第七話:最初の婚約
――夜もふけた頃、ミミのいない場所。
リカオンは一人ジークフリートの屋敷に赴き、彼女と面会していた。
「……あらましはすでに聞いた。オーガスタスの件は私がとりなしておこう。隠居の身とはいえ、あのゴマすり虫も私を敵に回す気はあるまい。まして武門の長が力で負けたとあっては、あえておおごとにする気もなかろうよ」
「ありがたく存じます、殿下」
深々と頭を下げるリカオンに、ジークフリートはつまらなそうに手で払いのけるしぐさをする。
「よい。二人きりだ、畏るな」
「はい……ひいお祖父様。ありがとうございます。今回のことだけでなく、私のすべてにおいて」
リカオンは顔を上げ、ジークフリートをまっすぐに見つめた。その敬愛のこもった視線を避けるように、ジークフリートは手に持ったワイングラスを眺める。
「……ふん。血とは恐ろしいものだ。荊のようにからみつき、断ち切ることも払うこともできぬ。もがくほどに棘は肉へ食い込み……いつしか巻き込まれた者はみな同じ荊の虜囚になってゆく」
血のように赤いワインをくっと飲み干し、ジークフリートは自嘲気味に笑う。
リカオンはこの美しい曽祖父の謎めいた独り言にも慣れた様子で、少し考えてから尋ねる。
「それは……私とひいお祖父様のことですか?」
「この国のすべてのことだ。オーガスタスのごとき品のない猿がのさばっていられるのも、我が長兄との血の繋がりゆえ。私も兄弟も、結局はつながれた虜囚の身なのだ。連綿とつながる縁から逃れることもできず、互いの血を啜りながら生きながらえている。がんじがらめなのだよ、誰も彼もがな……たった一人、あの娘を除いて」
ジークフリートはグラスを置き、リカオンの瞳を覗き込む。その瞳の向こうに、ミミの姿を探すように。
「ジークフリート様は、ミミ様が荊を断ち切ることをお望みなのですか」
「ふ……私はもう、誰にも何も望みはしない。だが、我らが国母はそれを望んでおられるのだろう。我々よりも強靭な肉体を持った新たなエルフ種……あの娘が、凝り固まった古き血を一掃することを。黒き王城が一面赤く染まるのはさぞ壮観であろうな」
愉しげに、しかしどこか自暴自棄な笑みを浮かべるジークフリート。その笑顔を見て、リカオンは眉をひそめる。
「……ミミ様はそんなことをする方ではないと思いますが」
「今はな。だがもしいつかあの娘がそれを望むことがあれば、誰にも止められんということだ。お前もせいぜい、長生きするのだな。次なる千年王国の最初の妃になるのも悪くなかろう?」
「ひいお祖父様のご冗談は、悪趣味がすぎます」
あきれたように言って、リカオンはため息をつく。ひ孫の本心からの苛立ちを感じ取って、ジークフリートはくすっと笑う。
「ふふ、そんなにあの娘が気に入ったか。稚児を好むのもずいぶんと悪趣味ではないか?」
「ミミ様は、稚児ではありません。私たち大陸の人間とは違うだけで、ああ見えても大人でいらっしゃいます。たぶん……」
言い訳がましく言って、口を尖らせるリカオン。
早くに両親を亡くし、大人たちの中で気丈に生きてきた彼女が唯一、年相応の顔を見せられるのはこのひねくれた曽祖父だけだった。リカオンにとってジークフリートは数少ない「身内」と呼べる相手であり、庇護を受けてから数年が経ちすっかり大人になった今でも、向き合って話すときは振る舞いもどこか子供っぽさが出てしまう。
「お前が満足でいるなら何も言うまいよ。しかし誰とも婚姻を拒んできたお前が、初めて愛したのがあの珍獣とはな」
「愛している……のでしょうか? 私は……」
「それを私に聞くか?」
「……わかりません。自分は男も女もエルフでも、誰かを愛することがない質なのだとずっと思ってきました。今はただ、あの方に傷ついて欲しくないと思います。それ以上のことは……これからのことは、わかりません」
リカオンがうつむくのを見て、ジークフリートは見下すような表情を初めてふっと和らげて微笑む。
