葉に、リーシャは思わず言葉を呑み込む。自分に味方がいるということ自体は心強い話だ――その味方が正体不明の存在だということにさえ、目を瞑れば。
「貴方、名前は何というのだっけ」
二日続けて投げ掛けられる不躾な質問にも、執事は穏やかに答えた。
「ツルギです、お嬢様」
「そう……ツルギ。私ね、ハロルド様と婚約を解消しようと思うの」
正体不明の彼がどんな反応をするのか気になって正直に口にした言葉に、ツルギはふわりと唇を綻ばせた。
「よろしいかと存じます」
「貴方、驚かないのね」
「お嬢様が幸せになれるのでしたら、喜ばしいことですから」
さらりと返す主人を想うその言葉に、嘘は感じられない。優しい視線を向けられて、リーシャは何故か泣きたくなるような胸の痛みを覚えた。
そんな彼女を前に、執事は静かに頭を下げる。
「それでは、大旦那様にお会いするための手配、進めておきます」
リーシャの祖父であるジェドは、自由人だ。
商人には珍しい豪放磊落で、果断な性格。裏表がなく真っ直ぐな人柄の彼を慕う者は多く、当主の座を退いた今もなお彼の元には多くの客人が足を運んでいる。
……ただし。
実の息子、つまりリーシャの父との仲は険悪であった。
(その所為で、前の人生で私はお祖父様に会うことができなかったのよね)
遠い目をして、リーシャはため息をつく。
(でもきっと……私から会いたいと伝えれば、歓迎されることはなくても相談には乗ってくれるはず……)
色々な貴族と親交のある彼を味方につければ、できることもぐんと広がるだろう。
長い間不義理を続けてきた彼にそんな目的で再開することに幾分かの後ろめたさを抱えながらも、リーシャは次への行動に向けて想いを馳せたのであった。
♢♦︎♢
「おぉ、リーシャ! こんなに綺麗になって……わざわざこの老いぼれを訪ねに来るなんて、なんて優しい子だろう!」
「ご無沙汰しております、お祖父様。ご挨拶が滞っておりまして申し訳ありません」
――数日後。
ジェドの元を訪れたリーシャを、意外にも彼は大喜びで出迎えてくれた。
髪こそ真っ白に染まっているものの背筋はしゃんと伸びており、キラキラとした表情は精力に溢れてまだ若々しさを感じさせるジェド。その顔には満面の笑みを浮かべ、孫娘に久々に再会できた喜びをあらわにしていた。
「なぁに、気にするでない。どうせ、あの分からず屋が儂には会うなとでも厳命していたんじゃろ。それでもこの儂に会おうと心を決めてくれたことが、嬉しいよ。大抵のお願い事なら叶えてやりたくなるくらいには、の」
そう言ってジェドはイタズラっぽく片目を瞑ってみせる。
リーシャの思惑を見透かしながらも、それを快く受け止める度量。祖父のそんな態度に、敵わないなぁとリーシャはこっそり息を吐いた。
「どれ、まずは孫娘との再会の喜び、しっかりと味わせてくれ」
そんなことを言いながら、ジェドは両手を拡げてリーシャを抱き寄せた。昔から彼が好んでしていた家族間の挨拶だ。
記憶よりも随分と近い位置に祖父の頭があることに驚きながらも、リーシャは懐かしい感触にゆっくりと目を閉じる。包み込む温かな体温に、思わず涙が出そうになった。
自分が受け入れられているという安心感。こんな気持ちになったのは、一体いつ以来だっただろう。凝り固まった心が解けていくようだ。心が欲していた、家族の温もり。
子供の頃に戻ったような心地で、リーシャは祖父の抱擁を受け止める。その身体が離れる頃には、リーシャは今までにないほどのゆったりした心持ちになっていた。まるでジェドの魔法に掛かったような心地。
「さぁ、次はツルギ、お前さんだ」
リーシャから離れると、そう言ってジェドはツルギに向かってお茶目な笑みを浮かべる。
「いえ、オレは……」
慌てて身を引こうとするツルギを逃すものかと、ジェドはがっしりとその肩を捉えた。
「お前さんはいつも、ひとりで頑張りすぎる。リーシャのために尽力してくれるのはありがたいが、あまり抱え込みすぎるでない」
そう言いながら、ジェドはやさしくその背を包んでいく。しばらく硬直していたツルギは、やがて諦めたようにゆったりと目を閉じた。
彼の表情から少しずつ険しさが薄れていく。彼もまた、リーシャと同じようにジェドの魔法に掛けられたのだろう。
「……過分なお言葉、痛み入ります」
そう返す彼の声は少し掠れていて、そして何かに耐えるように語尾が震えていた。
「お祖父様は、ツルギと親しいの?」
一介の使用人を相手にしているとは思えないそんな距離の近さに、リーシャはつい口を挟んだ。
「そりゃまぁ、子供の頃のコイツを引き受けることを決めたのは、儂じゃからの。小さい頃から目を掛けたきたんじゃ、もう孫のようなものよ」
「……そうだったの」
思いがけないところで、ツルギの情報が手に入った。ということは、少なくとも巻き戻った「今」の状態では、彼が居ることは至極当然のことなのだろう。
そんなことを思ってひとりで頷いていると、ジェドは不思議そうに口を開く。
「覚えておらんのかね? そもそも行き倒れていた彼をどうしても助けたい、自分の使用人にするからと頼み込んだのはリーシャだったろうに」
「…………」
思いがけない過去を告げられるが、まるで他人の思い出話のようにしかリーシャには感じられない。
「その後あの馬鹿息子がハロルド殿下との婚約を勝手に決めてきて、もう付き合ってられんと儂は家を出たのじゃが……ずっとリーシャのことを心配しておったよ。だから、こうして相談に来てくれたことが本当に嬉しいとも」
「お祖父様……」
彼の瞳に宿る真摯な気遣いの色を見て、リーシャの胸は潰れそうになる。
「近頃ハロルド殿下は、リーシャを蔑ろにしてどこぞの貴族の娘にうつつを抜かしている……そんな話は聞いていたが、今日の相談はその話かな」
「えぇ。でもまずお聞きしたいのは……」
ごくりと唾を飲んでから、リーシャは意を決して声を出す。
「悪魔召喚についてなんです」
「悪魔召喚、か……」
突然告げられた言葉に少しだけ驚きを目に表しながらも、ジェドは落ち着いた声で呟いた。
