第3話 青金石(ラピスラズリ)の印璽 2
家に戻り、妻のメアリーにベーカー街221Bでの一件を話した後、すぐにアフガニスタン時代からの友人のロバート・シンプソンの下宿を訪ねた。まだ、大学病院の雇われ医である彼は、私の頼みを快く引き受けてくれた。辻馬車にメアリーと一緒に乗り込み、駅を目指す。
「ウィーンですって?何が起きたの?」メアリーは少し不安そうだ。
「博物館の宝石の盗難さ。久々の正統な事件かも」私は答えた。
駅に着くと、もう、ホームズとハドスン夫人はついていた。
「私、服なんかほとんど持ってませんよ。」ハドスン夫人は文句を言った。
「大丈夫よ。アタシたち、お客なんだから。いよいよとなったら、このウィーン市長にだしてもらうから。」ホームズは平然と言った。まったく彼のずぶとさには呆れてしまう。
汽車に乗り、ドーバー海峡に面した港町、ドーバーにつく、灰色の海の向こうが目指す大陸だ。
「カレーじゃないのね?どうして?」メアリーが聞いた。
「オーストリア・ハンガリー帝国とフランスは同盟関係に無いから、縁戚関係にあるベルギーのアントワープから、首都ブリュッセル、そして、ケルン、ウィーンへといくんだそうだ。」私は説明した。
「へえ、てっきりパリに行けると思って、私楽しみにしてたんですよ。」ハドスン夫人が、ちょっとがっかりしたような声を出した。メアリーも頷ている。私もできればパリを通りたかったなあ。花の都、パリ・・・
「どうしたのかしら?ホームズさん」メアリーが私にささやいた。
ホームズはむっつりと押し黙り、やや斜め上を見上げて、灰色の海と空を見つめていた。
「推理をしてるんだよ。話しかけちゃだめだよ。」
こんな時の彼は、他人を一切寄せ付けない、まるで、透明なシールドを張られてしまったような気がする。アントワープ行きの船に乗り、客室に案内されても、ホームズは無言のままだった。
アントワープはベルギー一の商港で、フランドルの毛織物、ダイアモンドの取引などで潤っている。ナポレオンのおかげで繁栄を取り戻したという歴史もあり、人々の間ではナポレオンの評判はすこぶる良いという。その日は、この港町で一泊し、次の日、汽車でブリュッセルに向かう。運河や平野を眺めながらの旅となった。2等車の客室は瀟洒な装飾が施され、ソファも座りごこちが良い。それなのにホームズは不機嫌そうに立ちあがった。
「ちょっと外へ出てくるわ。」
「ホームズさんどうしたのかしら?」心配するメアリーに、ハドスン夫人が、くすくす笑いながら言った。
「これですよ。これ。」車内禁煙の看板を指さした。「ヘビースモーカーだから我慢できないんですよ。」ハドスン夫人が、おかしそうに言った。
ブランチが運ばれてきた。ベルギーはフランスと接しているため、フランスの食文化が入り込んでいて、食事がすこぶるおいしい。クロケットという堅めの、ホワイトソースできざんだエビをくるんであげたモノや、ワッフルという網目状のパンケーキ、牛肉のビール煮など、どれも、英国の汽車では考えられないような美味さである。
「イギリス人って」ハドスン夫人が、言った。「自分とこの料理が不味いから、美味しいものを求めて、7つの海に乗り出したって聞いてたけど、本当かもねえ。」
「いや、ハドスン夫人の手料理はとても美味しいよ。」私が慰めると、メアリーがすかさず言った。
「あら、私の料理じゃ、お口に合わないのかしら?」
私は、カフェ・オ・レにむせ、女性2人は、私の様子に笑い出した。
ホームズが戻ってきた、たばこの匂いがプンプンする。
「何箱喫ったんだい?」
「まだ、たったの1箱。」