「そんなものだ。急くことはない。愛のことなど、死ぬまでの間にひとつわかれば結構なもの」
「でも、私の命は短いのです。あなたや、ミミ様よりもずっと」
「なればこそ、よく見極めろ。儚い一生を無駄にせぬようにな」
ジークフリートの言葉を噛みしめるように目を伏せながら、リカオンはゆっくりと腰を上げた。
「……はい。私は屋敷に戻ります。あの方のところに」
「そうしろ。お前の家はもうここではない」
突き放したようで優しいその言葉に、リカオンは苦笑いを浮かべて一礼した。
***
一方、ミミの屋敷にて――
リカオンが不在の間、ミミは自力でベッドメイクをしようと悪戦苦闘していた。
「これが……しーつ? で、もーふにまくら……は島にもあったけど。ここじゃこんなふかふかなんだなぁ……きもちいー……」
大きな毛布を両腕で抱えているうちに、その柔らかさにうっとりとなって目的を見失うミミ。
「でへへ、もふもふ……もうこのままくるまって寝たらいいよね……あったかいし……」
顔を毛布に押し付けたまま、ベッドの手前で床にころんと転がるミミ。島では床に敷布をひいて寝る習慣だったので、ベッドよりもこちらの方が少し落ち着くのだ。
そうしてしばらく床の上でころころ行ったり来たりしていると、いつのまにか怪訝な少女の顔が上からのぞいていた。
「……何の遊び? それ」
「……ころころ」
「そのまんまじゃん。変なの」
オセロットはふっと失笑して、毛布にくるまるミミの横にすとんと腰を下ろした。彼女の少し緊張した横顔を見て、ミミはむくっと起き上がる。
「オセロットちゃん、まだ怖いの? またオーガスが来たら、わたしが追い払ってあげるよ」
「……違うよ。もう怖くない。ありがと、ミミ」
「どういたしまして!」
自慢げに微笑むミミを見て、またナーバスな笑みを浮かべるオセロット。つられて、ミミも同じように表情を崩してくにゃっとした笑みになる。
「……どうしたの? 悲しいの?」
「違うよ、大丈夫。ちょっと話したいことあるんだ。真面目な話……いいかな、今」
「うん、いいよ!」
深刻な空気を出したつもりがミミにからっと笑われて、オセロットは気が抜けたように肩をすくめる。
「あたし、生まれてからずっとバタバタしたりキリキリしたりしてた気がするけど。なんでかな、あんたといると落ち着く。あんたの方があたしよりバタバタしてるからかな」
「うん。お母さんにもバタバタしてるって言われたよ」
「……そっか。島でもそんなだったんだ」
オセロットは咳払いをして立ち上がり、神妙な顔でミミのベッドに腰掛けた。
「あのね、ミミ。お願いがあるの。もうすっかり助けてもらったのに、またお願いするなんて、本当はイヤだけど。ううん、全くイヤってわけじゃないけど……」
「なぁに、なぁに? なんでもするよ!」
「……あんたのそういうとこ、ちょっと怖くなるよ。本当になんでもしちゃいそうでさ」
「なんでもしちゃダメ?」
「ダメだよ。あんたの奥さんも言ってたでしょ。大事なことは自分で考えろってさ」
ミミはようやくオセロットの真剣さに気づいて、もそもそと毛布をかき集め、彼女の隣に腰掛けた。
「考えるよ、わたし。だから、話して」
「……ミミ。あたしと……結婚、してくれないかな」
「けっこん……!?」
急な申し出に、一瞬面食らうミミ。だがすぐに気を取り直し、ぶんぶんと顔を縦に振った。
「いいよ!」
「あんたね、そんな即答して……ホントに考えたわけ?」
「うん。わたし、オセロットちゃんのこと好きだもん。オセロットちゃんがわたしを好きなら、断る理由ないよ」
「好き、って……あんたはそうやって、恥じらいもなく……」
予期せぬ直球の答えに、複雑な顔をするオセロット。それから唇を噛んで、言いにくそうに口ごもる。
「……あのね。そうじゃないんだよ。あたしは、あんたを利用したいだけ。だから……そんな風に、嬉しそうにしないで」
「りよう……?」
