5 必ず2回、踊ってもらうのよ
母の機嫌がいいことは、ひと目でわかった。
機嫌のいい母は美しい。
もともと、あたしとは全く似ていなくて、くっきりと目鼻立ちの整った顔をしている。
深い紫色のシルクのイブニングドレスに身を包み、サイドに縦ロールの巻き髪を垂らした姿は、とても15歳の子どもを持つ母親には見えなかった。
「あら、かわいいじゃないの」
母は目を細めて、仔猫に触るような手つきで、あたしをなでた。
機嫌のいい母は優しい。
あたしのお母さんでいてくれる。
だから、あたしは何をされても、この手を拒めない。
でも、いつも、こわかった。機嫌を損ねてしまわないか、嬉しいけど不安で。
「さあ、出かけましょう。グローブは今着けなさい。扇も忘れないでね。香水は? まだだったら、これがいいわ。珍しい竜涎香が使われていて、とても印象深いから」
母は鼻歌でも歌いかねないほどの上機嫌で、香水をつけてくれると、あたしの手を取り、馬車に向かった。
「シオン・レトヴィース様については、ロベリアから何か聞いて? あなたの5つ歳上で、とても優秀な方だそうよ。言うまでもなくお金持ちだし、いずれ爵位を継がれることになるし、これ以上いい物件はなかなかないわよね。何より、美男子ですって!」
馬車の中で、送られてきた招待状を、くるくると指の先でもてあそびながら、母は言った。
何より、がかかる部分が、この上なく、母らしい。
「あなたのことはレッドフォード侯爵夫人に紹介を頼んであるわ。あちらは息子さんばかりだし、親戚のお嬢さんも、みなさんお嫁に行ってらっしゃるから。でも、いい? 必ず2回、踊ってもらうのよ」
つまり、レッドフォード侯爵夫人がチャンスをくれるから、それを自分の力でものにして、次につなげろということだ。
なぜ踊る回数にこだわるかというと、社交界では最も踊る回数の多い相手が本命となるから。
そして、今回のようにみんなの狙いがひとりに集中する場合、2回踊ることは特別な意味を持つ。
って、思い出したわけだけど。
追加情報としては、アルストロメリアは今年、社交界デビューしたばかりなのだそうだ。
あたしはもちろん、今日が初めて。
ちょっとハードルが高すぎやしないだろうか。
これってつまり、学校一人気のある男子に、選ばれろってことだよね?
あたしは自慢じゃないけど、これまで誰かとつきあったことはない。告白されたこともない。
当たり前だよね。人間じゃなくてバイ菌なんだから。
靴箱に入れられてたのは、ラブレターじゃなくて、大量の泥だった。
こんなヒエラルキー最下位の非モテの女に、どうやって最上位のモテ男を落とせって言うんだろう。
ああ、残酷だ。
しかも、この母に、あのイベリスという男である。
失敗する予感しかないのに、失敗したら、どんな目にあうかわかったもんじゃない。
「あら、あなた。緊張しているの? まあ、わからないでもないけど。殿方と踊るときに、そんなにしゃちこばっててはいけないわ。ああ、そうだ。これ……」
母が取り出したのは、黒のベルベットでできたこぶし大の巾着だった。
「はい」
無造作に渡されて、紐を緩めると、手のひらに収まるくらいのハート型のストーンがころんと出てきた。
半透明の薄紅色に乳白色の膜がかかったような色をしている。
「……きれい」
「ハートストーンよ。ローズクォーツでできていて、ひんやり冷たいでしょう? 緊張して手に汗をかいたときには、それを握るといいわ」
「ありがとう」
母が自分のために用意してくれた。
そのことが嬉しくて、ハートストーンをぎゅっと握りしめる。
母はそれを満足げに眺めながめる。
「今からそんなに握りしめてたら、肝心なときに温まって使いものにならないわ。しまっておきなさい」
あたしが、言葉どおりに慌てて袋にしまいこむと、それを見た母は満足げに笑った。
馬車の動きがゆるやかになり、やがて止まった。
目的地、レトヴィース公爵の邸宅に着いたのだ。
今ごろになって、ふと思った。
シオン様とやらは、いったい誰なのだろう?
前世で、あたしが知っている人?
5つ上だとしたらーーあたしが知る人はごくわずかだ。
その中には、あの人がいる。
誰ともつきあわず、誰にも告白されなかったあたしが、ただ一度、淡い思いを募らせた初恋の人が。
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