第一話:楽園の子
とある世界のはじっこに、小さな島があった。
そこは地上のあらゆる悪や魔術と無縁の、小さな理想郷。
少女「ミミ」はそこで生まれ育ち……そしてある日突然に、事件は起こった。
「うふふ……今日もいいお天気。雲も太陽も、小鳥さんも、なにもかもが綺麗……」
小島の海岸で、ミミは空を見上げて伸びをする。彼女はただ幸福に生きる以外のことは何も知らず、誰とも喧嘩することなく、誰をも憎むことなく生きてきた。
怖いものは嵐。好きなものは父親、母親、島の人たち、生きとし生けるなにもかも。
「今日は何して遊ぼうかな。モモとかけっこしようかな。それとも貝殻集め、魚釣り……あ! 森に行こっか、リスさんに会いたい……ふぅ」
独り言をしながら、ぱたんと砂浜に倒れこむミミ。褐色の肌に、白い砂がはねる。
彼女にとっては、この世界の全てが友達なのだ。独り言も、風とのおしゃべりのようなもの。ちなみにモモというのは隣の家で飼っている犬だ。
「ふわ……眠くなってきちゃった。お昼まで寝ちゃおっかな……お手伝いも済ませたし……」
砂浜で大の字になったまま、ミミはうつらうつらと波の音に耳をすませる。毎日、毎日、永遠にも思えるほど聞いてきた音。飽きることのない、広大な海のささやき。
「聞こえる……同じ音……同じ……?」
一瞬、ミミは違和感を抱いた。同じ音……なのに、どこかが違う。繰り返す波に混じって、聞こえるかすかな異音。
「なんだろ……くじらかな……おっきな……すっごいおっきなくじら……」
島と同じぐらい大きなくじらの姿を想像して、ミミは目を閉じたままクスクス笑う。命をおびやかす獣もいないこの島は、少女が「危険」という概念を学ぶにはあまりにも平和だった。
変わらぬ速度で近づいてくる不吉な異音に対して、ミミはただ無警戒に寝そべって、幸福なまどろみの中で船をこいでいた。
「仲良くなれるかな……くじら……さん……」
ミミが眠りに落ちようとする、そのわずか一瞬前に。
とてつもなく大きい音が、「ずんっ」と響いた。島全体が揺るぐほどの轟音。これほどの音が聞かれたのは、おそらくこの島の歴史上でも最初で最後だったろう。
音ともに、一塊の巨大な鉄が浜に打ちあげられていた。突如として現れたその巨体は、波を砕き、岩を砕き、そして――砂浜に寝そべった、ミミの体を下敷きにしていた。
『……おっと、殺してしもうたか。もろい獣どもよ……まあ、よかろ』
冷たい鉄の巨塊から、低く深い声が響く。鉄が、言葉を喋っているのだ。小さく身を揺るがすその様子は、その異形が確かに生き物であることを示していた。
だが、鉄の声はその姿と同様に冷たく無慈悲で、己が潰して殺した少女のことなどまるで気にもとめていないようであった。
『検体の生死は問わぬ……気づかれる前に、退くとしようぞ』
鉄がそうつぶやくと、巨塊の先端にわずかに開いた隙間から、ミミの無残な屍体がずるりと飲み込まれていった。
そして数秒の後には、鉄の巨体も、無垢な少女の存在も、跡形もなくその場から消え失せていた……まるで最初から存在しなかったかのように。
***
「くじらさん……っ!?」
意識が戻った瞬間、ミミはがばっと勢いよくベッドの上で身を起こした。
頭がくらっとする感覚。「めまい」というものを、ミミは生まれて初めて経験した。
(わたし、寝ちゃった……? どこで? ここ……どこ?)
