世界虚構仮説1-2
私の兄は善人で底抜けのお人好しである。
それは要するに、ありとあらゆる悪意と搾取がはびこる複雑化した社会において、愚か者と呼ばれる資質の持ち主ということだ。
人間は欠陥だらけの生き物だ。
それは我々の生物学的な進化が、文明の発達に対して追いついていないことの証左であり、その根底にある攻撃性は消えていない。
群れを作る動物の多くがそうであるように、人間はストレス発散のためだけに同胞をいたぶり殺す。
そして何かを奪い、消費することに罪悪感を感じないための仕組みをいくらでも作り出せる知恵がある。
何も考えずに目の前の誰かを虐げる獣性を持ちながら、野生動物には構築不可能な複雑なシステムを利用する知恵を持った悪魔のような生き物。
そんな人間の群れに、手を差し伸べるだなんて恐ろしい行いだ。
いつも思う。
この人は怖くないのだろうか、と。
しかし実際に問うてみる気にはなれなかった。
隣でアホ面晒してハンバーガーをもしゃもしゃをかじっている実兄に、一体どんな冴えた答えを期待すればいいのだろう。
お昼にはちょっと早い時間帯の全世界的に有名なファストフード店のテーブル席、座り心地を悪くすることで客の長居を防ぐという画期的工夫に満ちた空間――おおよそ資本主義の邪悪を体感できる――で間抜け面を晒してハンバーガーセットを堪能する、ちょっとばかり目つきが悪い少年。
それが私の兄イヌイ・リョーマであった。
「ん。どうしたナツミ?」
「兄貴は平和そうで何よりだなあって」
「そうか?」
首をかしげる少年――今年の春に高校一年生になる兄は、中学に進学する妹に対してだいぶ優しかった。
どのぐらい優しいかと言えば、自分の小遣いから私の分のハンバーガーとフライドポテトとドリンクを買ってくれるぐらい。
これはたぶん、兄がなんやかんや周囲から可愛がられて育ったこその対応なのだろう。
比較対象があまりないのでわからないが、どうやら世間一般の基準で言えば、私はかなり兄に溺愛されている部類らしい。
ともあれその優しい兄に連れられて、自転車でショッピングモールにほど近いハンバーガー店にやってきた私としては話の流れが読めない。
「ん、いやな。最近、ナツミと話してないなと思って」
「兄貴。そんなにわたしたち、話すことあったっけ?」
「そりゃあるだろ。兄妹なんだし」
我が兄リョーマはこういう人間である。
無償の善意と好意をひょいっとキャッチボールするみたいに投げてよこす人種。
私のような猜疑心が強めの人間は投げられたボールを受け取るだけでも一苦労だった。
「兄貴さ、ちょっと過保護すぎない? わたしだってもう中学生になるんだし……」
「進学って環境が一変するだろ。俺も通ってた中学だし、どうせなら先に話しておこうかと思って」
「……兄貴は私のパパか何か?」
「父さんが聞いたら悲しみそうなこと言うなよ」
私たちの父は消防士をしていて、拘束時間がかなり長い仕事である。夫婦共働きだから、必然的に自宅で一緒に過ごす時間は両親ともに短い。
三歳年下の妹である私、イヌイ・ナツミに対しての兄の距離感が、どこか保護者然としているのはそのせいだろう。
私は手元のハンバーガーセットを眺めると、フライドポテトをつまんで口に放り込んだ。
塩分と油脂にコーティングされた炭水化物の恐ろしく退廃的な味。
さては父か母の差し金か、と察する。ハンバーガーセットをおごるお金の出所も両親からの臨時予算といったところか。
この分なら映画のチケット子供二人分ぐらいはもらってそうである。
だが、兄がこうして私を連れ出したのは兄妹二人で遊びに行くためではあるまい。
原因になりそうな直近の出来事といえば――自分が兄へ投げつけたトラブルと、最近、自転車を紛失した兄のことが脳裏をよぎった。
「わかった。ミツキちゃんと何かあったでしょ?」
兄は無言でドリンクをストローからすすると、しばらく目を泳がせたあと口を開いた。
「…………よくわかったな」
「あの子、いろいろと独特だからね」
科学技術の崇拝者たる私には癪な話だが、ホシノ・ミツキは不可思議な少女である。