「異界より悪魔を呼び寄せ、対価と引き換えに望みを叶えるための手段――悪魔召喚。その効果は絶大で、本来であれば叶うはずのない望みすら現実のものとできると言われている。……とまぁ、そんなお伽話の話だ」
しかし、と彼は鋭い眼光で虚空を睨む。
「そんなお伽話に対して、今もなお法律が機能しているというのは不思議な話ではある。我が国において悪魔召喚を執り行なった者は、それを試みた段階で問答無用の死罪――馬鹿らしい内容だが、かつては王家に逆らう者を処刑するための大義名分として持ち出されていた法律であろう。といっても儂の知る限りで近年、その沙汰が実際に下されたことはないがね」
「問答無用の、死罪……」
かつての自分が辿った道を思い出して、リーシャはギュッと右手を握り締める。
「そんな法律が作られたということは、かつて悪魔召喚という呪術は実際に存在したのかもしれぬ。……それがどこまで効果があるのかは置いといて、の」
ふぅ、とジェドは大きなため息を吐き出す。
「そして悪魔召喚といった呪術、儀式はロマの民の専門……もしやハロルドの奴、そんな禁術に手を染めようとしているのか。母親がロマの出身だし、いかにもそんな愚かな行為に手を出しそうじゃが……」
明言は避けて、リーシャは無言で微笑むにとどめた。あのひと言でそこまで見通すのかと驚きを覚えながらも、表面上は平静を取り繕うのを忘れない。
「まぁ言いたくないということであれば、良かろう。詮索はせぬ」
肩をすくめ、ジェドは最後に締めくくる。
「儂に言わせれば、悪魔召喚はお伽話の迷信じゃ。ただし、それはただのお伽話ではない。人を殺せるだけの力を秘めておる……。気をつけなさい、リーシャ。それに関わるのであれば、その心構えがないと呑まれるぞ」
その言葉を最後に、室内には静寂が訪れた。
――お伽話。本当に、そうだろうか。
ジェドの最後の言葉を聞いて、リーシャは胸の裡で呟く。
そんなことを言ったら、時を遡るなんてもっと荒唐無稽の話だ。それを身をもって経験している自分にしてみれば、悪魔の存在だって決して否定できるものではない。
「ありがとうございます、お祖父様。とてもタメになるお話でしたわ」
気を取り直したリーシャが礼を述べると、ジェドはホッとしたように破顔した。
「いやいや、こんな話が少しでも役に立ったのであれば幸いじゃ。……それで? そんなお伽話の情報を聞くためにこのジジィに会いに来たわけではなかろう?」
「はい」
しっかりと前を見据え、リーシャはまっすぐに告げる。
「お祖父様にはお願いがあるのです。私を、ある人物に繋げていただけませんか――」
リーシャの要望を最後まで聞くと、ジェドは大きな声で笑い出した。
「なるほど、面白い! まさか、彼に会いたいとは! ……よかろう。この儂に任せなさい」
「ありがとうございます、お祖父様!」
一瞬淑女の礼を取りかけて、リーシャはその動きをやめてジェドに飛びつくように抱きついた。
彼の眉尻が、さらに下がっていくのがわかった。
今目の前に居るのは、もはや人生で大成功を収めたやり手の商人ではない。ただの孫娘に甘い好々爺だ。
「ああ、可愛いリーシャ。いつでもこのジジィに会いにおいで。そなたの幸せを、儂も願っておるよ」
「はい、お祖父様もお元気で」
貴族の礼ではなく、家族の挨拶をして二人は離れる。
屋敷へと帰るリーシャの胸は、今までにない程にぽかぽかと温かくなっていた――。
♢♦︎♢
それから、リーシャの目まぐるしい日々が始まった。
彼女が無実の罪で断罪される日まで、時間はない。ジェドが繋いでくれたコネクションを武器に、リーシャは反撃の舞台を着実にととのえていく。
そんな彼女の傍には、常に執事がついていてくれた。彼女の手足となり、身を粉にして尽くしてくれる執事。最初こそ記憶にない彼に警戒心を抱いていたものの、今ではもう、彼は彼女の半身ともいえる存在にまでなっている。
……それなのに、リーシャは未だに彼の顔も名前も覚えられずにいた。朝を迎えるたびに彼の名前を尋ねる毎日。そのことに、リーシャは得体のしれない焦燥感に駆られる。
――何度聞いても記憶に残らない彼の名前、そして姿。
その名を耳にするたびに今度は絶対に忘れまいと強く思うのに、少し彼と離れただけでその記憶はすぐに薄れていく。まるで指の間からこぼれ落ちていく水のように。そしてそれはいくら振り返ろうと、思い出すことのできない記号となってしまうのだ。
そんな現象に対抗して、彼の名前を書きつけておこうとしたこともあった。しかし、そうすると今度はペンを手にした途端に、自分が何をしようとしていたのかすっぽりと抜けてしまう。
それはもはや、ツルギを記憶することは許さないという何らかの大きな意思が働いているかのようだった。
そんな不可思議な現象に、リーシャはただただ不安を覚える。
ツルギの正体が掴めなくて不安なのではない。いつか自分が彼のことを忘れ、彼の居ない生活を当然のものとして過ごすようになってしまうのではないかと不安なのだ。
現に、リーシャは死に戻る前の人生でツルギのことを覚えていない。
死に戻ってからの僅かな時間であっても、ツルギの存在はリーシャにとって非常に大きなものとなっていた。
常に彼女の傍に控え、彼女の感情に寄り添い、そして的確な助言を口にしてくれるツルギ。彼がリーシャの人生から消えてしまったら、リーシャは間違いなくひとりぼっちになってしまう。欠けた半身の正体を知らぬまま、それでも虚しさだけを抱えて生きていく――そんなの想像するだけで身震いがする。
「報告ありがとう、ツルギ」
今日もまた彼と言葉を交わしながら、リーシャはツルギのパーツひとつひとつを丁寧に視線でなぞる。それでも、その全体を形作る彼の顔は相変わらず掴めないけれど。
「ツルギ、何度でも貴方の名前を教えてね」
――そうやって名前を呼び続けることだけが、彼女にとって唯一彼を忘れないためにできる対抗策だから。
顔がなくても、名前を忘れても、彼は私の大切な執事だ。