「機嫌が悪いなあ。何か心配事でも、だって、宝石泥棒だろ?殺人じゃあるまいし」
「不可解なのよ。とてもね。」ホームズは冷めかけた食事を食べている。
ブリュッセルで一泊し、ケルンへの汽車を待つ。ホームズはホテルの部屋にこもって瞑想しているので、私たち3人は汽車を待つ間、ベルギーの古都を散策した、中世の面影を残す都市は、メアリーにもハドスン夫人にも珍しいらしく、二人とも目を輝かせている。
「小ぢんまりとしているけど、落ち着いたいい町ですねえ。」ハドスン夫人は正直に言う。
ケルンにつく。大聖堂を見るのは初めてだが、天を突くとはまさにこれなんだろうという、圧倒的な存在感だ。最大のゴシック様式の聖堂は、カトリック教徒でなくても、荘厳な気持ちにさせられる。通過するのが勿体ない。できることなら、何日かゆっくりと泊まりたい気分になってきた。
「なに、ぼんやりしてるのよ。汽車に乗り遅れるわよ。」ホームズが私に声をかけた。
機嫌が良くなったのか、いや、目的地が近づいてきたので、彼の猟犬としてのスイッチが入ったに違いない。結局、彼の楽しみは、珍しい事件の刺激だけなのだ。平穏な日々ほど彼の神経を蝕むものはないのだ。
ついに、ウィーンにやって来た。ロンドンは大都市だが、ウィーンはロンドンとは全く違った華やかさを持っている。オーストリア・ハンガリー帝国の帝都、ヨーロッパの一つの中心なのだ。かつて、ウィーンを取り囲んでいた城壁は、今はリング通りとなり、旧ウィーン市をぐるりと取り囲んでいる。その内側はハプスブルグ家の宮殿が、外側は新しい街並みが発展しているのだ。
私たちは汽車を下りた。我々に近づいてくる人影が見られた。一人は60前後の、中肉中背の男性、もう一人は70は過ぎているかと思われる老人であった。二人とも平服であった。
「ようこそお越しいただきました。ホームズ様。私が、ウィーン市長、ヨハン・カスパール・フォン・ザイラーです。こちらは、」フォン・ザイラーは隣の老人を指示した。白髪に短いひげのやや太った老人である。「ヨゼフ・ラトゥール・フォン・トゥレンベルグ博士、私の友人で、今回盗難のあった帝国博物館の館長です。」
なめらかな英語である。私はほっとした。ホームズは大陸の主要言語は殆ど話し、かつ聞くことができるが、私は、ドイツ語は、読めるが、早口だと聞き取れず、メアリーもハドスン夫人も、ドイツ語は全く話せないからだ。
「よろしく。」ホームズは二人と握手している。フォン・ザイラーと、フォン・トゥレンベルグ館長が、私たちの方にもやって来た。
「遠い所をようこそ、我が国際都市ウィーンへ」
「ご丁寧に、ありがとうございます。市長さん。英語がお上手ですね。私、ほっとしました。」
「あなたは?」フォン・ザイラーはハドスン夫人を怪訝そうに見た。
「アタシの叔母よ。」ホームズが済まして言う。
「ホームズさんは、独身でしたか。大変失礼いたしました。」
「それより、フォン・ザイラー市長。現場をさっそく見たいわ。」
「いえ、お疲れでしょうから、まずはホテルでゆっくりお休みください。現場はきちんと保存しております。」フォン・ザイラーは、穏やかに言った。
「そう、じゃ、ワトスン君、4人で行きましょう。これから、」
「これからって、どこへ?ホテルかい?」
「違うわよ。大英帝国大使館よ。アタシたち、ここじゃ、外国人なのよ。じゃ、フォン・ザイラー、アタシたちの荷物、お願いね。」ホームズは、すたすたと歩きだした。
「おいおい、ホームズ君、失礼だぞ。」
「いや、構いませんよ。職員に運ばせます。」フォン・ザイラーは、少し可笑しそうに言った。