「……今日はあんたのおかげで追い払えたけど、オーガスタスはこれであきらめるような奴じゃない。家族もマーゲイも、いつオーガスタスに傷つけられるかわからないの。だから、情けないけど……肩書きが必要なんだ。あんたの妻、エルフ王子ミミの伴侶って。そうすればあたしの家族もエルフ王家の縁戚になって、たとえ人間の家系でも、オーガスタスは勝手に手出しできなくなる。……少なくとも、力づくでは」
「…………」
オセロットの説明に、神妙な顔で黙り込むミミ。その反応を見て、オセロットはため息をついた。
「わかってる……。あんたは純粋に好き合った同士で結婚すべきだって言いたいんでしょ。こんな打算じゃなくて。それで結婚し直すとかって話してたもんね」
「…………」
「あんたの方が正しいよ。あたしも、自分が嫌になる……マーゲイに偉そうなこと言って飛び出したのに、結局エルフの権力にすがってる。あんたはなんの義理もない他人のあたしを救ってくれたのに、その優しさを自分のために利用しようなんて……」
押し黙っていたミミは、ふと顔を上げてオセロットの言葉をさえぎった。
「オセロットちゃんは、たにんじゃないよ」
「……『他人』の意味、わかってる? あたしたち今日会ったばっかりじゃない」
「知ってるよ。たにんは、友達じゃない人。オセロットちゃんはもう友達だもん。……今日やっとわかったんだ、わたし。みんながみんないい人ってわけじゃなくて……会う人みんなを大好きにはなれないんだって」
ミミはオーガスタスの顔を思い出しながら、少しうつむいた。初めて出会った、好きになれない誰か。嫌いという言葉にはまだ届かないけれど、重く鈍い感情を自分の中に見つけたことが、ミミにはどうしても悲しかった。けれど、この世界は楽園ではなく、自分もまたすでに楽園の子ではないのだということを、彼女はゆっくりと受け入れはじめていた。
「だからね、会ってすぐ大好きになれたオセロットちゃんは、とっても大事な人なんだ。リカオンもだけど……二人がいたから、わたし、知らない場所でもこわくないって思えるんだ。二人が育った世界なら、ちょっとぐらい嫌なことがあっても、きっと好きになれると思うから」
熱っぽく語るミミを見て、オセロットはふふっと微笑んだ。
「……あんたの育った世界も、いつか見てみたいな。どんだけお気楽な島なんだろ」
「うん、おきらくだよ! おきらくってどういう意味?」
「まさにそういう感じのこと。いつでも幸せ、みたいな?」
「いいね、おきらく! うふふ……ここも、おきらくなお屋敷になるといいな」
くすくす笑いながら、またころころと毛布の上に転がるミミ。その無邪気な顔を見て、オセロットもつられてにこっと笑う。
「ふふ。あたしもお気楽になっちゃおっかな。おりゃっ」
子供じみた声をあげて、ミミの隣にぱふっと倒れこむオセロット。柔らかい毛布に体をうずめて、すうっと深呼吸する。
「うわ、何これ。超柔らかっ。これがお金の力かー……くっそー、気持ちいい……」
「ふかふかだよねー……」
「うーん、ふかふか……」
二人でころころと毛布の上を転がるうちに、ふと顔が近づく。心底幸せそうに目をぱちくりさせるミミの瞳をじっと見て、オセロットは覚悟したように口を開いた。
「……これから、よろしくね。多分長く世話になると思うけど」
「うん! ずっと一緒にいようよね。オセロットちゃんは、わたしが守るから」
屈託なく、かつ堂々として迷いのない言葉。どこまでもまっすぐな瞳でじっと見られて、オセロットは照れ臭そうに顔を背ける。
「……もう。これだから、エルフってのは。子供のくせに……」
オセロットはほんのり赤らんだ顔を隠すように、毛布を顔まで引っぱりあげた。
「わたし、子供じゃ……ない、よー……ぐー、ぐー……」
言葉とは裏腹に、子供らしくすとんと眠りに落ちるミミ。オセロットは毛布からゆっくり顔を出して、その横顔を眺めながら呟いた。
「……そうだね。頼りにしてる、ミミ」