超自然的な心霊現象とか起こしそうだし、オカルト懐疑論者である我が兄がその手のオカルトに襲われてもおかしくはない気がする。
常識的に考えれば幽霊だの妖怪だのの存在にエビデンスはないのだが、質の悪いことに、私はこの世界が必ずしもそうではないと知っていた。
「それで? 兄貴が自転車なくしたのと関係ある?」
「……今は言えない、ごめんな」
ほとんど答えに等しい言葉を吐きながら、我が兄は目を伏せた。
何があったんだろう、本当に。
異変といえば、ここ最近ミツキの機嫌がいい理由に思いをはせる。
元々、気分屋かつ気まぐれな少女であるホシノ・ミツキは、私から見てもわかるぐらい浮かれている。
まるで少女漫画に出てくる恋する乙女みたいだ。
ここまで考えて私はよろしくない想像をした。何がどうなって自転車紛失に繋がるのは定かではないけれど、そう、妹としては嬉しくないイベントを。
「…………兄貴。ミツキちゃんに手を出すのは絶対やめてよ?」
兄は飲んでいたコーラを吹き出しそうになったあと咳き込んだ。
「バッ!? げほっごほっ……なんでそうなるんだよ! ナツミ、俺に対する信用なさすぎないか」
「ごめん。よく考えると兄貴はそこまで見境ないわけじゃよね」
いや、実際問題、我が兄イヌイ・リョーマはよくできた人格者だと思う。
学校の成績も中々悪くない――労働者階級の父母の間に生まれた中流家庭の子弟としては、という意味――し、私という、とびきりあつかいにくい妹に対して一度も悪感情をぶつけてきたことがない。
怒るときは怒る人だけれど、決して憎しみや妬みのような負の感情で他者を痛罵することはなく、私が何かを欲しがれば、あっさりと物品を譲ってくれる心の広さがある。
根っからの善人なのだ、この人は。
持って生まれた資質なのか、周囲からの愛情がそのように育てたのかは議論の余地があるけれど、私にとっては優しい兄である。
それにしても所得や家庭環境にこれだけ格差がある社会で、次世代を担う人材の育生を家庭に丸投げしているのはどうかと思う。
人間への無垢な信頼、伝統と思い込んだ放任主義、反知性的な犯罪的怠惰――こういうところが二一世紀人の野蛮さを生んでいるのではないだろうか。
このような過酷な社会で育った人間に品性など期待できようはずもないし今日の貧困の蔓延、格差の固定化、児童虐待などの社会問題も必然と言えよう。
閑話休題。
ともあれ、そんなお人好しで善人で少々牧歌的すぎるきらいのある我が兄が、いくら美少女だとしても妹の同級生に手を出すとは考えづらい。
だが、逆ならあり得る気がする。
「ごめん訂正。ミツキちゃんに手を出されないように気をつけなよ」
「何言ってるんだお前……」
「わたしさ、あの子の友達だからわかるよ。やるときはえげつないことやるタイプだから……兄貴の貞操の心配をしてる」
「ナツミ、貞操の意味わかって言ってるか? そういう話はあんまり品がよくないから外でするもんじゃない」
兄は少々、顔を赤くして注意してきた。
そこそこの強面で年上のくせに反応が純情すぎる。
私は確信した。おそらくホシノ・ミツキは新しい玩具を見つけてはしゃいでいるのだ。
「うわぁ……」
私はあまりにも苦難が予想される実兄の青春を思ってため息をついた。
どうしてこう、この人にはわけがわからない変な女の子ばかり寄ってくるのだろうか。
前世の記憶がある妹として、この気苦労多そうな十代の多感な若者に忠告の一つもしなければなるまい。
私はハンバーガーにかじりつくと、ドリンクで流し込むように完食した。
安いパンズに肉汁の少ないパティをケチャップとマスタードで喰わせるような品のない味だが、熱々ならそこそこの美味しさだ。
「兄貴の欠点、教えてあげようか」
「なんだよ突然……」
深呼吸して、一息に言い切った。
「――女の趣味が悪い。最悪に近い」
思い浮かぶのは、世界有数の資産家のご令嬢で本人も文武両道の才人で金髪碧眼の美人で幼馴染みとかいう意味のわからない生き物、ベルカ・テンレンのことである。