向かい合う灰緑のゆらめく瞳がまっすぐにリーシャを映し出した。じっと視線をそらさず、ツルギは真摯に答える。
「もちろんです、お嬢様」
♢♦︎♢
「リーシャ・バートン! 本日をもって貴様との婚約を破棄させてもらう!」
――そして。断罪の舞台は、再び現実のものとなった。
ハロルド王子の宮で開かれた小規模のパーティ。その会場全体に響くような声で、ハロルドは唐突にリーシャに向かって宣言をする。例によって例のごとく、右腕には可愛らしいティアラを侍らせて。
参加者たちの視線がたちまちのうちに彼らに集まり、会場のざわめきは少しずつ小さくなっていった。
「公務に疲れたハロルド王子をいたわるため」という失笑したくなるような名目で開かれた今日のパーティは、前の人生で開かれたものとまったく同じ場となっていた。
己の賛同者ばかりで周りを固めた今日の彼を諌める者は、この場に誰も居ない。バートン家の財産を使って開催したパーティにもかかわらず今日もリーシャを見下した彼の行動は、いっそ清々しい程に傍若無人だ。
「婚約破棄、ですか……理由を、お聞かせ願えますでしょうか」
とうとう始まった――込み上げる緊張と興奮を表に出さないように気をつけつつ、リーシャは深く腰を折って目を伏せる。
「ここに来てもまだシラを切るか!」
大袈裟な仕草でリーシャへと指を突きつけると、ハロルドはかつてと同じ罪状を大きな声で宣言する。
「貴様は我が真実の愛の相手、ティアラに嫉妬し、彼女を排するために禁忌に手を出した。既に証拠は上がっている。悪魔召喚に手を出し、ティアラを呪殺しようとした魔女め! 報いを受けるが良い!」
ハロルドが手を挙げれば、手際が良すぎる程に素早く衛兵がリーシャを取り囲んだ。
当時はその怒涛の展開に、唖然として何もできなかったものだ。しかし、今回のリーシャは怯むことなくその場でじっと頭を下げたまま、落ち着いて口を開く。
「どうして私が、ティアラ様を害そうなどと?」
「っ、あくまでトボけるつもりか! お前は婚約者でありながらあまりにも至らなかったために、俺の愛を受けることができなかった。そしてその事実を認めることができず、俺の真実の愛の相手であるティアラに嫉妬したのだろう!」
あまりにも一方的な言い分。しかし、彼の暴走を諌める者は誰も居ない。そんな敵ばかりの空間の中で、リーシャは気丈に顔を上げる。
「私がティアラ様に嫉妬するわけがありません」
キッパリとした断言。
凛とした声が、息を呑む静寂の中で会場の空気を震わせる。
「――だって私たちの婚約は、既に解消されているのですから」
予想外の彼女の言葉に、会場全体が不吉な程にしんと静まり返った。
「な、な……」
告げる言葉が見つからないというように、ハロルドはわなわなと唇を震わせる。
「何を、馬鹿なことを……この婚姻が、そう簡単に覆るわけがない。そうだ、バートン家がそんなこと承知するものか!」
自分でその婚約を破棄しようとしておきながら、ハロルドは平気でそんなことを宣う。
「ああ。だから、私が間に入ったんだ」
新しい第三の声が、この凍りついた会場に割って入った。
その声に振り向いたハロルドは、喘ぐように大きく息をする。
「なっ……貴様は……」
「リロイ王太子殿下!」
ハロルドよりも、周囲の反応の方が早かった。
次々と床に膝をつき、臣下の礼をとり始める取り巻きたち。そんな中でハロルドだけが取り残され、喘ぐように声を絞り出す。
「何故、お前がここに……」
――リロイ王太子。ハロルドの弟であり、正妃の長男として王位継承権最上位に認められた存在。
立場的に彼を追い出すこともできず、ハロルドは呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。
会場の空気をあっという間に支配してしまったリロイは、涼しい顔で口を開いた。
「今、兄上が挙げていたリーシャ嬢の婚約について、話をするためですよ。貴方とリーシャ嬢との婚約が既に解消されていることは、私が証言しましょう。なにしろ父上に話を繋いだのは、私ですから」
「なんの、権限があって、貴様が……!」
混乱の渦中にありながらもハロルドはリロイを邪魔者と見定め、憤怒に満ちた声で彼に迫る。
「わかりませんか」
ピシャリと冷たく、リロイはハロルドの恫喝を跳ね除けた。
「兄上の策謀は、既に露呈しているということですよ。国家擾乱を企んだ、貴方の罪は」
「は……?」
「城下町の青い屋根のタウンハウス」
端的にリロイがそう告げると、ぽかんとしていたハロルドの顔は見る見るうちに青褪めていく。
「書斎の本棚裏の隠し部屋。貴方が設置した本当の悪魔召喚の陣は、既に衛兵たちが抑えています。婚約者に罪をなすりつけるくらいだから、兄上もよくご存知でしょう。悪魔召喚の試みは、死罪に当たると」
「そ、それは……」
苦しそうに何とか言い訳を探そうとするハロルドを前に、リロイは容赦なく言葉を続ける。
「貴方がその浮気相手に唆されて、王太子の座に就こうと画策していることは既に露見しています。悪魔と契約して、一体何をしようとしていたのか……これからゆっくり聞かせてもらいましょうか」
連れて行け、とひと言リロイが命じれば二人はあっという間に捕縛されてしまう。
「離せ、俺を誰だと思っている……! お前ら後で、覚えていろよ……!」
「いやっ、放して……! ハロルド様、助けて……!」
最後まで自分たちの罪を認めぬまま、二人は衛兵に無理矢理連行されていく。しばらく抵抗する声は聞こえたものの、やがて物音は遠ざかり、そして静寂へと飲み込まれていった。
♢♦︎♢
「リーシャ嬢、今回の件、情報の提供に感謝する」
彼らが完全に排除されたのを確認してから、リロイはリーシャへと向き直った。
「臣下として、当然のことをしたまでですわ」
涼しい顔で答えながらも、リーシャは内心で安堵の息をつく。
祖父にお願いして、繋いでもらったリロイとの縁。それを駆使しても、ハロルドの企みを暴くにはあまりにも時間が足りなかった。
なんとかこうして破滅の未来を回避できたことは、もはや奇跡にも近い。自分ひとりの力では、到底成し遂げられなかったであろう結末。
