雨とほら穴
目の前にパンの切れ端が落ちていた。少し腰を浮かせて、手を伸ばせば届く距離に、人通りの雑踏から一つ離れたジメジメとした路地裏で、冷たい石壁に背中をピタリとつけていた僕は、話し相手の“ピーター”と名付けた人形を地面に落として、美味しそうなパンへと手を伸ばす。
と、その時、馬車が通りかかった。
大切なものーーパンの切れ端をまぁるいタイヤの真ん中で押し潰して、すり潰して、馬車はあっという間に通り過ぎていった。
「ゲホゲホ」
何かを飲み込む代わりに、巻き上げられた土煙を吐き出す。
雨が降ってきた。
ぽつりぽつり。
やがて、ざーざーと。
雨。
今頃、都では貴族が、空を見上げて詩を詠んでいるだろうな。
恋の歌か、
都会の暮らしの歌か。
昔本が好きだった僕には分かる。
ザーザーと降りしきる雨。
遠く離れた雑踏で、雨傘が開いているのだろう。心地の良いビニールの音が、雨どいにぶつかる雨粒たちの嘆きが、僕の身体から体温を奪い取る雨の威勢が、僕の口角を押し上げる。
昔から酷く不器用だった。
武術者だった父親に教わった剣術では、自分の腕を傷付けるばかりだった。
母親は、妹を溺愛していた。
僕はよく庭で本を読んだ。
そこには夢や希望が広がっていた。
見上げると、空に飲み込まれそうで、
どれほど遠くにあるのか検討もつかない別の世界みたいな場所から、細長い雨粒たちが五線譜みたいに落ちてくる。
ーーきっと美しいと感じるべきなんだろうな。
この世界はそういう世界だ。
さっき通りかかった馬車に乗っていた、女の顔を思い返す。
横顔だけ。
ぶわぁっと通り過ぎただけだったけど、あの女の顔も綺麗だった。
作り物みたいで、世の中に絶望しているような瞳にもまだ意思があった。
同じだと思った。
僕と同じ、そんな気がした。
好きだと感じた。
僕は、ぺしゃんこに圧縮されたパンだったものを手に取った。口の中に放り込むと、一口噛むごとに肉汁のような雨が口の中に染み出して、小石や汚汁がジャリジャリ鳴った。
空腹が紛れる。
頭が、ゆっくりと回り始める。
女は、頭に王冠を被っていた。
必死な形相で鞭を打つ御者もいた。
お付きのものだろう。
僕は2、3歩、車輪の跡を追いかけた。
それから立ち止まった。
同じじゃあないと思った。
懐から拳銃を取り出す。
人形の“ピーター”は話さない。
そりゃそうだ。
なぁ、ピーター。
僕がそう呼びかけても、ピーターは地面に顔を押し付けた不格好のまま、何も答えない。
そりゃそうさ。
3年習って剣術のケの字も身に付かず、父親にどやされた僕にも出来ることはある。弾倉を取りはずし、中に息を吹きかけ、またはめる。斬鉄を起こす。
それから冷たい石壁に背中を預け、
母親の甲高い叫び声を思い返す。
……してぇ、……ろしてぇよぉ!
額に押し当てて、固い引き金を引いた。
鋭い叫びと、べちゃりという水の音。しばらくして通りがかった自警団員が、血塗れになった人形を発見した。
ーー
………死体は30歳前後、名前はピーター……
地方でそういうニュースが流れた。
壮年の御者と、“龍の巣”へと向かう国を追われた王女は、月が沈まぬうちに、風のようにその街を去った。
ーー