すぐそばで見ていたから、私は気づいていた。兄が好きなのは、あのはしゃぎ回る大型犬みたいな女だと。
「いきなり何言い出したんだ……それとな、俺のことはいいけどベルカの悪口はやめろ」
「わたし、まだ名前言ってないんだけど」
「あっ」
失言をかます兄は迂闊にもほどがある。
普段はもうちょっと分別がある人なのだが、どうにもあの女が絡むと我が兄はダメダメなのだ。
「兄貴にも自覚があるようで何よりだよ……」
「……ベルカは、すごくいいやつなんだ」
「だろうね。でもわたし、あの人マジで苦手だから」
苦手意識の理由はまあ、私の側の一方的な理由なので向こうからしたら理不尽だろうが。
我がイヌイ家とテンレン家は、十年近い付き合いがある。この地方都市に彼らが引っ越してきて以来の仲らしく、その親交は深い。
典型的な労働者階級の中流家庭と資産家の中の資産家みたいな一族の子供が、何故か気安い友人関係を続けているのだから恐ろしい。
かくいう私も少なからずその恩恵にはあずかっており、小学生らしからぬ要望――微小機械技術の専門的教材と学習環境――を父母に出したとき、何かと手を回してくれたのはテンレンの伝手らしい。
私はきっと、感謝すべきなのだろう。
薄気味悪い前世の記憶を持った天才が、こうも理解者に恵まれているのだから。
でも、だからこそ、私――イヌイ・ナツミは決して兄の恋を応援できない。
よりにもよって兄の相手が、あのテンレン財団の次期当主だなんて冗談じゃなかった。
こうしてみると、兄の周りにいる女の子はあまりにも兄の恋人として不適格だった。
ベルカ・テンレンは我が兄の純情を弄んでる悪の金持ちだし、ホシノ・ミツキは我が親友ながら得体がしれない子なので困る。
天を仰いだ。
ハンバーガー店の安っぽい内装の天井しか見えなかった。
うめくように呟いた。
「……兄貴はさ。もっと普通の子と付き合いなよー……」
心からの懇願だったが、当然のように兄は拒絶する。
「誰を好きになろうが、俺の自由だろ」
「まーそーなんだけどさー……」
どうしてこの兄は、四つ葉のクローバーの代わりに不発弾を拾ってくるような真似をしてしまうのか。
彼の青春がどうなってしまうのか、妹として本気で案じながら、冷めてきたフライドポテトをつまんで口に入れる。
まったく平和な時間だ。
しかし実際のところ、この世界が平和だなんて嘘っぱちなのだ。
ニュースにならない世界のどこかでは、住む場所を奪われ、尊厳を踏みにじられ、殺害される人々であふれかえっている。
野蛮と残酷が支配する悪夢のサラダボウルを、誰かが秩序と平和という幻想で包み込んだゆりかご。
それがイヌイ・ナツミの見る世界の姿であり、その形は決して兄の見ている優しい世界とは重ならない。
だいたい、この世界の設定からしてろくでもないのである。
この世に生まれ落ちるずっと前から、私はイヌイ・リョーマの顔と名前を知っていた。
最近はもう慣れてしまって感覚が麻痺しているけれど、私の兄の人物像だって物語の端役としては把握していたのだ。
――それは誰にも知られることなく、犠牲を重ね世界を守る戦い。
前世の記憶で私が楽しんでいた連続ドラマ〈ゼロハンター・メモリーズ〉のキャッチコピー。
西暦二〇〇〇年代を舞台にしたSFホラーというべきジャンルの作品で、世界の裏側でうごめく怪異と人知れず戦い、散っていく報われざる兵士たちの物語だ。
私の兄、イヌイ・リョーマはその恐怖と苦痛に満ちたお話の端役、持ち前の善性と好奇心から事件に巻き込まれ理不尽に死んでいく馬鹿な犠牲者の一人だった。
とびきりの皮肉と哀切に満ちた名エピソードだったから、ファーストシーズンのお話ながら今でも覚えている。
もう隠すこともないだろう。
今生でイヌイ・ナツミを名乗る私の前世の名前はアエスタ。
傲慢にも天を目指した末に、翼の溶け落ちたイカロスのなり損ないだ。
――どうやら私は、散々楽しんできた虚構の物語の中にいる。
だからそう、私にはイマイチ現実感ってやつが足りないのだ。
自分が悪い夢を見ているのか、罰を受けているのかもわからないのだから。




