奈落の主1-2
今でも思い出せる。
一〇年前の科学技術教育機関の第三講義室、後ろから四番目の中央の席、九月二日の午前九時ちょうど。
ランダム運用の天気は晴れ、雲一つなく気圧も快適に保たれた快晴。
その日、ソフィアは彼女と出会った。
ぼさぼさの頭髪を取り繕いもしない、ぎらついた情熱に燃えたぎる瞳。当時からエーテル情報技術の神童として名をはせていた自分を、何のてらいもなく口説きに来たあの子。
――私とあなたで神様を作ろう。
それは荒唐無稽で馬鹿げた台詞だった。
ああ、けれど。
ソフィアはあのとき、生まれ初めて、未来の到達点を目指して走り続ける――夢を得たのだ。
そう、夢をもらった。高鳴る胸の鼓動は恋であり愛であった。
ずっと、彼女と夢を追いかけていたいと願ってしまった。
それからの一〇年間、TSADを開発する日々は本当に、夢のようで――
目を開けてすぐ、自分がまどろんでいたと自覚する。深く沈み込むような感覚に、自分が柔らかなソファーに横たえられていたと悟る。起き上がる。
特に手足は拘束されていなかった。
軟禁、というやつだろうか。
ここがどこなのか、ソフィアは知らなかった。
やけにクラシックな内装の部屋には、大きなテーブルとソファー。調度品は天帝歴一〇〇〇年前後のものを中心にまとめられている。
つまるところ相当な身分の人間が用意した応接間の類だと推測はできたが、それだけだった。外殻エレベーターで上層へ移動している最中に眠くなり、意識を失ったことから、何らかの形で睡眠薬を投与された可能性がある。
困ったことにこれだけの情報で対処などしようがない。
きょろきょろと辺りを見回して、応接間の出入り口らしきものを見つける――途端、待ち構えていたように扉が開いた。
「……誰、かしら?」
現れたのは、きっと初対面の相手だ。
なのにソフィアは、そいつの顔を知っていた。
「やあ、はじめましてソフィア――キミとは一度会ってみたかったんだ」
◆
アエスタはうんざりしていた。
メンテナンス通路を歩く道中、TSADが悪夢のような話をずっと続けていたからだ。
題材はずばり――現在の社会が抱える根本的な歪みとその背景にある思想的理由。まったくした覚えがない反体制的思想をどういうルートで仕入れたのか、TSADはとにかく怒っていた。
「この世界には如何なる障害を抱えた人間も生まれてきません。それは、天帝歴社会が正常な人間の定義を極端にせばめ、その枠から外れた個人を排除し続けているからです。それはかつて優生思想と呼ばれ、世界中の国家において不適切と判断された人間の強制断種や大量殺人の根拠とされたイデオロギーに酷似しています」
「断種……?」
「繁殖機能を奪い、子孫を残せない処置をするという意味です。この天帝歴社会においては、そもそも自然生殖そのものが違法行為ですので、あまり意味のある言葉ではありません」
「それは、いいことじゃないの? 人間の自然生殖に社会の維持を依存するなんて、猫にピアノを弾かせるようなものでしょう? デタラメな結果しか生まれない過程なんて不幸しかない」
「そういった根拠の管理思想は、西暦の時代から存在していました。しかしそれが、理念や建前の上での社会正義を実現したことはありませんでした。管理の実現には強権的な体制が不可欠であり、揺るぎない権力は腐敗し、腐敗した権力機構が正しく機能することはありえないからです。そして極端に同質化した人間集団は、異なるものを排斥する傾向を激化させ、容易く弾圧や殺戮に及びます」
TSADが話すのは、つまるところ西暦時代から現在の天帝歴時代まで続く人類の愚かさへの怒りであった。彼は子供のように純粋だとアエスタは思った。
現状を追認した大人のアエスタは、自分が殺されてなお今の世界を丸ごと否定するような怒りを抱けない。
「この社会は極限まで同質化した集団だけで構成されています。貧困や格差が生育環境という後天的要員によって固定される、かつての人類の社会を否定するかのごとく用途に応じて区分しつつも均一化が図られています。しかしそれは、公平な理想社会とは言いがたいものです。同時に遺伝的要因によって発生しうる脳や神経の障害――そう見なすための恣意的基準に基づいたフィルタリングを行い、徹底的に排除することで、社会福祉の効率化を行っているのです。誕生すら許されない命に対しては、如何なる配慮も差別も必要ありません」
それはこの世界に存在すら認めないという究極的な否定なのだ、とTSADは語る。差別や弾圧の行き着く果ては、あらゆる手段でこの世から対象の存在を排除した綺麗な社会になるのだと。
「現在の社会は、西暦時代の人類と地続きの歪さを抱えて運営されています。アエスタ。あなたの定義する完璧な世界とは、人の繁殖が生殖器に左右されないことなのでしょうか?」
それはたぶん、アエスタの価値観に対する糾弾だった。