「今回のこの件は、リーシャ嬢の勇気ある告発により明るみに出た。誉れ高き彼女の英断に、拍手を!」
会場中に響き渡るリロイの言葉に、参加者たちは一斉に手を鳴らしはじめた。
それはやがて嵐のような拍手となって、リーシャに降り注ぐ。
――終わったのだ、とリーシャはその拍手にカーテシーで応えながら呆然と胸の裡で呟いた。
破滅の運命から逃れることができた、私の願いは達成された――遅れてやってきた実感がじわじわと身体に染み渡っていく。
こみあげる達成感に唇を綻ばせて、カーテシーを終えたリーシャはその喜びを伝えようと反射的に右後ろを振り向いた。
――誰も居ない。
その視線の先に広がる虚空を目の当たりにして、彼女の笑みは凍りつく。……私は一体、誰に笑いかけようとしていた?
黒いモヤが身体の中に広がるように、不安が彼女の胸に広がっていく。正体のわからない焦燥感。心拍数が苦しいほどに上がっていく。
息苦しさを覚えながら、リーシャは救いを求めるように盛り上がる会場内を見渡した。
……右。居ない。
……左。居ない。
誰を探しているのかもわからないのに、視線は会場内をうろうろと彷徨う。
「リーシャ嬢!?」
気がつけば、リーシャは踵を返して駆け出していた。リロイの声が後ろから聞こえるが、振り返る余裕はない。体当たりするように扉を開き、肩で息をしながら彼女は誰かを求めて走る。
走る。走る。走る。
驚いたように彼女を見やる周囲に目線を走らせるが、これだ、と思う人影はなかなか見つからない。それでも、彼女は走り続ける。
――やがて。
「待って!!」
庭の木立に消えようとする背中に向けて、リーシャはあらん限りの声で叫んだのであった。
♢♦︎♢
――ただ、彼女が笑ってくれれば良かった。
それだけだったのに。
それだけの願いを叶えるのが、どうしてこんなにも難しいのだろう。
ロマの民として生まれたツルギは、子供のころから家族というものに縁がない人生を送っていた。
母親は小さいころに亡くなったために顔も覚えておらず、父親に至っては誰かもわかっていない。彼が家族と呼べる唯一の存在は、武人である祖父ひとりだけ。
「気味悪い目でこっち見んな、呪われるー!」
「お前なんて、あっち行け!」
両親が居ないうえに変わった瞳の色をしていたツルギは、一族の中であからさまに異分子として扱われていた。祖父以外に親しい者はなく、周囲からは父親のわからない不気味な目の子供と蔑まれる日々。
そして十になったばかりの頃、唯一の肉親であり庇護者であった祖父も呆気なく死んでしまった。それからすぐのことであった――体調を崩し寝込んでいた彼が、ロマの仲間たちに捨てられたのは。
打ち捨てられた小屋の中で襲われる高熱と割れるような頭の痛みに、ツルギは己の死が近づいていることを悟った。――恐怖はない。ただ、虚しいと思うだけだ。
惜しむような何かがある訳でもなく、ツルギは無抵抗に意識を手放す……。
それから、どれほど経ったことだろう。柔らかな陽射しが、瞼の裏で優しく彼を照らすのを感じた。そっと触れられる柔らかな感触は、ツルギがしばらく忘れていた温もり。
意識を失うように眠っていたツルギは、その気配にぼんやりと目を覚ます。
「ぅ……」
「大丈夫? 声は出せる? 気分はどう?」
うっすら目を開くと、少女特有の舌足らずで高い声が矢継ぎ早にツルギに問いを投げかけた。
まだ焦点の合わない視界で、ツルギはその声のする方向へ緩慢に目を向ける。
「……っ!」
天使が迎えに来たのかと、思わず息を呑んだ。
人形のように美しい少女が、自分の顔を至近距離で覗き込んでいたからだ。高熱で涙の滲んでいた視界は光すらも彼女の一部かのように取り込み、その姿をくっきり浮き上がらせる。
もはや神々しいとすら言えるその輝き。その光に、もしかして自分はもう死んでいるのだろうかと、ツルギは半ば本気で考えていた。声を出すことも忘れて、少女に見惚れてしまう。
「熱はだいぶ下がったと思うけど……まだ喉が痛むのかしら。ゆっくりと寝てちょうだい」
まだ幼いのにませた口調でそんなことを言うと、「あら」と少女はツルギと目を合わせて嬉しそうに微笑んだ。
――ああ、その瞬間をツルギは決して忘れることができないだろう。花の綻ぶような可憐な微笑みと共に、天使のような彼女は言ったのだ。
「あなたの目、とっても綺麗ね」と。
ロマの人間から「不吉だ」と謗りを受けてきた瞳を。ツルギですら重荷にしか思っていなかった疎ましいその色を。
何も知らない彼女はただ、「綺麗」と。そう、言ってくれた。
――それこそが、ツルギが生涯忠誠を尽くす主人を見つけた瞬間であった。
その日からずっと、ツルギはリーシャのために生きてきた。彼女の幸せを願い、笑顔を願い、そのために骨身を惜しまず尽力した。
ツルギはただ、リーシャが笑ってくれればそれで良かった。
だからこそ、ハロルドのことが許せなかったのだ。リーシャを振り回し、傷つけ、彼女の献身を歯牙にも掛けない男。ツルギ以上に、リーシャを幸せにすることのない存在。……それなのに何もできない自分が歯痒かった。
リーシャがいっそ逃げ出したいと言ってくれればできることもあったのに、責任感が強い彼女がそんなことを口にするわけもなく。弱音を吐くことなく無理な笑顔で笑って、ひたすら耐えて。
――そして彼女は呆気なく、無実の罪で投獄されてしまった。
あの男の愚行が婚約破棄だけであったなら。
むしろツルギはそれを喜んだことであろう。彼女が実家から勘当されようと、社交界から後ろ指を指されようと自分が守るつもりだった。
大切に大切に彼女を保護して、外の世界から遠ざけて。二度と傷つくことのないように心地好い空間にリーシャを閉じ込めて、爪の先までたっぷり甘やかしてあげたのに。
それなのに、愚かにもあの男はリーシャにありもしない罪をなすりつけたのだ。彼女を開放することなく、あの男は彼女の死すらしゃぶり尽くそうとしている。
許せない。許すものか。絶対に、後悔させてみせる――!
