第2話 純愛と醜聞(ボヘミアの醜聞異聞)終
屋敷のなかは、綺麗に片付けられていた。そこからも、彼女の亡命はもともと計画されていたものだということは明らかだった。おそらく新聞発表前に、アメリカに亡命する予定だったのだろう。女一人でこれだけの行動力とは、私はただただ驚くばかりだった。
アイリーネ・アドラーの部屋に入ると、ホームズが3番目の引き出しを開け、中から手紙の束と、写真をもって茫然と立っているのが目に入ってきた。
「殿下、お確かめを」
震える手で、ルドルフ皇太子は、手紙と写真を受け取った。写真はアイリーネ・アドラーの舞台衣装のようで、単身で写っている。皇太子の望んだ写真ではない。
「それは?」ホームズがまだ手に持っている書類に私は尋ねた。
「これは、アタシへの手紙。それより殿下、申し訳ありません。」
「いや、問題の手紙は全て、取り戻せた。」ルドルフ皇太子はソファに腰をおろし、息を深く吸った。
「なんて書いてあるんだい?」
私に促され、ホームズは封を切ると、読み始めた。
「親愛なるシャーロック・ホームズ様
この手紙があなたの手元にある頃、
わたくしは、大西洋の真ん中にいることでしょう。
わたくしは、ルドルフ殿下にちょっと意地悪をするつもりでした。
本気ではなかったのです。
ですが殿下が、人をやってわたくしの家を家探しするに及び
わたくしも覚悟を決めたのです。
ですが、意地を張って何になりましょう。誰も幸せにはならないのです。
わたくしが、覚悟を決めた時、一番心配したのは二人の方だけです。
一人は、アルセーヌ・ルパン様、そして、
もう一人はシャーロック・ホームズ様、あなたです。
じつは、ルパン様からは、ルドルフ殿下のご依頼を、
手紙で知らせていただきましたの。
それで、わたくし、大陸から英国に逃げてきました。
アメリカに渡るには、英国の方が、船は多いですから、
それともう一つ、
シャーロック・ホームズ様、あなたにお会いしたかったのです。
どのような方か、わたくし、興味がありました。はしたない事ですけれど
でも、それが浅はかな考えだったことを、わたくし、思い知らされました。
あの牧師さんが、あなただったとは全く気がつきませんでした。
お見事でしたわ。ホームズ様。
歌手という仕事柄、変装に近いことをいたします。
そのことには自信があったのですが、全く騙されてしまいました。
執事のノートンから牧師さんがわたくしの部屋を見ていたときいて、
急いで男装し、ベーカー街221Bに先回りしました。
あなたが戻ってきたのを見て、声をかけましたのよ。覚えておいでかしら。
これは危ないと思い、予定より1日早かったのですが、出発しました。
ホームズ様、ルドルフ殿下にお伝えください。
あの手紙は、青春の思い出として、一生大切に持っているつもりでしたが
殿下のご心痛を鑑みて、全てお返しいたします。
ただ、あの写真だけは、わたくしたちの思い出として、
わたくしが大切に預かります。
決してお父上、フランツ・ヨーゼフ1世陛下には、お渡しいたしませんから
ご安心下さい。
殿下が一日も早く、オーストリア・ハンガリー帝国の玉座に就かれることを
遠くアメリカの地より、お祈り申し上げます。と
ウィーン市民 アイリーネ・アドラー 」
読み終わっても、ホームズは石像のように、身じろぎもしなかった。
ルドルフ皇太子はソファに深々と腰をおろし、顔を手で覆っている。その指の隙間から涙があふれ出した。
「アイリーネ・・・アイリーネ・・・」
どれほど時がたったであろうか、皇太子は立ちあがり、暖炉に火をつけると、手紙の束を一枚一枚丁寧に燃やし始めた。手紙が燃え、灰になり、その灰の火が消えるまで、ルドルフ皇太子は暖炉を見つめていた。
「ホームズさん、感謝します。何でもお望みものを」
「いいえ、アタシは失敗したの。完敗だわ。あの女をただの女と高を括った罰が当たったのよ。」
ホームズがこれほど素直に負けを認めるのは初めてだった。私はびっくりした。
「本当に危なかったわ。あの女の気立てがまっすぐでなかったら、取り返しのつかないことに、本当に、殿下、ごめんなさい。」
「あの性格でなければ、私も愛したりはしません。」ルドルフ皇太子は静かにほほ笑み、エメラルドの指輪を手渡そうとした。それを押しとどめ、ホームズは言った。
「もし、差し支えなかったらですけど、このお写真をいただけないかしら」
「アイリーネの写真を?なぜ?」殿下は不思議そうに尋ねた。
「だって、このアタシを完敗させたただ一人の女ですもの。あの女は。」
それから、3カ月ほどたったころのことだ。
ベーカー街221Bに遊びに行くと、シャーロック・ホームズが私に新聞の切り抜きを見せた。アメリカの新聞である。
「ええっと、謎の篤志家、女性権利団体に寄付?物好きな人がいるもんだねえ。何々、団体主催者は、歌手のアイリーネ・アドラー女史、へえ、彼女頑張ってるんだなあ。と、いうことは、その篤志家って」
「多分、皇太子殿下よ、ハプスブルグ帝国の・・・」
「珍しいね、ホームズ君。君が終わった事件のことを言うなんて。」
「それは、あの女のことは一生忘れられないわ。アタシが負けたただ一人の女だもの」
「君もしつこいねえ。」
アイリーネ・アドラーは、のちにアメリカで婦人参政権の活動をするようになる。
しかし、彼女の活躍をルドルフ皇太子が知ることは無かった。
皇太子ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンは
1889年1月30日、マイヤーリンクの館で17歳の少女と共に、遺体で発見された。
情死とも保守派による暗殺ともいわれているが真相は不明である。
おそらく永久に不明であろう。