体は起こしたものの、まぶたが重くて視界がはっきりしない。手のひらから、慣れないシーツの感触が伝わる。奇妙にするするとした布……絹のシーツ。だが絹などという素材は、ミミの島にはなかった。
「んー……なんか、へんだな。なんだろ……」
ねぼけたまま、目をこすって周りを見回す。徐々に目に入ってくる家具、窓の外の空の星。すべてに見覚えがなかった。「見覚えがない」ということ自体が、ミミにとっては物心ついて以来の経験だ。
(ってことは、夢かぁ……へんな夢)
ふわぁとあくびをして、目をぱちくりさせる。すると、ベッドのそばに誰かが立っているのが目に入った。少し白みがかった金髪に、青い瞳の女性だ。
「……お目覚めになりましたか」
「はあ……ふぇぇ……?」
「お体の具合はいかがですか?」
丁寧な物腰のその女性は、ミミの顔を感情のない目でしばらくじっと見たかと思うと、ふっと優しく微笑んだ。それはあからさまなほどの作り笑いだったのだが……無垢な島で育ったミミには、そんなことなど気づきようもなかった。
(知らない人。知らない人……知らない人には、ていねいに話すんだ)
「なんだか……重い、です。頭も……ゆらゆらして……」
「きっとまだお疲れなんでしょう。お休みになってください」
優しい手でそっと肩を押され、再びベッドに横たわるミミ。だが、一向に眠くなる気配はない。外は暗く、すでに夜遅いようではあるが。
「あのぅ……」
「はい?」
「もしかして、これって夢じゃないんでしょうか」
「……さあ、どうでしょう。私にとっては夢ではありませんが、現世はすべて夢、と仰る学者様もいるそうですから。夢と現の境なんて曖昧なものかもしれません」
「はぁ……」
はぐらかすような、独り言のような言葉。ミミはさっぱり意味がわからないながらも、女性の余裕ある態度にどこかホッとする。この人は、頼れる人だと。……そういえば、どことなく母親に似ているかもしれない。
「あのぅ……」
「はい?」
「なんだかわかんないんですけど、夢じゃないんなら、わたし家に帰らなきゃ……わからないとこにいるのはいやですし」
不安げなミミの様子を見て、女性はふっと笑う。その表情にどこか寂しげなものを感じたミミは、慌てて飛び起きる。
「あの! あなたがいやってわけじゃないですよ。あなたは優しい人みたいだし。あなたはたぶん好き!」
ミミはぐいっと前のめりになって女性と顔を近づける。鼻と鼻がくっつきそうになって、女性は微笑を崩さないまでも少し身を引き、ミミの純真かつ無遠慮な瞳から目をそらす。
「……お褒めにあずかり、恐縮です」
「それで、あの……ここって、どこ、ですか? 島にこんな場所あったっけ……」
疑問だらけのミミに、女性はため息をつく。
「どこから説明すべきでしょうね……私もあなたの境遇をまだよくご存じないのですが。確かなのは、ここはあなたの『島』ではないということです」
「……はい?」
「あなたはとても遠くから、この国へ連れてこられました。ここはエルフの国……千年王国と呼ばれることもあります。あなたの故郷からどれだけ離れているかわかりません。でも、きっともう戻れないと思います。ここが、あなたの新しい家になるのですよ」
ミミはぽかんと口を開けて、その言葉の意味を考えた。
(クニ? コキョウ? エル……フ?)