激情に身を焦がしながらも、ツルギは冷静であった。今大事なのは何よりもまず、リーシャの無実を証明して身の安全を確保することだ。
そのために休む間もなくツルギはあちこちを奔走し、情報をかき集めた。
寝る間を惜しんで駆けずり回って、どんな小さな情報でも確かめて。
……そして、その執念がついにそれを見つけ出したのである。
「あった、これだ……!」
喜びの声がツルギの唇から小さく洩れた。
城下町にある青い屋根のタウンハウス。事前の情報通りにあった隠し部屋へと足を踏み入れたツルギは、そこでようやく目的のものを見つけることができた。
彼の足元にあるのは、精緻な書き込みの為された召喚陣。ほぼ完成品に等しいそれは一箇所だけ……代償となる贄の文言だけ空白となっている。
――今回の件でリーシャが用意したとされた悪魔召喚の陣。
それがよくできたニセモノであることに気づけたのは、祖父からロマの技を学んでいたツルギだけであろう。それの意味することに気がついたのも。
すなわち、悪魔召喚はただリーシャを断罪し処分するための手段ではなく、それ自体に目的があるのだと。
であれば、必ず本物の召喚陣があるはず。それさえ見つけられれば、リーシャの潔白は証明できる……そのために、ツルギは必死にその証拠を探してきたのだ。
ようやく見つけた――リーシャが連れ去られてから数日間ロクな睡眠もとっていないツルギは、またとない証拠を前に疲弊とも安堵ともわからない溜め息を吐き出す。
――その時だった。
今まで何の反応も示さなかった召喚陣が、突然仄暗い光を放ちはじめたのは。血のように紅い文言が召喚陣の上で妖しく燃えはじめ、そして踊るように身をくねらせていく。
「…………っ!?」
何が起きたのかと呆然と佇むツルギの目の前で、陣の中には新たな文字が生成されはじめる。空白だった贄の欄に記されていく、あってはならない名前――『リーシャ・バートン』。その名前から、まるで彼女の身体から流れ落ちるように朱い鮮血がどくどくと滲み出る。
「嘘だっ、まだ裁判まで日があるはず……!」
「ふふ。堪え性のないあの男に、そこまで待つような余裕なんてあるわけないじゃない。対価は、確かに受け取ったわ」
「っ、誰だ……!」
思わず洩れた彼の呟きに答える、突然の声。
ばっと顔を上げたツルギの目に飛び込んできたのは、召喚陣の縁に腰掛けた男の姿であった。下半身は陣の中央に沈み込んだまま、男は艶やかな微笑みを浮かべて「ハァイ♪」とツルギに向かって親しげに手を振ってみせる。
「対価って……! まさか、お嬢様は……!」
「はいはい、大袈裟に騒がないの。アナタ、本当はもう、どういう状況かわかっちゃっているんでショ? アナタの大切なオジョーサマは、もう居ない。贄として捧げられて……召喚の儀は、完成した。だから、ワタシがここに居るってワケ。……あの王子、ナヨナヨしたお坊ちゃんかと思ってたら、自分で最後の手を下すなんてやるじゃない。チョット見直しちゃった」
「……っ!」
その言葉で、ツルギは自分が間に合わなかったことを察する。裁判まではまだ時間があると思っていたのに、あの男はどこまでも姑息で無法であった――リーシャは最後のトリガーである贄として利用され、裁きを受けることも許されなかったのだ。
言葉をなくすツルギを前に、突如現れた男は「よいしょ、と」と召喚陣の中央に沈んでいた半身を引き上げてゆっくりと立ち上がる。
「こんにちは♪ ワタシの名前は、グィニードサガン。グィニードって呼んで頂戴。様付けも要らないから」
「貴方は……」
魂を抜かれたように立ち尽くすツルギに、グィニードと名乗る男は「シィー」と人差し指を唇に当てると、軽くウインクをしてみせる。
「ワタシが何者かなんてツマラナイこと、訊かないでね? 賢いアナタなら、……わかるでショ?」
ニンマリと唇を吊り上げて囁くグィニードの姿は、軽い口調とは裏腹にこの世のものとは思えない程美しい。
均整のとれた肉体に、この世の闇を煎じ詰めたような漆黒の髪。そして日差しの気配を感じさせない蒼白い顔の両側には、捻れたツノが生えている。見るからに人間ではない、異端の存在。
温度のない視線に射すくめられ、ツルギは背筋に氷を押し当てられたような寒気を覚えてぞくりと身を震わせた。
「……祖父からお聞きしています」
言うべき言葉を考えながら、ツルギは慎重に口を開く。
「悪魔召喚とは、願いを叶える術ではないのだと。これはあくまで『気まぐれな隣人』を呼び寄せる手段で……ここまで払った対価は、それだけのためのものに過ぎないのだと」
「あら、そこまでちゃんと伝承が残っていたなんて驚き。あの王子はそんなコト、ちっとも知らなさそうだったけれど」
揶揄うような言葉と共に、グィニードは首を傾げる。
「それで? アナタは何を考えているのかしら?」
「それなら『気まぐれな隣人』よ、貴方は召喚主ではなく俺と取引をすることも可能、なのでは?」
「…………」
何も答えずにグィニードは無言でツルギの言葉の続きを催促する。そんな彼に向かって、ツルギは躊躇いなくがばりと頭を下げた。
「払えるモノなら何でも払います。俺の命を捧げたって構いません。だから、お願いします。どうか……どうか、お嬢様をこの馬鹿げた死の運命から救ってほしい。幸せに生きられる道を、そのチャンスを、いただけないでしょうか!」
