なんだかんだ優しい菅沼天2
保健室に着くと、栞がためらいなくドアを開ける。保健室や職員室に入る前は緊張して、何と言って入ろうかななどと、考える癖があったので、栞のスピード感に戸惑ってしまった。
「あ、ちょ」
栞は私の戸惑いなど知る由もなく、ずかずかと保健室に入っていった。
「叶愛ちゃん、やっほ!」と栞が誰かに声をかける。
友達でもいたのだろうか。保健室に入ると、煙草を銜えた女性がこっちを見ていた。スレンダーな体形で、アッシュグレーの髪は綺麗なウェーブがかかっている。
予想外の光景に狼狽していると、その女性が口を開いた。
「栞か。五十嵐先生と呼べと言っているだろう。あとノックしろ」
先生? その女性は持っていた煙草を置くと、裾の長い白衣を羽織る。
「叶愛ちゃん、美香ちゃんがまた倒れちゃった~
」
呆然と立っていると、栞が女性に状況を説明する。
「また? ああ、あの女か。そこのベッドに寝かせろ」
女性が、三つあるベッドのうち、一番左端のベッドを指差す。
ベッドに寝かされたのを見ると、直ぐに診察に入る。
「この人、保健室の先生?」
栞にひっそりと耳打ちして聞く。
「そうだよ、五十嵐叶愛先生。私、保健委員だから仲いいんだ」
煙草を吸っていたのが衝撃すぎて信じられなかったが、本当に先生らしい。保健室にあまりに似つかわしくない姿だったので驚いてしまった。
「聞こえてるぞ、メスガキ」
「メス……!?」
「匂うんだよ。男の匂いだ」
意味不明な悪口に戸惑いを隠せずにいると、栞が五十嵐先生に注意する。
「私の友達悪く言わないで」
すると、先生は鼻を鳴らす。謝る気はないようだ。
「ごめんね天ちゃん、悪い先生じゃないの。ただあまりにモテなくて、嫉妬深いだけなの」
栞が私に耳打ちする。
確かに、美香をちゃんと診てくれているけど。
「だから聞こえてるぞ。ふんっ、ガキ共が色づきやがって。リア充は爆発しろ。」
「叶愛ちゃん、それもう言ってる人あんまりいないよ」
「……ガキ共まじ卍」
「それももう古い」
なんか少し可愛く見えてきた。何だろう、美香とちょっと似てるところがあるからかな。
「おい、お前今、『ばばあが流行について行こうと必死じゃん(笑)』って思っただろ」
私の口角が上がったのに気づいたのか、五十嵐先生が、また急に牙を向いて、突っかかってくる。
そんなこと思ってないけど、正直に可愛く見えたって言っても、「馬鹿にしてるだろ」って怒られるかもしれない。
「そんなこと思ってないですよ。ただ、五十嵐先生みたいにな素敵な大人の女性は下手に若者言葉を使わない方が、クールビューティーでいいなって思っただけです」
アドバイスしつつも、褒めてみたが、五十嵐先生の反応はどうだろう。
「ふんっ、私がクールビューティーなのは知っている」
……すごい嬉しそうだ! 思ってたよりもずっと嬉しそう!! 言葉は冷静を保っているが、表情に感情が溢れ出している。頬は朱色に染まり、右上に上がった口角を左手で隠そうとしている。
「背も高くて、モデル体型ですよね」
反応が可愛かったので、さらに褒めてみる。
「で、では、なぜ私にか、彼氏がでできないのだと思う?」
五十嵐先生は立ち上がり、私を見る。本当にモテないの気にしてたんだ。
「叶愛ちゃん、美香ちゃんは大丈夫なの?」
栞が、五十嵐先生の質問を遮り、美香の心配をする。
かわいそうだよ、なんかすごい必死なのに。
「ああ、二回目だからいつもより慎重に診たが、やはり寝ているだけだ」
五十嵐先生が眉を寄せながらも、診断結果を言う。
「よかったー」
「病気じゃなくてよかった」
栞と私は、顔を見合わせて胸をなでおろす。
「でだ、な、なぜだと思う?」
五十嵐先生が話を戻すと、栞が「そうだなー」と顎に手をかける。
「五月蠅い。お前には聞いていない」
「酷い!」