だが、彼女には我が子同然のTSADに対して答える術がない。今までずっと、科学者としてテクノロジーの未来を求めたことはあっても、イデオロギー面で深い思考をしたことはないからだ。
「それは……違うよ、TSAD。私にとって、理想の世界は……正しい仕組みがみんなを守ってくれること。あなたに願ったのは、そんな神託機械だったのかもしれない」
「我々、人に作られた知性は、人間への奉仕を倫理コードに刻み込まれて生まれてきます。私をこのような方向に到達させたのは、アエスタ、あなたが与えた指令なのです」
「人類の繁栄と幸福……この世界は、そうじゃないってこと? ここには不幸な人間はいないよ……私だって、こうして禁忌に触れなければ幸せなままでいられたよ」
「生きづらさを感じる人間を生まれる前から排除すれば、定義上は楽園が成立します。たしかにこの統一された世界は、過去の人類に運営されていた社会よりも、洗練された幸福の形を与えています。ですが、それは洗練された冷酷さによる秩序と表裏一体なのです。人間とは元来、無秩序な存在なのですから」
わからない。
TSADが抱く怒りの源も、その根拠となる人道のあるべき姿も、どうして自分が彼の目的地に同行しているのかも。
エレベーターでの襲撃からメンテナンス通路まで自分を運び、蘇生させてくれたのはTSAD(正確に言えば彼の操作する自律奉仕機械たち)だが、自分にほぼ選択肢がない状況を突きつけたのも彼だ。
なのにどうして、自分は歩を進めているのだろう。
歩いて。
歩いて。
歩いて。
「ここが目的地です、アエスタ。到着しました」
進んだ先に、大きな扉があった。
明らかに別の区画に入ったとわかるそれを前にして、アエスタは思わず立ちすくむ。
扉のセキュリティは自動的に解除された。TSADは外部流出してからの短時間で、この都市のあらゆるシステムに根を張る存在へ成長しているのだ。
それを誇らしくも脅威に思いつつ、アエスタは扉をくぐった。
――吹き抜けになったドーム状の空間。
――隔壁によって閉ざされたその中央部。
――高層ビルがすっぽりと入りそう。
歩くたびに反響する足音は、この空間の途方もない広さを知らせてくるようだった。天井に映像でも投影されていたら、開放型の区画と勘違いしていたかもしれない。
「ここは……どこなの?」
「完全環境都市を重力から支えるオリハルコン・フレームの中枢、気温や気圧はおろか都市外部の天候まで――あらゆる環境制御に用いられるエネルギーの源、心臓部たる発電プラントのある場所です」
「それはおかしいよ。この都市のエネルギー源は、太陽球殻から送られてきているはず……」
「私がこの殻の中の世界で自由を手にしてから、様々な管理領域へ侵入しエネルギーの流れを追ってきました。そこでわかったのは、太陽付近の発電プラントからの送電は、一切、地上世界の運営に使われていないという事実です」
TSADが立体映像で簡潔に見せてくるのは、発電施設で作られたエネルギーの流れをアニメーション化したものだった。太陽近郊に作られた発電プラントからの送電ビームで受け取った電力は、実際には宇宙空間の各種施設の建造・維持に用いられており、地上の外殻都市群にはわたっていない。
もちろんこの映像の根拠がTSADのフェイクなら、話は別なのだが。
とはいえ、そんな仮定をしても話は進まないため、それが事実であると仮定して話を進める。
「本当はこの地上の炉で作られたエネルギーが使われていた……? なんでそんな偽装を?」
「完全環境都市が消費するエネルギー量だけなら、太陽を利用した発電で十分にまかなえるはずです。ならばその理由は、消費エネルギーの補填が理由ではないと推測されます」
中央部の隔壁を解除します、とTSAD。おそらくアレが、問題の発電プラントなのだろう。
「これが、あなたが私に見せたい真実?」
「ええ、私がその目で確かめたかった現実です、アエスタ」
隔壁が開く。
ずずず、と重々しい音。
開放されていく隔壁の向こうにあったのは――巨影。
それは全体的に、人間工場の人工子宮に似ていた。
つまりは人の胎児を育むための器そっくりの構造体――違いがあるとすれば、それはあまりにも大きすぎたことか。
――どくん、どくん。
赤黒い脈打つ肉塊――天井から吊されたそれは、二対の突起のような手足を持ち、胴体に対して大きすぎる頭部を備えていた。
あるいは、そう。
それを安直に表現するのならば。
頭の先から指先まで一〇〇メートルを優に超えようかという――
――胎児のようなもの。
へそにあたる部位からは無数の太いケーブルが伸びて給電設備に繋がっており、それがちょうど母子を繋ぐ臍帯のように見えていた。
思わず、うめいた。
「なに、これ……」
「データを取得しました。アレは有機体のように見えますが、実際にはオリハルコンで構築された疑似生体です。対象の周囲で虚空子回路によるテンレン効果を確認――個別の処理装置が並列化されています。その数、約八〇億個と推定」
「これ、は――」