「へぇ? 何でもする、って言うだけなら簡単なのよね。彼女のタメに今すぐ死ね、って言われて果たして本当にできるのかしら?」
冷めたグィニードの声にも、ツルギは怯まない。
「ええ。それで彼女が、幸せになれるなら。それさえ成し遂げられるのであれば……俺は、この世界を差し出せと言われても構いません」
「この世界を、ですって……?」
思いも寄らないことを言われた、とグィニードは口に手を当てる。
しばし呆気に取られた顔をしてから、彼は肩を震わせて笑いはじめた。くつくつと忍び笑う声は、やがて部屋を震わせる程の哄笑となる。
「想い人のタメなら世界すら犠牲にする……? ふふっ、美談に見せかけてなんたる傲慢、なんたる横暴なの!」
人ならざる美しい生き物は、嘲るような言葉と共に天を仰いだ。
「そう、それだからこそ人間は面白いのよ! 要人の暗殺なんてツマラナイ仕事、何を言われようと引き受けるつもりはなかったけど、そんな願いならワタシも滾るというもの!」
ビシリとツルギを指差して、グィニードは妖艶に笑む。
「己の幸運に感謝することね。他の同族と違って、ワタシは血や争いを好む野蛮なタイプじゃないの。ワタシが好きなのは苦悩、悲嘆、そしてその後の歓喜。――良いわ、アナタの願いを叶えてあげましょう。アナタと、アナタの大切なお嬢様の時間を戻してあげるわ。対価は……」
少し思考を巡らせてから、グィニードはポンと手を打った。
「彼女が持つ、アナタに関する記憶……とか面白いんじゃない? 過去から未来に亘って、彼女はアナタを覚えられない。最初は顔、そして名前……やがてアナタの存在すら、彼女は忘れてしまうでしょう。少し側を離れただけで、アナタという存在は彼女の記憶から消えてしまう」
どういうことかわかる? とツルギの顔を覗き込むグィニードの表情は、悪戯を思いついた子供のように無邪気で残酷だ。
「アナタがいくら彼女に尽くそうと、それはすぐに忘れられてしまう。アナタの献身は、いつまで経っても報われない。――そんな一方的で歪な関係が、果たしてどれだけ続くことかしら」
「なんだ、そんなこと」
しかし仄暗いグィニードの嘲弄とは対照的に、それを聞いたツルギの表情は晴れやかであった。
「それなら俺はもう、とっくに報われている」
――リーシャと初めて出会ったあの日に。
彼女はツルギ本人すら諦めていた自分の生命を、拾ってくれた。今まで見つけられなかった己の価値を、見つけてくれた。それは、彼が初めて手にした救いであった。
だからもう、それだけで十分なのだ。彼女に忘れられようと、自分がその思い出を忘れることは決してないのだから。その記憶ひとつには、彼女のことを一生守り抜くだけの価値がある。
――彼女の中に、自分が居なくても構わない。彼女が幸せに笑えるのなら。
そして……少しだけ贅沢を言うのなら、そんな彼女の姿を見られたらそれで良い。
「提案を受け入れましょう。契約を、お願いします」
静かな声でツルギが答えれば、グィニードはつまらなさそうな顔で片眉を上げる。
「じゃあ、契約成立ね? 観客としてはここで苦悩してもらいたかったところだけれど……まぁ良いワ。……あ、もちろんこの契約のことを口外することも禁止よ? せいぜい、正体不明の存在として彼女に怪しまれなさい」
「お嬢様が救われるなら、そんなこと問題にもなりません」
きっぱりとそう返すツルギに、グィニードは得体の知れないものを目にしたような視線を向ける。
「それだけ拗らせた執着を、強い忠誠心に捻じ曲げるなんて……本当に、アナタたち人間って不思議な生き物。じゃ、せいぜい頑張ってワタシを楽しませてネ。アナタ達の足掻く様を見届けてあげるから」
そう言うとグィニードは無造作に片手を上げてパチンと指を鳴らした。
途端にツルギの周囲を薄紫色の旋風が吹きはじめる。風は金色に光る不思議な文字を纏いながら、ツルギの姿を覆い隠すように徐々に強く舞い上がっていく。
ツルギの存在を外界から隔絶させるような強い風。その風に覆われてグィニードの姿と声は遠ざかっていく。
その姿が完全に見えなくなる直前になってから、「あぁ、そういえば」とグィニードは思い出したように口を開いた。
「言い忘れてたけどワタシ……意外とハッピーエンドが好きなのよ?」
じゃぁネ♪、と投げキッスを送るグィニードの姿は、もうツルギの目には届かない。
吹きつける風の強さに目を閉じていたツルギがやがて再び目を開けた時には――既に、過去への転送は行われた後であった。
♢♦︎♢
「貴方のその目……すごく、綺麗ね」
やり直しを始めたばかりの頃に、リーシャから告げられた言葉。その初めて出会った時と変わらぬ彼女の言葉に、ツルギが身を震わせる程の歓喜を覚えたのは記憶に新しい。
グィニードとの契約通り、リーシャはツルギのことを覚えていなかった。それでも、彼女は変わらず彼の瞳を好いてくれたのだ。
リーシャが、目の前で生きている。そして自分を拒まずに受け入れてくれている――それだけで、ツルギは何もかもを捧げても構わないと、心の底から思ったのであった。
――そうして始まった二週目の人生。しかし、その進む方向は思ってもみないものであった。
ツルギが変えようとしていた彼女の破滅の未来を、リーシャは自身の力で変えようと動き出したのだ。そうして自らの意思で運命を切り開いていくリーシャの行動力は、かつての姿とはかけ離れたものであった。