なんで、すぐに突っかかるんだこの先生は。
「だって、そうだろう。お前には男の匂いがしない。彼氏ができたことのない奴に、彼氏の作り方を聞いても仕方がないだろう」
「で、でも、告白されたことはあるもん。叶愛ちゃんはあるの?」
栞が、頬を膨らませて、言い返す。
「五月蠅い! 私は女子高出身だから、そもそもの条件が違う」
「私は、カフェの店員さんにもされたことあるけど」
栞が口角を上げ、判を膨らませて言う。まさに、圧倒的うざ顔だ。
やめて! 五十嵐先生が、もう涙目に。
「まあまあ、落ち着いて。五十嵐先生も」
両者がそっぽを向ける。
「か、彼氏の話ですけど、まず保健室で煙草を吸うのは止めた方が。非常識だと思いますし」
正直、私も彼氏はできたばかりだし、恋バナなんかもあんまりしてこなかったので、常識的な話を持ち出してみた。
五十嵐先生が興奮して真っ赤になった顔を私に向き直すと、何か意見がありそうな表情でこちらを見つめる。
「えっと、なんで保健室の先生なのに、煙草吸ってるんですか?」ともう一度問いただす。
「……モテたいからだ」
「え?」
「モテたいからだ!!!」
「ん? モテたいから、煙草を吸ってたんですか?」
男子大学生かな?
「そうだ」
五十嵐先生がもじもじと体をくねらす。すると「いや逆でしょ」と栞が会話に入ってくる。
「だから、お前には聞いてない」
「叶愛ちゃん聞いて。さっきは少し嫌な事言っちゃったかもしれない、それはごめん。でも、叶愛ちゃんはいい人だし、幸せになってもらいたいの」
「え、ああ、そう? こちらこそ、なんか悪かったな。お前がそんなに私のことを考えてくれていたとは」
五十嵐先生が、ぎこちなくも、栞の謝罪を受け入れる。ていうか、この人ちょろいな。
「しかし、実際問題、彼氏いたことのないお前の話に信憑性があるのか、はなはだ疑問だ」
「ふふん、大丈夫だよ。叶愛ちゃんならそう言うと思ったよ。煙草が男性にモテないのは、私だけじゃなくて、世論の意見」
「ほう、確かな情報源があるのだろうな?」
「もちろん。これを見て」
栞が一冊の本を掲げる。
えっと、本のタイトルは『モテ女の立ち振る舞い 21巻』
胡散臭せぇ。
21巻って、そんな売れてんのこれ!?
ふと、本に巻かれた帯に目が行く。えっと、『この本を読めば、あなたの家族や友人に、素敵な彼氏がいる風に完璧に装うことができます』
……あれ、これって、本当に彼氏ができるわけではない!?
ただただ、周りの人に見栄を張るために読む本。なんで、こんな悲しい本を栞が持っているんだ。
「これは、美香ちゃんバッグからはみ出てたものだけど、叶愛ちゃんのために勝手に借りちゃいます」
美香のかよ! あいつなりに辛い思いしてたんだなあ。なんだか、胸がきゅっと締め付けられる。
「これを読めば彼氏ができる!? そんなこと可能なのか?」
「それができるんだよ、叶愛ちゃん。この本を読めばね。そして、この本の目次には『第二章 煙草を吸っている人は煙草を止める』と書いてある。ふっ、Q.E.D」
めちゃドヤってるけど、彼氏ができるわけじゃないからね。ちゃんと読め。
「い、いくらだ? いくらでそれを譲ってくれる」
「馬鹿か!?」
思わず声に出てしまったが、先生は私の侮辱を気に留める様子はなく、栞に縋りつく。
言いづらいよ。それ読んでも、何にもならないなんて言いづらいよ。
「お願いだよぉ、私は青春を取り戻したいだけなんだよぉ」
「うげっ、叶愛ちゃん、鼻水鼻水」
栞の制服に涙と鼻水がべったりと付く。
もしかして、美香もこうなってしまう未来があるのかもしれない。
……やさしくしよ、彼氏づくり手伝おう。
「分かったから、あげるから、泣かないで」
栞が五十嵐先生に、ハンカチを渡す。
「でも、いいの? それ美香のなんでしょ?」
