ベルカ・テンレンは恋に惑う
――世の中には、好きどころか大いに苦手なのに見返してしまう映画がある。
ベルカ・テンレンにとってのその一本は、映画好きにとってはSFホラーの名作に数えられる作品だった。繭の中に潜み人間に寄生し、やがて羽化するときそのはらわたを食い破って成体となる異形の怪物。
黒光りする外骨格の異星生命体が、密室の宇宙船内で殺戮の嵐を引き起こす――そんな今となってはありきたりの物語だ。
ベルカはこの映画がひどく苦手なくせに、何度も見返してしまう悪癖があった。
――人の中に入り込み、人の皮を食い破り、人を殺すもの。
ふと思うのだ。
自分とあの怪物の間には、どれだけ違いがあるのだろう、と。
わかっている。
これは馬鹿げた自傷行為に過ぎない。
自分自身の感情に確信が持てないから、こんなことをして誤魔化しているだけだ。
そう、彼女の中のとびきり冷静な部分はささやくのだけれど、ベルカの感傷的な情緒はどうにもこの悪癖を捨てられない。
あんぐ、とピザをかじる。
今日は宅配ピザではなく使用人のシエランお手製である。
また料理の腕を上げたな、と思う。
〈共和国〉中央直属の工作員上がりがずいぶんと鍛え直したものだ、と感心する。
昔はもっと可愛げがなかったものだけれど――まあ、料理が美味しいのはいいことだ。
エンドクレジットに入った映像を止めて、ホームシアターの照明をつける。
ソファーに身を埋めていた二時間弱はベルカにとって苦痛でありながら、ある種、自戒を促す時間であった。
少なくともSFホラー映画を見てこんな心境になっているのは、地球上で自分ぐらいのものだろうな、と苦笑。異形の怪物に人ならざるものとして自己投影をしているのは、我ながらどうかしている。
眼球に擬態した視覚素子は、人間のそれよりもはるかに早く明暗差に順応。青い瞳が代わり映えしない部屋を見回す。
ふと、あの男――ドクターカインの言葉を思い出した。
もし仮に、自分にこの世すべての人間を裁く力があったとしても。
「…………わたしに断罪なんてできないよ」
こんなにも、自分自身を疑っている自分が、他者を裁くなどおこがましい話だ。
第一、裁きに値するほどの罪とはなんだろう。
人間とはすなわち、生きる限り悪に飲み込まれる生き物なのだ。
それと知らずに他者を抑圧し、差別し、搾取する邪悪の輪――完全な被害者がこの世に存在するとすれば、それは生まれて間もなく/あるいは生まれる前に息を引き取った赤子ぐらいのものだろう。
誕生とはすなわち、生の罪に身を浸す行いなのだから。
ゆえに、罪は罰を受けるべき悪を意味しない。
すべての命は罪深いのだ。
ベルカ・テンレンは人間が嫌いだ。その愚劣さを侮蔑し、醜悪さを憎悪してすらいる。だが、自身の好悪が善悪を左右しないことも心得ていた。
この感情はベルカが人間に近しいから抱く嫌悪であり、またそれゆえに、彼女に人外として人を俯瞰する視座など存在しないのだ。
ああ、まったく度しがたい。
――そんなセンチメンタルな気分に浸っていると。
「お嬢様」
「ん、いいよ」
「失礼します」
部屋のドアを開き、ぬっと現れる黒髪の美女。
ベルカの使用人であり従者、シエランである。切れ長の目と雪のように白い肌、すっと伸びた長身が印象的な女性である。いつも通りにパンツルックのスーツに身を包んだ彼女は、さも深刻そうな口ぶりで――
「――本日のイヌイ様に告白されない理由作りの時間は終わりでしょうか」
「うわーっ無礼!!!!」
――信じられないぐらいの剛速球を投げてきた。
たぶんデッドボールで死者を出す投球だ。
「シエラン、ちょっと待って……なんで今、わたし罵倒されたの?」
「お嬢様、これは仕えるものとしての最低限の義務なのです……主への諫言もまた従者の務めでございます」