以前の彼女は周囲に気を遣い、求められる己の役割を果たすことを自らの使命としていた。
しかし、今は違う。彼女は自分を道具としてしか捉えていない周囲に見切りをつけ、殺される未来に抗うために戦いはじめた。
強い意思を持ち、やりたいことに挑戦するリーシャ。その姿は今まで以上に美しく、そして魅力に溢れていた。
嬉しそうに輝いた顔、楽しそうに唇を綻ばせる笑顔、期待と緊張に張り詰めた真剣な顔――そんな初めて見せる彼女の表情ひとつひとつにツルギは魅了され、目を奪われた。その輝きが、眩しかった。
そして同時にそれが苦しさを伴うものであることに気がついた時、ツルギは雷に打たれたような衝撃を受けたのであった。
――彼女が幸せになれば、それで良いと思っていた。そのはずだったのに。
自分を信頼して見せてくれる彼女の心からの笑みを、そして他の誰にも見せたことのない彼女の悲しみの涙を。いつまでも自分のものにしたいと……いつしかそんなことを願ってしまっていた。
それが危険な願望だということに、ツルギはすぐに気がついた。この気持ちが膨らんでしまったら、きっと自分はリーシャのそばを片時も離れられなくなってしまう。彼女が自由に羽ばたくことを恐れて、リーシャを鳥籠に閉じ込めてしまいたくなる。
彼女を自分だけのモノにしたいという醜い欲望がじわじわと心を侵しつつあることに、ツルギはしっかりと自覚していた。
――それこそが、悪魔との契約の恐ろしいところなのだ。
彼らは間違いなく公正だ。願ったことは遺漏なく実行されるし、求めた以上の対価を奪っていくこともない。
しかし、彼らの求める対価は契約者の心の柔らかいところを確実に抉っていて、契約した人間の心を蝕むのだ。望みの叶った契約者の先に用意されているのは、破滅へと続く綺麗な一本道。
それ故に、悪魔との契約はどこまでも慎重に行わなければならない。
だから、これ以上自分の欲望が膨れ上がる前に。取り返しがつかなくなる前に一旦リーシャと距離を置こうと、ツルギは苦渋の決断を下したのであった。
ハロルドによる断罪が回避された今、リーシャの身を脅かす危険はひとまず去ったと考えて良いだろう。少しの間彼女から離れれば、契約の効果通りリーシャは自分のことを忘れるはずだ。
そうしたら、ただの使用人と主人の関係に戻ることができる。
一度二人の信頼関係をゼロに戻して彼女の特別な一面を目にすることがなくなれば……心を許した笑顔が自分に向けられなくなれば、こんな醜い衝動からは逃れられる――そう、考えたのだ。
張り裂けそうな心の痛みを無視して、ツルギはパーティの喧騒が届かない屋敷の外へと足を急がせる。一度足を止めてしまったら、そこからもう進めなくなってしまいそうだ。
そうして必死の思いで逃げるように庭へと出たところで……「待って!」と、聞こえるはずのないリーシャの声が後ろから響いたのであった。
♢♦︎♢
「お願い……待って!」
遠ざかっていく背中に向かって、リーシャはあらん限りの声を振り絞った。
見覚えのある背中は、その声を聞いて静かに足を止める。しかし、前を向いたまま背中の主はこちらを向こうとはしてくれない。
振り向かない彼を前に、リーシャは気持ちを落ち着かせようと静かに深呼吸を繰り返す。――何を探しているのかもわからず、ただ自分に足りない「何か」を追って駆け出していたリーシャ。それは深い霧の中を手探りで進んでいくようで、足元すらおぼつかない不安な探索であった。
でも、その背中を見た瞬間に不安は確信へと変わった。欠けているのは彼だ、と相手の名前もわからないのに実感を掴む。
「お願い……こっちを向いて」
呼びかける名前がわからなくて、震える声でリーシャは懇願した。
少しだけ躊躇いを見せてから、目の前の彼はゆっくりと振り返る。黒い髪がふわりと風に靡き、その顔を露わにした。キリリとした眉、すっと通った鼻筋、薄い唇……そんな精悍な顔立ちがリーシャの記憶に残ることなくするするとこぼれ落ちていく中で、ただ彼女を見つめる灰緑の瞳だけがリーシャの魂を撃ち抜いた。
優しく、甘く、それでいて苛烈な程に熱の籠もった灰緑の瞳。リーシャをずっと見守ってきてくれた、忘れたくないその視線。
――間違いない、彼だ。私の執事だ。
「お嬢様、どうして……」
執事の言葉を最後まで待たず、リーシャはその身体に飛びついていた。
淑女らしさなんて気にする余裕もなく、化粧や髪型が崩れることも構わなかった。ただ、彼が離れてしまうことだけが不安だった。
震える彼女の身体を抱き止めてから、彼は躊躇いがちにリーシャの肩に手を伸ばす。
「何かあったのですか? まだ、パーティの途中では?」
驚きを滲ませながらも落ち着きを保った彼の言葉に、リーシャはイヤイヤと首を振った。
「貴方のことが気になって、それどころじゃなかったの! 私を置いて、何処に行こうとしていたの? お願いだから、居なくならないで。私のそばに居て……! 私は……」
一瞬だけ言い淀んでから、リーシャは激情を迸らせるように言葉を放つ。
「貴方のことが、好きなの! 貴方の名前も顔も覚えられない私がこんなことを言うのおかしいってわかっているけれど……でも、ずっと貴方だけが私の心の支えだった。先の見えない真っ暗な現実で、貴方が私の手を引いてくれた。そんな貴方のことを、私の大切な半身を忘れたくないの! 貴方を愛しているから!」