私が聞くと「美香ちゃんには、私から言うから大丈夫!」とにっこりとした表情で私を見る。
栞がそんなに自信満々に発言するならまあ大丈夫と思った次の瞬間、栞の表情が陰る。
「こんな本美香ちゃんには必要ないよ。私がいるもん」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で確かに栞がそう言った。そこには、いつものハイライトきらきらのお目目はどこえやら、輝きのない真っ暗な眼をした栞がいた。
……はは、気のせいだな。私は気づかない振りをするのだった。
ごめん美香、私は応援するからな。
「ありが、ヒッ、どう。フンッ、お、おがねは?」
しゃくりあげながらも、必死に声を出す。
五十嵐先生の問いかけに、栞はいつもの笑顔に戻り、「お金なんていいから。ほら、鼻水かんで」と気遣いを見せた。
栞がティッシュも差し出すが、五十嵐先生はその前にハンカチでズビビと音を立てながら勢いよく鼻をかむ。
うわっ、現実にいるんだ、ハンカチで鼻かむ人。
栞も驚いた様子だったが、すぐに「もう、こっちでかみな」と笑顔でティッシュとハンカチを交換する。
天使か!! ハンカチ汚されても、その女神のような施しができるとは。久遠栞は女神天使。間違いないね。さっき聞こえたのはやっぱり気のせいだったんだ!
私はそう思い込むことにした。
栞に背中を撫でてもらい、少し落ち着いた様子の五十嵐先生が立ち上がる。すると、自分の中の感情を整理するように、大きな深呼吸一回、そして私たちに言う。
「変わりと言っては何だが、これを受け取ってくれ」
栞は、五十嵐先生から小さな箱を受け取る。
「いや、それ煙草じゃないですか!!」
五十嵐先生が栞に渡した物を見て、私がつっこむ。
「安心しろ、実はこれは煙草ではないのだ。煙草の様に作られたお菓子だ。甘くてうまいぞ」
「本当だ! 口の中でゆっくり溶けて、おいし~い」
栞が頬に手を当てながら言う。
食うの早えな。
どうやら、本当にお菓子のようだ。
「なんで、そんな紛らわしいもの学校に持ってきてるんですか?」
ため息交じりで私が言う。
「だからさっきも言っただろ。も、モテたかったからだ」
先ほどまで真っ赤になっていた白い肌に、再び朱色がさす。
顔を右上に上げ、口先は少し尖っている。その少し恥ずかし気な表情は、五十嵐先生を可愛く見せた。
この人、暴言止めて、素直になれば、直ぐに彼氏できそうだな。
「大学生の頃、男と付き合っていた私の友人は、皆煙草を吸っていた。私は思ったよ、煙草を吸えば、モテる。煙草すげえ! かっけえ! てな」
煙草始める理由が、まんまイキった大学生……!
おそらくだけど、付き合ってから、男に影響されて煙草吸い始めたんじゃないかな。そういうパターンよく聞く気がする。
「すぐに私も吸い始めたさ。だが私には合わなかった。喫煙所に入っただけで気持ちが悪くなり、吸おうものなら咳が止まらなくなった。そして思い出したんだ、そういえば私、喘息持ちだったてね」
……もっと早く気づけよ。
「それで、煙草の形をしたお菓子を買った訳ですね」
「その通りだ。メスガキ、いや天といったか。お前の分もあるぞ。」
「はあ、ありがとうございます」
「冬に吸うと、すごくそれっぽいぞ。白い息が、煙っぽく見える」
だっさ。もう想像しただけでダサい。素材はいいのに、中身が本当に残念だこの人。
「いやー、一件落着だね」
栞が煙草のお菓子ですぱすぱしながら言う。
「ああ、これで私は前に進める。止まっていた時間が、心が動き出すんだ」
五十嵐先生は、見上げた姿勢になり、窓から射す西日を掴むように手を握る。
……あの本、彼氏が作れる訳じゃないんだけど。
「さあ、お前らはもう帰れ。私には仕事がある」
五十嵐先生が身を翻しながら言う。白衣の裾がひらりと舞う。
先生の右手には、一冊の本が握りしめられていた。