女性が口にしたほとんどの言葉は、ミミにとって馴染みのない言葉だった。だが、女性の目を見て、ことが深刻らしいことだけは理解できた。気を失っている間になにか、自分の知らない大きなことが起きたのだ。そして、それは……もう元には戻らない。
「……うーん、帰れない。帰れないって、どういうことかな……お母さんと、お父さんに聞いて……あ、でもここにはいないから……」
「すぐには飲み込めないでしょう。ゆっくり、気持ちを整理してください。時間はたっぷりありますから。他に聞きたいことはありますか?」
「えっと……あなたは誰ですか? わたしはミミっていいますけど」
「私は、リカオンと申します。これからあなたのお世話をさせていただきます」
「りかおん……おせわ……」
むっと顔をしかめて、言われた通りに頭を整理するミミ。
この人はリカオン。なんでも聞けば教えてくれる。
ここは新しい家。これから、ずっと暮らしていく……
「……もいっこ、聞いていいですか」
「はい、どうぞ」
「なんだか体がへんなんですけど……あの、腰のあたり。なんか乗っかってないですか。犬とか、猫とか、ねずみとか」
ミミが言うと、リカオンは目をそらして「くすっ」と今までにない微妙な笑いを浮かべた。
恥ずかしい? 楽しい? 面白がってる? どれも合っているようで違う――ミミの知らない笑い。
「ミミ様。あなたは女性だったのですね」
「だった……ですか?」
「はい……今のあなたはもう、女性ではありません。あなたは『エルフ』。男であり女であり、私たち人間の上に立つ者。この国の王陛下に連なる、偉大なる血族の、新たな一員となられたのです」
「ふぁ……?」
リカオンの話は、完全にミミの理解を超えていた。ぽかんと口を開いて放心状態のミミを見て、彼女は説明の仕方を間違えたことに気づいたのか、咳払いをして説明し直そうとする。
「つまり、あなたは一度死んで、新しい体に……いえ、ご自分で見た方が早いでしょう。どうぞ、私は向こうを向いていていますから。服を脱いで、確かめてください」
言われるままに、ベッドを降りるミミ。床に足をついた瞬間から、「何か違う」と感じた。体の軽さ。そして足の間の妙な重さ。何もかもが、どことなくいつもと違う。まるで別人の体みたいに。
背を向けたリカオンをちらちらと気にしながら、ミミは着せられていたネグリジェをするりと脱ぐ。
「ふぇ……ほぇぅわぁっ!?」
自分の下半身に起きた変化を見て、ミミは素っ頓狂な声をあげた。そこにあったのは、下着の中の予期せぬふくらみ。
ミミは壁を向いていたリカオンの肩を引っ張って、自分の方を向かせる。
「あのー……なんかできものできちゃったみたいなんですけど! 結構おっきいのが……これ、取れますか!?」
「できものではありません。それは、あなたの体の一部です」
「えーっ、ええーっ……体に悪くないんですか?」
「まぁ、悪いことはないと思いますよ。エルフに限らず、男の方はみんなついてらっしゃいますし。『島』でご家族のを見たことありません?」
「あ、そっか……これ、お父さんと一緒なんだ。そっかぁ、うーん……」
「女の私にはわかりませんが……楽しいことも色々とあるそうですよ」と言ってフッと眉をひそめて笑うリカオン。
「楽しいこと……」
困惑しつつも、ぴょんぴょん跳ねてみるミミ。すると体の動きに合わせて、その「できもの」もひょこひょこと上下に跳ねた。
「……たしかにちょっと面白いかも?」
「そういう楽しさを言ったわけではないんですが……まぁ、早く馴染まれたのならよいことです。でも、無理はなさらないように。ご自分で気づかなくても、まだ体はお疲れのはずですから」
そう言って、リカオンはミミのネグリジェを着せ直し、そっとまたベッドへと導いた。
されるがままに横になって、毛布の中にくるまるミミ。リカオンの言う通り気づかないうちに疲れていたのか、さっきまでは感じなかった眠気がどっと押し寄せてきた。それともあまりに多くの情報を一度に聞いたので、頭が疲れてしまったのかもしれない。
「……どうして、そんなにしてくれるんですか? お母さんでもないのに……」
「どうしてって、私はあなたの妻ですから」
「え?」
「私はあなたの正式な妻です。お眠りになられている間に、式も手続きも終わりました。不束者ですが、これから私の命が尽きるまでの間、よろしくお願いしますね」
そう言うとリカオンはぽんぽんとミミの毛布を軽く叩いて、窓辺の明かりをふっと吹き消した。
突然の言葉に頭がついていかず、暗闇の中ぽかんと口を開いたまま横たわるミミ。
「え……ふぇぇ?」
リカオンはそんなミミを見てくすっと微笑むと、ベッドのそばにかがみこんでささやいた。
「おやすみなさいませ」
次の瞬間、薄暗い視界の中でそっと近づいたリカオンの顔が、ぺとりとミミの唇に触れて、また離れていった。そしてリカオンはなにごともなかったように、ミミを一人暗闇に残して部屋を出ていった。
「え、ええええー……っ!?」
一人になったミミは、真っ暗な天井を見ながら叫んだ。それからまた目が冴えてしまって、脳内の混乱がおさまって眠りに落ちるまで結局数時間ほどかかったのだった。