「お嬢様……」
呆然とリーシャの告白を聞いてから、執事は苦しそうに首を振る。
「そんな、一介の使用人の俺では貴女を幸せにできません。俺は、お嬢様に幸せになって欲しいんです。そのために、俺は……」
「貴方のそばに居られれば、それで幸せよ!」
噛みつくような勢いでリーシャが断言すると、執事は驚いたように目を瞬かせる。
これ以上彼と目を合わせることができなくて、リーシャはそっと視線を落とした。そんな彼女の耳朶に、囁くような掠れた声が届く。
「本当に……俺なんかで、良いんですか。ここで貴女が頷いてしまったら、俺はもう二度と貴女を離すことができなくなるでしょう。いつか貴女が自由を願っても、その時には逃がしてあげられなくなってしまいます。それでも……構いませんか」
力がこもっているわけでもないのに、その声にリーシャはぞくりと背筋を震わせた。彼の言葉が誇張でないことは、その熱く絡めとるような視線が雄弁に物語っている。
その執着に満ちた視線を受け止めて、リーシャは迷わずに真っ直ぐ頷く。
「えぇ。構わないわ。家を捨てる覚悟だって、できている。たとえ貴方が悪魔でも……喜んでこの身を捧げましょう。貴方を、愛している」
「悪魔でも、ですか……」
その言葉に低い声で笑う執事の呟きに、リーシャは首を傾げる。
――彼女は、知る由もない。実際に悪魔と契約した彼が何を望み、何を失ったかなんて。彼が絶対に手に入らないだろうと諦めていた存在が、欲しいと思うことさえ己に許さなかった対象が自分だったなんて、彼女はまだ知らない。
それでも、リーシャは彼を選んだ。もう彼から離れることはできないだろうなと予想しつつも、その甘やかな拘束に喜んで身を差し出した。もう二度と、彼のことを忘れたくなんてないから。
リーシャの言葉を聞いて、執事は覚悟を決めたようにリーシャの手を取った。彼の長い指がリーシャの手をゆっくりと確かめるように絡めとっていく。
「えぇ、お嬢様。俺も貴女を愛しています。貴女のためなら、何を失ったって構わない。……約束します、必ず貴女を幸せにすると。そのために、俺はここに居るのだから」
彼の手をしっかり握り返して、リーシャは顔を上げた。二人の視線が交差し、言葉はなくともお互いの感情が、熱が伝わっていく。
静かに頷いて、リーシャはひと言だけ口にした。
「何度でも、貴方も名前を教えてね」
ええ、と答える彼の声は囁きにすらならず、見つめ合う二人の距離は徐々に近づいて……そして、そっと唇が重なった――。
♢♦︎♢
「ふーん。結局オジョーサマが新しい恋に走ることも、あのコの執着が暴走することもなくハッピーエンドになったのねー」
二人の姿を眺める、第三の声。
中空に浮かぶ鏡を通して彼らの動向を見物していたグィニードは、彼らの出した最終的な結論に無責任な感想を洩らしていた。
彼らの動向を逐一監視しては、楽しんでいたグィニード。それがひとまず落ち着いてしまったことに、少しばかり肩透かしを覚えてしまう。ハッピーエンドが好きな彼ではあるが、結局のところ悪魔である彼はそこに至るまでの苦悩が大好物なのだ。
その結果痴情のもつれによる事件が起きても、もしくは本当の気持ちを押し殺した歪な終着を迎えても、それはそれで楽しめると思ったのだが……意外にも彼らは迷いなく一番良い選択肢を掴み取っていった。それは些か、人間の苦悩を娯楽としている悪魔にとっては物足りないくらいで。
「うーん……ロマンス小説だったら、愛のキスで呪いが解けるのがお決まりではあるけれど……」
グィニードとしも楽しませてもらった分、奪った代償を返すこと自体はやぶさかではなかったのだが。
「もうちょっと……彼らには苦しんでもらった方が、楽しいかも?」
気まぐれなのは、悪魔の性分。
幸福に緩む二人の空気を一瞥して、グィニードはあっさりとそんな結論を下す。
「それにしても、面白いモノね。相手の姿もわからないままで、好きになるなんて」
そう呟いて首を振るグィニードは、結局人間のことがわからない。わからないからこそ、時々彼らを観察したくなるのだ。
「せっかくワタシのチカラを貸してあげたんだもの、もう少し楽しませてもらうわ」
そんなことを口にしながらも、グィニードは薄々察していた。
どんな困難が降り掛かろうと、きっと彼らが挫けることはないのだろうと。想いが通じ合った彼らに、もう恐れるものなど何もないのだろうと。
異界へと繋がる鏡は、ただ静かに仲睦まじく寄り添う二人の姿を映し続けている――。
最後までご覧いただき、ありがとうございました!
下部の星マーク、ブックマーク登録にてぜひ応援をよろしくお願いします。(これがめっちゃ励みになるんです……!)
また、こちらは連載版(完結済み)もありますので、よろしければご覧ください。ツルギとの距離を縮めるエピソードが満載です。
作者は現在、短編にまとめる修行中です。
「お嬢様に一途な使用人×お嬢様」の組合せがイイネ!という方は別作品の『悪役令嬢は、護衛騎士の裏切りの理由を知りたい』もオススメです。
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