「え、ええぇー……それにしては妙に人の純情を踏みにじってくるじゃん? おかしくない? 奥ゆかしさが足りなくない?」
「ですがその奥ゆかしさが問題なのです」
シエランはすまし顔で主を見下ろしている。
二人の身長差は三〇センチ以上あるため、文字通り頭一つ分、ベルカの方が小さかった。いつもならこんな無礼な振る舞いをしない従者だけに、なおさらベルカの困惑は深い。
いや、シエランの言わんとすることはわかる。わかりすぎる。
ぐぬぬぬ、とうめきながら金髪の少女はろくでもない言い訳を吐き出した。
「いやほら、わたしもリョーマも若いし? 心の準備が必要っていうか……」
「お嬢様の生まれは前世紀では……」
「わたし、稼働期間より機能停止期間の方が長いし!」
「それにお嬢様もイヌイ様も、この春から高校生です。色恋沙汰には十分ではないかと」
逃げ道は一〇秒で潰された。
じーっとシエランに見つめられていると、もう観念するしかなかった。
目をそらして、ぼそっと本音を口にする。
「……きっと、わたし以外の誰かの方がリョーマを幸せにできるから」
こんな怪物の自分よりも、相応しい人がリョーマに入るはずなのだと信じた。
いつも思うのだ。
もしも自分が想いを遂げて、彼とキスして、抱き合ったとき。
そこにいるのは年頃の少女などではなく、それに擬態したオリハルコンの怪人なのだとリョーマに告げられるだろうか、と。
ああ、無理だ。
たとえ優しい彼が受け入れてくれたとしても、ベルカ自身がそれを許せない。
自分のような生き物が、イヌイ・リョーマを――
「流石ですねお嬢様、未練たらたらでストーカーになりそうな台詞です」
独りよがりな思考は、もちろん罵倒された。
あまりにもあんまりなので、さしものベルカも泣きそうになった。
「最近のシエラン、わたしに対しての敬意が足りないと思うなあ!?」
だが、シエランは心を鬼にしていた。
というか鬼畜のレベルで容赦がない。
「おいたわしやお嬢様……まさかそのようなコンプレックスからイヌイ様の恋情を踏みにじられるとは」
「そこまで言わなくてよくない?」
「私も心を傷めて忠告しているのです、お嬢様」
「シエラン、キミのポーカーフェイスってこういうとき便利だよね」
「お褒めにあずかり光栄です、お嬢様」
ここまでダメ出しされると、ベルカにも自分のダメさが自覚できてくる。
そうなのだ。
たとえベルカ・テンレンが自己嫌悪の塊だろうと、それは幼馴染みの少年の優しい気遣いを消費していい理由にはならないし、その恋情を現状維持でだらだら留めておくのもかなりの甘えだ。
どんなためらいがあろうと、ベルカの時間もリョーマの時間も、等しく過ぎていくのだ。
「ナツミちゃんには悪いことしちゃったなあ……うわー、気まずい、どうしよう……」
「ご自分が悪いという自覚は大変素晴らしい進歩かと」
「腹立つなあ……!」
「私を解雇されますか?」
「そんな狭量な雇い主に見える?」
「いいえ、お嬢様は私の生涯の主となられる御方です」
したり顔で断言するシエランは、本気でそう言っている。
もう祖国の土は踏めないと覚悟を決めている彼女は、つまるところ、ベルカ個人への忠義のために他のすべてを犠牲にしていた。それだけの事件であり、過去があったからこそ、人間嫌いのベルカが自身の正体を明かしているのだが。
「ありがと……うん、キミの信頼に応えられる主でいるよう努力するよ」
つまるところ自分は、いつだって後悔だらけの生き物なのだ。
まだ生きている大切な人を目の前にして、悔いを増やすような生き方をしているようでは進歩がない。
だからそう、ベルカはベルカなりに前に進もうとしてみた。
「こ、今度……リョーマとデートしてみる……映画オールナイトお泊まり会とかで……」
「…………お嬢様、いつもと何が違うのですか、それ」
進歩はミリメートル単位で存在していた。
たぶん。