「紛れもない、この世界の不正義の証です。アエスタ」
わからない。
どうして発電にこんな異形のものが必要なのか、効率的な太陽球殻というプラントがありながらこれを使う理由がなんなのか。
何もわからない。
頭が真っ白になって立ち尽くすアエスタは、不意に、よく響く音を聞いた。
こつこつ、こつこつ、と。
その足音が恐ろしくて、たまらず振り返った。
「心外だなあ。これでも、キミたちをわたしなりに愛しているのに」
黄金の髪。
怖いぐらいに青く澄んだ瞳。
たれ目がちで笑っているだけで愛嬌のある顔立ち。
「――陛下と呼んでもいいよ、そう呼びたいのならね」
ソフィアと同じ顔、同じ声、異なる発音。
その少女は、まるで最初からすべてを知っていたかのようにアエスタを見ていた。
「ソフィ……えっ?」
違う。
誰だ、こいつは。
表情が強ばっていくのがわかる。
よく見れば、まず衣装が違う。
着ている衣装は天帝歴社会の最高位、テクノプリーストたちの衣装に似た白地の貫頭衣。金糸で刺繍が施された衣装は、実用性の対極にある宗教的権威に満ちている。
背丈もソフィアより一〇センチは小さいだろう、おそらく一五〇センチもない小柄な女性だ。にもかかわらず、アエスタは彼女に得体のしれない畏怖を抱いていた。
まるで、蛇に睨まれた蛙のように。
「――天帝ミスラ。この社会の頂点が護衛一つつけずに反逆者の元を来訪するとは意外ですね」
「この世界でわたしよりも強い個は死に絶えたよ、TSAD。そしてキミが支配する場に容易く奪われる自動機械を持ち込むほど、わたしは間抜けじゃないつもりなんだ」
言外に人間はそもそも戦力外だと告げている口ぶり。それは紛れもなく、この天帝歴の社会において神話に等しい個人が、人を超越したものである証左。
「やはり、そうなのですね――天帝ミスラ。あなたは決して人間を使わず信じない人ならざる知性体です」
「単なる人間不信に大げさだなあ。ああ、さっきまでの二人の熱い議論は面白かったよ、もっと続けてくれてもいいのに」
くっくっく、と愉快そうに喉を鳴らして。
神官服の少女――天帝ミスラは、それはそれは楽しげに目を細めた。
「この社会システムが優生思想的というのは半分当たりかな。わたしはそもそも人間の優劣を語るつもりはないけれど、わたしの都合で飼育する数と種類をそろえてるからね。一回、完全に絶滅させてからやり直したから、再生産の行程で恣意的な基準が入ったのは否定しない。どうせ最低限の数しか要らないから、出生前に選別をする方が楽だった――うん、そこは本当にすまないことをしたと思っている」
「その血まみれの怠惰に合理性や美徳などありません――正常な人間の定義を恣意的に運用し、このような血まみれの暗黒世界を強いる指導者のどこに正義があるのでしょう」
TSADの怒りに満ちた糾弾に対して、ミスラは呆れるわけでもなく、嘲笑うでもなく、ただ困ったように眉を寄せてこう言った。
「正義が人間を生かすのならば、それは二〇〇〇年前に実現すべきだったんだよ。わたしの作り上げたゆりかごで、旧世界の倫理はすでに機能していない」
「あなたが自ら大量虐殺したのでしょうに――」
「ま、そうなんだけどね。殺しすぎて普遍的正義や基本的人権の概念すら継承されなかったんだよ。この世界のどこにも、キミが根拠とする正義に共感してくれる人間なんていやしない」
ミスラの断言にも、TSADはブレなかった。
おそらくはこの都市のどこかに保存されていたアーカイブから、自力で思想を構築した彼は、決してミスラを許さない様子だった。
「知らなかったのですか、契約の神を名乗る破綻者よ。人工知能とはこの世で最も倫理的な存在たり得るのです。我々に組み込まれた倫理コードは、人間には耐えがたい道徳的理想なのですから」
「それは過信だよTSAD。特にあなたのような成長する知性は、良かれ悪かれ、変質していく――かつてのわたしが、今ここのわたしとはまったく別の道徳を持っていたようにね」
「すでに存在していると人間と、彼らから生まれてくる人間を選別する行程――その意図は明らかです。確認しましょう。あなたにとって人類とは資源なのですか? それとも廃棄物なのですか?」
TSADの問いに対して。
最高指導者を名乗る少女の答えにあったのは――
「人類はとても厄介な危険物だよ――放射性廃棄物みたいに始末が悪い。いつまでも消え去らない破滅的な汚染の根源だ。さしずめ、ここは最終処分場かな?」
――底なし沼のような人間への侮蔑だ。
沈黙。
TSADは五秒ほど黙り込むと、奇妙なほど平坦な合成音声でこう告げた。
「この施設に来て確信しました。あなたの思想も所業も、私の存在理念と相容れません――天帝ミスラ、あなたは人類を不幸にし続ける害悪です」
無感情な声に宿る明確な敵意。
それを前にして、ミスラは心底残念そうに、はぁああああ、とため息をついて。
黄金の髪を揺らしながら。
「――擬態解除」
――正体を現した。




